左遷先は月運行局分局 ――追放ヒロインのスキルで、公務も恋も大逆転
第7話 『ことみ、音で故障を聞き分ける』
書庫の棚卸しは、地味で、そして最高の投資だ。麻理江がラベルを印刷し、由利花が『使う側の言葉』に直す。『証明』は“住民票”に、『照会』は“問い合わせ”。探し物は名称で迷子になる。
夕方、提出者が肩の力を抜いて帰っていく。倖菜は朱ペンのキャップを静かに閉め、廊下の先の笑い声に耳を澄ます。安全に速い日は、こういう音で終わる。
朝の港は低い音で始まる。冷えた空気が布テントの裾を巻き込み、欄干の鳴きが半音だけ沈む。ことみはいつもより静かに歩いた。耳は楽器だ。磨けば、町の調子を合わせられる。今日は“故障の音”を探す日。祭の後片付けで露になった歯車の薄歯が、どこかにある。
第一報は魚市場の裏から。氷室へ繋がる巻き上げ機が、時々“鳴かない”。鳴かないのは故障ではなく、息が詰まっている。ことみは音叉を鳴らし、指で空気の輪郭を作る。『拾い音なし』の札を伏せ、二肩半で十歩。翼が巻き上げ機の前で胸を張りすぎ、看板に肩をぶつけて、音だけ立派なガシャーン。笑いが一拍。笑いは、耳の雑音を洗う。
巻き上げ機の内部は、古い歯車が二段。ことみは耳で階段を上がるように音程を辿った。低→中→低。ある歯だけ、半音の階に引っかかる。半音は薄歯のサインだ。咲那は板帳に“E♭→E”と書き、Δψの横に小さく点を打つ。Δψ=2.7°は角度の式だが、今日は耳の角度も測る。
公開点検をやる。順序はいつも通り――耳→足→目→笑い。まず耳。ことみが“拾わない”時間を作ると、巻き上げ機の鳴きが立ち上がる。足。二肩半で十歩、戻り矢印で半歩戻す。目。伏せ札を歯車の点検口と巻上げドラムの下へ。最後に笑い。玲空がチャイムで“ソ・ミ”を二度、低く鳴らし、薄歯が“ミ”で外れていることを場に示す。観客の肩が落ちたら、合図は通った。
善裕が工具箱を開け、薄歯の位置に印を付ける。藤見は昨日の件で妙に殊勝で、工具を持ちながらも口を挟まない。倖菜は承認台の砂時計を置き、「点検・交換、三十分ウィンドウで」と朱で一行。朱は旗ではない、句読点だ。句点が置かれると、作業は進む。
交換する間、ことみは“音の授業”を始めた。音を言葉に変えるのは難しい。だから短くする。「歯が薄いと、音の“立ち”が遅い。遅いと、隣の音と重なる。重なると、意味がぼやける」。子どもが真似して、口で“トトン、トン”と打つ。翼が「スネアのフラムだ」と無駄に格好つけ、倖菜に眉で止められる。
交換が終わった。巻き上げ機は“ドン、ドン”と息を通し、風見鶏は落ち着き、欄干の鳴きは半音上がる。ことみは音叉を胸の前で止め、「今」。麻理江が第三者ログの時刻を読み上げる。写真の白は崩れず、可視化パネルの“現在”に一行メモが増える。『薄歯→交換/E♭→E安定』。
昼、港の反対側で第二報。潮止めの小型ゲートが、ときどき“高すぎる”。高すぎる音は、油が痩せているサイン。ことみはポンプ室の前で耳を澄まし、手の平で音の高さを示す。咲那が板帳に『高音=粘性低下』と書き、善裕が“戻り矢印”の小さな丸を二つ足す。「ここで止まれる」。止まれる場所が増えれば、焦りは遅くなる。遅い焦りは、事故にならない。
ポンプ室の公開点検。耳→足→目→笑い。翼はわざと袋を擦ってノイズを作り、ことみがそれを指で摘まんで捨てる真似をする。観客が笑う。笑いは、説明の合図だ。倖菜は朱で『油点検=写真+一行+承認5秒』と書き、砂時計を回す。麻理江のログに秒が並び、玲空のチャイムが一度。
午後、風が出た。氷室の壁が反射板の役目を果たし、Δψは据え置き。ことみは『静寂側の過不足』を測るため、伏せ札を二センチずらし、拾い音なしのウィンドウを五秒から七秒へ延長した。静かすぎると声が通らない。うるさすぎると意味が通らない。間が足りないと、どちらも通らない。今日の“間”は七秒。七秒は長いが、事故は短くなる。
