左遷先は月運行局分局 ――追放ヒロインのスキルで、公務も恋も大逆転

第5話 『第一の大逆転:屋台祭の結界崩壊』

 電話は一コールで取る。翼は受話器を耳に当てると、相手の言葉を一拍おいて復唱した。『申請書の場所ですね、三番窓口の左です。』復唱は安心を作る。安心は、次の質問を減らす。
 最後に星芽が言う。『見えると、動ける。』付箋は色ごとに束になり、次回のアクションリストに移された。会議の余韻は短く、歩き出す音が長い。

 朝一番、港風は甘い。砂糖を焦がす匂いがテント群の縫い目から滲み、釣鐘のようなチャイムが低く揺れている。屋台祭、本番。分局のブース前には可視化パネル、白板、家訓カードの小型版、そして“右逆/十歩/二肩半/拾い音なし”の札。仮更新は昨夜のうちに許可が下り、今日は“証明する日”だ。平均ではなく、今で。

 最初の事件は、昼前。南の結界ピラーが、突然“鳴かなく”なった。鳴かないのは故障ではない、近づき方の問題だ――ことみが首を傾げ、耳を澄ませる。欄干の鳴きが半音下がり、子どもの足音が半拍早い。玲空のギターは沈黙し、風見鶏の尾がうろうろする。咲那はΔψを一度だけ見て、板帳に点を打つ。『いま、二度下げ、半歩戻す』。翼が木片を噛ませ、善裕がピラーの根元に“戻り矢印”の札を伏せた。

 そこへ現れたのが、観光局の外注業者・藤見。白い作業服にきっちり折られた袖。「仮更新で景観が崩れている。結界が鳴かないのも、そのせいだ」――言葉はきっぱり、視線は客の方。濡れ衣は、派手な声から始まる。

 「じゃあ、やるだけやって、見えるようにしましょう」咲那はそう言って、公開の“結界検査”を組み立てた。やることは簡単で、順序はいつも通り――耳→足→目→笑い。まず耳。ことみが音叉を鳴らし、周囲の音を“拾わない”時間をつくる。拾い音が消えた瞬間、ピラーは小さく鳴いた。次に足。二肩半を保った列を十歩進ませ、戻り矢印で半歩だけ戻す。目は――伏せ札を二枚、ピラーの根元と屋台の脚へ。最後に笑い。玲空が「“鳴かない”って三回言ってから鳴いて」と言うと、子どもが真似をして、場が一拍、ほどけた。

 ピラーは正常だ。鳴かないのではなく、鳴きを“遮って”いたのは、藤見の持ち込んだ旧式の金具――R-標記が逆の止め具。翼が白板に同じ止め具を描き、Rの向きを裏返して見せる。藤見は顔を赤くし、「そんなはずは」と繰り返す。『はず』は、現場では証拠にならない。

 証拠は、音と足と光で作る。咲那は金具を表向きに付け直し、ピラーのわずかな鳴きの戻り時間をことみに数えてもらう。三秒。次に、裏向きに付け直す。鳴きは消え、風見鶏が落ち着かず、欄干が軋みを溜める。やり直し。三秒。可視化パネルの“現在”列に、二枚の写真と一行メモが並んだ――『R正:3s/R逆:無音+視線渋滞』。

 公開の場で、濡れ衣は静かに返上された。拍手の前にチャイムが一度だけ鳴り、祖母の屋台から白胡麻の飴が差し入れられる。藤見は作業服の袖を肩までまくり、「向き、直します」とだけ言った。言い訳より、やり直しの方が短い。

 ここからが大逆転だ。規定は味方。仮更新が“改変ではない”ことを示すには、戻れるを先に作ればよい。倖菜が承認台に砂時計を置き、麻理江が第三者ログのシャッターを切る。翼は『読みやすさ>かっこよさ』の札を高めの位置へ。善裕は白板で“戻り矢印”を一つ増やし、子どもに貸したマーカーで太く塗られた先端が、やけに頼もしい。

 午後、中央広場の導線が崩れた。屋台が一本、予定外の角度で張り出し、列は直線にこだわり始める。直線は、混む。そこで“右逆”の応用――左逆の札を試す。札は写真に写らない薄さで伏せ、視線だけをひっかける。人の足は速度を落とし、二肩半がそろっていく。ことみが指を二本立て、「今」。欄干が半音戻った。Δψは2.7°のまま、十分だ。

 「景観が――」観光局の担当者が言いかけるのを、倖菜が朱で遮る。「景観=読みやすさ×記録性。粉の白を言葉の白に置換済み」――掲示板の小札〈二肩半/十歩/拾い音なし〉を示し、写真の“白”の整いを指差す。平均の帯グラフは今日も沈黙しているが、現在の折れ線は歌い続ける。

