左遷先は月運行局分局 ――追放ヒロインのスキルで、公務も恋も大逆転

第6話 『善裕、独断の近道』

 昼休み、案内ポスターを一歩手前に貼り替える。『左』の矢印は壁の角より手前に出すのが正解だと、今日わかった。小さな発見ほど、翌日には効いてくる。

 翌朝、善裕は誰より早く白板の前に立っていた。矢印の列に、太い“戻り矢印”を増やす。近道が好きで描いているのではない。戻れる速さを、人の目に映る形で置いておきたいのだ。善裕は口数が少ない。だから彼の矢印は、多弁だ。

 今日の課題は“搬入”。屋台の補充便が重なり、最短ルートはいつも通り詰まっている。藤見は“名誉回復”とばかりに先頭で張り切り、直線にこだわる。直線は混む。翼は荷台を押しながら、「遠回りに見える近道で抜きます」と肩で息をし、ことみは耳で角の鳴きを拾う。咲那は写真の順番を入れ替え、“うまくいった瞬間”を大きく、“失敗の理由”を横に小さく――見るたびに視線が戻れるように。

 善裕は、言い争わない。代わりに“実演”で語る。搬入口から見て左の小路は、角が多くて人気がない。でも、角には止まれる場所が多い。止まれる速さ=壊さない速さ。彼はマーカーで角ごとに小さな丸を描き、「ここで止まれる」と胸の内みたいに囁いた。誰も聞いていないようで、星芽だけが真剣に頷く。

 ルールは簡単だ。二肩半、十歩、拾い音なし。順序は耳→足→目→笑い。翼は両手を広げすぎて看板に肘をぶつけ、音だけ立派なガシャーン。笑いが一拍。笑いは証拠にもなる。ことみが「今」と囁き、欄干の鳴きが心持ち低い。Δψは2.7°で固定、札は伏せ、白は整える。

 搬入レースが始まった。直線派(藤見の隊)と戻り派(善裕の隊)。スタートの合図代わりに、玲空のチャイムが一度鳴る。直線派は最初の五十メートルで優位を作り、が、角で詰まる。戻り派は角ごとに一秒止まり、半歩戻し、視線を切り替える。十歩のリズムは、人の肩をそろえ、列の圧をほどく。数字は退屈で、拍子は軽い。軽い方が速い。

 最初の勝負どころは、倉庫前の“狭い谷”。直線派は無理にすれ違おうとして足がもつれ、声が少し荒れる。ことみが眉をひそめ、拾い音がノイズに変わりかける。善裕は合図を待たず、自分の白板の矢印に小さな丸を描き足した。「ここで止まれる」。その一秒で、谷の手前に“間”ができる。間ができると、足は丁寧になる。

 藤見が叫ぶ。「近道に決まってるだろ!」――善裕は答えない。答えの代わりに、角で必ず一秒止まる。翼が汗で前髪を貼り付け、「止まってるのに進んでる……」と呟く。咲那は板帳に一行――『直線は甘い、戻りは辛いが腹に残る』。祖母の屋台から白胡麻の飴が一つ転がり、ことみが拾って翼のポケットへねじ込む。甘さは遅さの言い訳にはならない。

 中盤、通りの“静寂側”が過不足になった。静かすぎる道は声が通らない。そこで善裕は札の位置を半歩ずらし、伏せ札に“左逆”を一枚追加。視線の文章が一行増え、足の文章が読みやすくなる。可視化パネルの現在列に写真が増え、麻理江の第三者ログに時刻が並ぶ。倖菜は承認台で砂時計を回し、「承認、五秒」。秒で押せば、分の議論がいらない。

 終盤、直線派が焦った。残り百メートル、直線は一見まっすぐで、実は人の気持ちが曲がる。焦りは足を速くするが、戻れなくもする。ことみが首を振る。拾い音が増え、欄干の鳴きが不規則。善裕は角の手前で、両手をぱっと開いた。二肩半。翼が反射的に同じ幅で両手を広げ、列の肩がそろう。揃った肩は、強い。強いけれど、壊さない。

 ゴール前、戻り派が並びかける。咲那は最後の角で写真を一枚撮り、伏せ札をそっと撫でた。写真が読みやすいと、街が読みやすい。読みやすい街は、速い。最後の十歩、翼は半歩戻してから踏み出し、荷台はすっと着地。チャイムが一度、先に鳴った。