夕方、最後の案件。観光通りの看板の鎖が金属疲労で高く鳴く。高い音は目立つが、意味は薄い。ことみは鎖を指で押さえ、鳴きを半音落とした。翼が手伝って、看板の角度を二度だけ下げる。Δψは変えない。数字をいじらず、道具で合わせる。写真の白は崩れない。白が崩れないと、余白が増える。余白が増えると、人は自分の言葉で読める。
夜。ことみは分局の保育室で、星芽の寝息を聞いた。小さな“すー、はー”。彼女はそのリズムに合わせて、今日のメモを短く並べる。『薄歯交換/油補充/鎖抑制/静寂七秒』。四つ並べると、歌みたいになる。玲空がギターで合わせ、翼が今度は看板に肘をぶつけない。学習効果。
咲那は板帳の端に一行――『故障=音の文法ミス/修理=文法の修正』。文法が整うと、町の文章は読みやすくなる。読みやすい町は、速い。そして安全だ。倖菜は朱で『夜間落潮、温度要因の影響』と書き、丸を一つ。氷室ネットワークの話に移る準備。明日の主役は、星芽。
窓の外、港の灯が二つ、三つと消えていく。静寂の七秒が、自然に伸びて八秒になった。ことみは耳でその一秒を拾い、「続きへ」と小さく言った。
ことみは“耳地図”を作ることにした。港の角、階段、狭い谷、氷室の吐息の出口――音の高さと“戻り時間”を点で記し、線でつないでいく。地図といっても、色は使わない。白を残すためだ。白は読みやすさ。読みやすさは速さ。速さは“戻れる”と組み合わせて初めて安全になる。
耳地図の作り方は簡単で、やることは地味だ。①『拾い音なし』を七秒。②二肩半で十歩。③角で一秒停止。④半歩戻る。すべてを終えたら、チャイムを一打。玲空の音は、合図であり、句読点でもある。倖菜は朱で『耳地図=第三者ログ必須』と書き、小さな丸を三つ。丸が三つあると、誰でも読み方が分かる。
善裕は白板に“戻り矢印”の群れを描き、耳地図の“止まれる丸”と一対一で対応させた。紙の上に“戻れる”が増えるたび、場の焦りは薄くなる。焦りが薄くなると、笑いが早く出る。笑いは、現場の健康診断だ。翼が『健康診断って好きじゃないけど、笑うやつなら受けたい』と妙な感想を述べ、ことみに半眼で見られる。
午後遅く、氷室ネットワークの一つが短く唸った。温度が一度上がると、音は半音上がる。ことみは耳で半音を捕まえ、伏せ札を二センチずらし、『拾い音なし』を五秒へ戻す。短くするのは、寒さで肩が固くなってきたからだ。足は肩から遅くなる。肩が固いと、遅いのに雑になる。雑は事故の前兆。だから“間”を調整する。
公開授業は続く。ことみは観客の一人に音叉を渡し、『自分の“今”を鳴らして』と言った。音は人それぞれで、正しい/間違いの話ではない。自分の今を鳴らすと、人は自分の速度に気づく。気づいた人は、他人と合わせられる。合わせると、速くて安全になる。観客の肩が落ちるたび、音は低く良くなる。
日が沈み、港の灯りが水面に千切れて並ぶ。ことみは最後に、耳地図の端に小さく耳のマークを描いた。見つけた薄歯は交換済み。油は補充済み。鎖は抑制済み。静寂は七秒で適正。やったことの列は短いのに、効き目は長い。彼女は深く息をして、星芽の寝息の“すー、はー”に合わせてチャイムを二度、低く鳴らした。『続きへ』。
家路につく人波の脇で、ことみは耳地図を最後に一か所だけ修正した。昼より夜のほうが低くなる角が一つ。低い音は遠回りを選ばせる。遠回りは時に早い。彼女は小さく丸を足し、『ここで止まれる』と書いた。丸は小さいが、朝いちばんの人が必ず跨ぐ。見えないところに正しい向きを置く――それが、夜のやさしさだ。