 日暮れ前、仕上げのデモを一本。『結界の鳴きは“戻れる”で守る』。翼があえて混むルートに器材を回し、善裕が角ごとに一秒止まる。結果は直線案より七分短縮。拍子の前にチャイムが一度。玲空が笑いながら「直線は甘い」と歌い、観客の肩が一斉に落ちる。

 終演後、藤見が帽子を取って頭を下げた。「R、逆でした」。短い。短いから、届く。咲那は板帳に二行――『結界崩壊の犯人=旧式R逆』『濡れ衣返上=公開実験+記録+笑い』。朱は旗ではない、句読点。句点が置かれたら、文章は次に進む。

 この日の“白”はよく整っていた。昆布茶の湯気はνのカードの横で揺れ、写真の白は余白を広げる。星芽は○を作って左右へ開き、「みぎ、ぎゃく」。二語の間に欠伸を一つ。倖菜が毛布を肩に載せ、「続きは明日」。

 夜更け。分局の外で、咲那は伏せ札の跡をなぞり、紙の繊維が路面に残した粒を指先で弾いた。消える道具で、残る歩き方を作る。板帳の端に、小さく『第一の大逆転=濡れ衣→真犯人→“戻れる”の提示』とまとめ、点のような句点で締める。点は小さいが、明日を呼ぶ。

 公開実験の続き。倖菜は“記録性”を可視化するため、写真+一行メモの掲示板をパネルの下に増設した。写真は“今”の証拠で、メモは“誰が・何を・どうした”を短く示す。長い文は歩行を遅らせ、短い文は歩行を整える。麻理江が貼るたびに、観客の視線が小さく頷くように上下する。頷きは、合意の最小単位だ。

 藤見は悔しさで早口になり、R-標記の規格書を広げて反論した。規格書は正しい。正しいが、今はそこにいない。咲那は規格書の該当ページを指で押さえ、「これは“つけおわった後に撮る写真”のための標記。今日は“つけるとき”の向きが問題」と静かに言う。言葉は短く、視線は白板の矢印に誘導する。白板は、場の辞書だ。

 ことみが一歩前へ出た。音の説明は難しい。難しいから、短くする。「“鳴く”は、息が通るってこと。“鳴かない”は、息が詰まるってこと」。彼女はピラーに手を当て、軽く叩いた。薄い“コーン”。その音の後ろに、子どもの笑い声が一拍遅れて重なる。息が通っている証拠だ。観客の肩がまた一つ、下がった。

 祭主がやって来て、短く礼を言う。「見えた」。それで十分だ。見えたら、町は自分で歩き方を直す。翼は「記念に」と言って、逆向きの矢印を描いた紙を藤見に手渡した。藤見は苦笑し、「現場の辞書に、載せておきます」。その言い方が少し嬉しくて、咲那は板帳に『辞書=白板+可視化パネル+一行メモ』と書き足した。

 夕方の混雑ピーク。“右逆/左逆”の札は一枚ずつで効かせるのが原則だが、今回は二枚同時に使う場面があった。視線の文章が二行になる。二行になると、理解が遅くなることもある。でも、今回は“遅さ”が必要だった。速度が落ちたから、押し合いは消えた。翼は「二段構えって、歌のハモリみたいだね」と笑う。チャイムが合いの手。笑いは、場の復調。

 片付けの最中、善裕が黙ってR-止め具の在庫を全部確認していた。裏向きに付けた跡がないか、一つずつ。数えるという行為は、感情を沈める。彼の指は大きいが、数え方は丁寧だ。星芽が横で指を折り、同じ数をもう一度、静かに数え直した。二度数えるのは、信頼の作法。

 夜、分局の灯が落ちる直前、掲示板の余白がさらに広く見えた。写真の白がそろうと、余白が増える。余白が増えると、人は自分の言葉で読める。読む力は、歩く力になる。倖菜は朱で『公開の場=町の教室』と小さく記し、丸を一つ。朱は旗ではない。句読点があれば、次の文を言いやすい。

 最後に、星芽が○を作って左右へ開いた。「みぎ、ぎゃく」。二語で足りた一日を祝うみたいに、彼女は拍手を一度だけ、小さくした。その一拍が、町全体の合図に聞こえた。

 倖菜の朱は強くない。文末にだけ置く朱は、読む人の呼吸を乱さない。彼女は添削の赤を怖がる市民がいることを知っている。だから見出しは黒のまま、肝だけ静かに朱で示す。『ここだけ直せば、通ります』という合図。
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