溺れるほどの愛は深くて重く、そして甘い
マンションに着くなり、視線で先に入るように言われる。それを察して玄関に入れば、すぐに後ろから鍵をかける音が聞こえた。
「ともひ、」
振り返りながら名前を呼びかけた時、ダンッという大きな音と共に、壁際に追い込まれた。電気のついていない暗い玄関で見下ろしてくる智弘の顔には、何の感情も浮かんでいない。
「……」
「智弘、?」
壁ドンのような体勢のまま、何も言わずに見下ろされる。時折苦虫を噛み潰したような表情をするも、何も言わない。
「…言いたいこと、言って?」
まっすぐ視線を向けたまま、ゆっくりと手を伸ばす。そして、彼の頬を優しくなぞると、ようやくピクリと反応した。
「智弘の言葉で教えてほしい。全部受け止めるから」
思い切ってそう言うと、ため息と共に抱きしめられた。表情の割に優しく抱擁に、ほんの少しだけ驚いてしまう。
「…俺と別れたいのは、あの男と親しくなりたいからか?」
耳元で聞こえたのは、低く唸るような声だった。
「あの男…?」
「向井、という男だ。たしか、美咲の後輩だっただろう」
その言葉に、慌てて首を振る。
「え、違うよ!?向井君は、ただの後輩っていうだけ!そもそも、教育係になったのだって、、」
「『だって』、なんだ?」
「………智弘の秘書になるために、少しでもいい成果を残したかっただけだよ。それに、部下を頑張って育てれば、会社の利益にもなると思ったの」
今まで言ったこともない下積み時代の話を、このタイミングでするとは思っていなかった。
ここまで頑張れたのは、智弘の力になりたかったから。優秀な人材が1人でも増えれば、その分会社に貢献できると思ったから。
そこに恋愛感情なんて一切ない。
智弘のことを好きだと思う気持ちが揺らいだことなんて、たったの一度も無い。
「……」
「別れ話をしたのは、智弘以外に好きな人ができたからじゃないの。それは信じてくれない、かな」
わがままなことを言っている自覚はある。それで、彼を困らせているのも理解している。
でも、智弘への気持ちだけは信じて欲しかった。