分局に戻ると、掲示板の“平均/現在”の境目に、倖菜が細い鉛筆線を一本足していた。線を跨ぐと、人の足は半歩だけゆっくりになる。その半歩が、故障を未然に止める。ことみは静かに頷き、音叉をしまった。『続きへ』――夜間落潮の次は、アイドル式。
夕方、提出者が肩の力を抜いて帰っていく。倖菜は朱ペンのキャップを静かに閉め、廊下の先の笑い声に耳を澄ます。安全に速い日は、こういう音で終わる。
朝の港は低い音で始まる。冷えた空気が布テントの裾を巻き込み、欄干の鳴きが半音だけ沈む。ことみはいつもより静かに歩いた。耳は楽器だ。磨けば、町の調子を合わせられる。今日は“故障の音”を探す日。祭の後片付けで露になった歯車の薄歯が、どこかにある。
第一報は魚市場の裏から。氷室へ繋がる巻き上げ機が、時々“鳴かない”。鳴かないのは故障ではなく、息が詰まっている。ことみは音叉を鳴らし、指で空気の輪郭を作る。『拾い音なし』の札を伏せ、二肩半で十歩。翼が巻き上げ機の前で胸を張りすぎ、看板に肩をぶつけて、音だけ立派なガシャーン。笑いが一拍。笑いは、耳の雑音を洗う。
巻き上げ機の内部は、古い歯車が二段。ことみは耳で階段を上がるように音程を辿った。低→中→低。ある歯だけ、半音の階に引っかかる。半音は薄歯のサインだ。咲那は板帳に“E♭→E”と書き、Δψの横に小さく点を打つ。Δψ=2.7°は角度の式だが、今日は耳の角度も測る。
公開点検をやる。順序はいつも通り――耳→足→目→笑い。まず耳。ことみが“拾わない”時間を作ると、巻き上げ機の鳴きが立ち上がる。足。二肩半で十歩、戻り矢印で半歩戻す。目。伏せ札を歯車の点検口と巻上げドラムの下へ。最後に笑い。玲空がチャイムで“ソ・ミ”を二度、低く鳴らし、薄歯が“ミ”で外れていることを場に示す。観客の肩が落ちたら、合図は通った。
善裕が工具箱を開け、薄歯の位置に印を付ける。藤見は昨日の件で妙に殊勝で、工具を持ちながらも口を挟まない。倖菜は承認台の砂時計を置き、「点検・交換、三十分ウィンドウで」と朱で一行。朱は旗ではない、句読点だ。句点が置かれると、作業は進む。
交換する間、ことみは“音の授業”を始めた。音を言葉に変えるのは難しい。だから短くする。「歯が薄いと、音の“立ち”が遅い。遅いと、隣の音と重なる。重なると、意味がぼやける」。子どもが真似して、口で“トトン、トン”と打つ。翼が「スネアのフラムだ」と無駄に格好つけ、倖菜に眉で止められる。
交換が終わった。巻き上げ機は“ドン、ドン”と息を通し、風見鶏は落ち着き、欄干の鳴きは半音上がる。ことみは音叉を胸の前で止め、「今」。麻理江が第三者ログの時刻を読み上げる。写真の白は崩れず、可視化パネルの“現在”に一行メモが増える。『薄歯→交換/E♭→E安定』。
昼、港の反対側で第二報。潮止めの小型ゲートが、ときどき“高すぎる”。高すぎる音は、油が痩せているサイン。ことみはポンプ室の前で耳を澄まし、手の平で音の高さを示す。咲那が板帳に『高音=粘性低下』と書き、善裕が“戻り矢印”の小さな丸を二つ足す。「ここで止まれる」。止まれる場所が増えれば、焦りは遅くなる。遅い焦りは、事故にならない。
ポンプ室の公開点検。耳→足→目→笑い。翼はわざと袋を擦ってノイズを作り、ことみがそれを指で摘まんで捨てる真似をする。観客が笑う。笑いは、説明の合図だ。倖菜は朱で『油点検=写真+一行+承認5秒』と書き、砂時計を回す。麻理江のログに秒が並び、玲空のチャイムが一度。
午後、風が出た。氷室の壁が反射板の役目を果たし、Δψは据え置き。ことみは『静寂側の過不足』を測るため、伏せ札を二センチずらし、拾い音なしのウィンドウを五秒から七秒へ延長した。静かすぎると声が通らない。うるさすぎると意味が通らない。間が足りないと、どちらも通らない。今日の“間”は七秒。七秒は長いが、事故は短くなる。