 勝敗は僅差。戻り派の勝ち。時間差は四分。藤見は肩で息をし、帽子を取って頭をかいた。言い訳は出てこない。善裕は白板の“戻り矢印”をなぞってから、マーカーを置いた。「近道じゃない方が、結局は早い」。昨夜の言葉が、今日の体になった。

 レースの後、星芽が善裕の白板の前で○を作り、左右へ開いた。「みぎ、ぎゃく」。二語の間に、小さく笑う。善裕も、少し笑う。彼は照れ隠しに白板の端へ小さな丸を一つ足し、「ここで止まれる」とだけ言った。ことみはそれを聞いて、ほんの少しだけ耳を赤くする。拾ったのは、音か感情か。どちらにせよ、現場の今だ。

 夜、分局。掲示板の“平均/現在”の境目に、星芽が点を一つ。倖菜は朱で『搬入=戻れる速さで勝つ』と書き、麻理江は第三者ログをまとめる。玲空は「戻り矢印音頭」を口ずさみ、翼は白胡麻の飴を二つに割って一つをことみに渡す。甘さの半分は、共有で速くなる。

 咲那は板帳に二行――『近道=視線の誘惑』『戻り=行動の約束』。二行を括る一本の細い線を引き、線の外に『明日:ことみの耳』と小さく書いた。線を跨ぐと、人の足は半歩ゆっくりになる。その半歩が、次の大逆転を呼ぶ。

 勝負の顛末を、分局は教科書にまとめることにした。白板の写真、可視化パネルの折れ線、第三者ログのタイムスタンプ、そして“やり方の言葉”を短く。『角で一秒』『半歩戻る』『二肩半』『拾い音なし』――並べる順は耳→足→目→笑い。読むだけで、体がその順に動く。体が先に動けば、議論は短くなる。

 片付けのとき、藤見が善裕に頭を下げた。「負けました」。善裕は「勝ち負けじゃない」と言いかけて、言葉を飲み込んだ。かわりに白板の矢印を、もう一度太くなぞる。矢印は彼の言葉で、太さは強調だ。星芽がその上から○を描き、左右へ開いた。矢印と○の重なりが、ちょっとしたロゴに見える。翼が「これ、Tシャツにしない?」と小声で言って、倖菜に眉で止められた。

 ことみはレース中に拾った“乱れた音”を並べ、何がノイズの正体だったかを説明した。袋の擦れ、焦げた砂糖のパチパチ、看板の鎖の金属疲労。音は生もの。だから、今日の“今”でしか役に立たない。彼女はメモの最後に『静寂側の過不足=明日測る』と書いた。静かすぎると、指示が通らない。うるさすぎると、意味が通らない。間が足りないと、どちらも通らない。

 夕暮れ、港の風が強くなった。Δψの数字に触れず、伏せ札を二センチだけ寄せる。“数字をいじらず、道具で合わせる”のも現場の勘だ。写真の白は崩れず、足音は二拍子に戻る。玲空が「二拍子音頭」を口ずさみ、子どもが真似をする。笑いの前にチャイムが鳴り、場が一つ、整う。

 咲那は善裕に「どうして独断で止まれたんです?」と尋ねた。善裕は少し考え、「白板に丸を描いたら、俺が先に止まるしかなくなった」と言った。言葉にすると笑ってしまうが、実際その通りだ。記号は時々、人を正しい方へ縛る。良い縛りなら、速くなる。

 最後の最後、翼が転びかけ、ことみが反射で腕を掴んだ。二人の足が一瞬だけ絡まり、すぐにほどける。拾ったのは音か、手の温度か。翼は照れて、白胡麻の飴をことみに押し付けた。飴は半分こ。甘さのシェアは、速度のシェア。

 夜、掲示板の“平均/現在”の境目に、倖菜が細い鉛筆線をもう一本足した。線が二本になると、跨ぐ時に一拍分長くなる。長くなった一拍は、事故を減らす。麻理江は第三者ログの封をして、明日の“耳”の準備。『ことみの耳』――次の章題は、もう決まっている。
 分局を閉める前、善裕は白板の隅に小さな“戻り矢印”をもう一つ描いた。誰の目にも入らない位置。けれど朝いちばんに来た人は、必ずそこをまたぐ。見えないところに正しい向きを置く。そういう配慮が、町の“安全な速さ”を裏から支える。彼はマーカーのキャップを静かに閉じ、戸締まりの鍵を一回転だけ余分に回した。音は小さく、確かだった。
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