夕方、最後の案件。観光通りの看板の鎖が金属疲労で高く鳴く。高い音は目立つが、意味は薄い。ことみは鎖を指で押さえ、鳴きを半音落とした。翼が手伝って、看板の角度を二度だけ下げる。Δψは変えない。数字をいじらず、道具で合わせる。写真の白は崩れない。白が崩れないと、余白が増える。余白が増えると、人は自分の言葉で読める。
夜。ことみは分局の保育室で、星芽の寝息を聞いた。小さな“すー、はー”。彼女はそのリズムに合わせて、今日のメモを短く並べる。『薄歯交換/油補充/鎖抑制/静寂七秒』。四つ並べると、歌みたいになる。玲空がギターで合わせ、翼が今度は看板に肘をぶつけない。学習効果。
咲那は板帳の端に一行――『故障=音の文法ミス/修理=文法の修正』。文法が整うと、町の文章は読みやすくなる。読みやすい町は、速い。そして安全だ。倖菜は朱で『夜間落潮、温度要因の影響』と書き、丸を一つ。氷室ネットワークの話に移る準備。明日の主役は、星芽。
窓の外、港の灯が二つ、三つと消えていく。静寂の七秒が、自然に伸びて八秒になった。ことみは耳でその一秒を拾い、「続きへ」と小さく言った。
ことみは“耳地図”を作ることにした。港の角、階段、狭い谷、氷室の吐息の出口――音の高さと“戻り時間”を点で記し、線でつないでいく。地図といっても、色は使わない。白を残すためだ。白は読みやすさ。読みやすさは速さ。速さは“戻れる”と組み合わせて初めて安全になる。
耳地図の作り方は簡単で、やることは地味だ。①『拾い音なし』を七秒。②二肩半で十歩。③角で一秒停止。④半歩戻る。すべてを終えたら、チャイムを一打。玲空の音は、合図であり、句読点でもある。倖菜は朱で『耳地図=第三者ログ必須』と書き、小さな丸を三つ。丸が三つあると、誰でも読み方が分かる。
善裕は白板に“戻り矢印”の群れを描き、耳地図の“止まれる丸”と一対一で対応させた。紙の上に“戻れる”が増えるたび、場の焦りは薄くなる。焦りが薄くなると、笑いが早く出る。笑いは、現場の健康診断だ。翼が『健康診断って好きじゃないけど、笑うやつなら受けたい』と妙な感想を述べ、ことみに半眼で見られる。
午後遅く、氷室ネットワークの一つが短く唸った。温度が一度上がると、音は半音上がる。ことみは耳で半音を捕まえ、伏せ札を二センチずらし、『拾い音なし』を五秒へ戻す。短くするのは、寒さで肩が固くなってきたからだ。足は肩から遅くなる。肩が固いと、遅いのに雑になる。雑は事故の前兆。だから“間”を調整する。
公開授業は続く。ことみは観客の一人に音叉を渡し、『自分の“今”を鳴らして』と言った。音は人それぞれで、正しい/間違いの話ではない。自分の今を鳴らすと、人は自分の速度に気づく。気づいた人は、他人と合わせられる。合わせると、速くて安全になる。観客の肩が落ちるたび、音は低く良くなる。
日が沈み、港の灯りが水面に千切れて並ぶ。ことみは最後に、耳地図の端に小さく耳のマークを描いた。見つけた薄歯は交換済み。油は補充済み。鎖は抑制済み。静寂は七秒で適正。やったことの列は短いのに、効き目は長い。彼女は深く息をして、星芽の寝息の“すー、はー”に合わせてチャイムを二度、低く鳴らした。『続きへ』。
家路につく人波の脇で、ことみは耳地図を最後に一か所だけ修正した。昼より夜のほうが低くなる角が一つ。低い音は遠回りを選ばせる。遠回りは時に早い。彼女は小さく丸を足し、『ここで止まれる』と書いた。丸は小さいが、朝いちばんの人が必ず跨ぐ。見えないところに正しい向きを置く――それが、夜のやさしさだ。
分局に戻ると、掲示板の“平均/現在”の境目に、倖菜が細い鉛筆線を一本足していた。線を跨ぐと、人の足は半歩だけゆっくりになる。その半歩が、故障を未然に止める。ことみは静かに頷き、音叉をしまった。『続きへ』――夜間落潮の次は、アイドル式。