溺れるほどの愛は深くて重く、そして甘い
 そんなことを思いながら先輩に近づくと、パァと顔を明るくされた。

「前田さん!本当にありがとう!」
「お久しぶりです、先輩。何から手をつけましょうか」
「早速で申し訳ないけど、溜まってる請求書の処理と、この提案書のチェックをお願いできないかな。とにかく量が多くて…」
「はい、お任せください」

 内線では敬語だったものの、対面すれば先輩は砕けた口調になった。内戦越しということで、一応智弘が聞いている可能性も考慮してくれたのだろう。今日はいないものの、いる時にタメ口で話すと色々指摘されかねない。
 
 私はすぐに空いているデスクに座り、パソコンを立ち上げた。事務処理は私の得意分野だ。秘書業務は主にスケジュール管理や対外交渉だが、下積み時代に培った処理能力は健在である。
 頭の中で優先順位を組み替え、処理速度を最適化する。請求書の金額と内訳を瞬時に照合し、チェック漏れがないか確認しながらシステムに入力していく。

「前田さん、あの……こちらの計算が合わなくて。どこの数字を拾っているか教えていただけませんか?」

 近くにいた後輩に声をかけられる。私は後輩が差し出したパソコンの画面を見て、正確かつ端的に答えた。

「それは、第3四半期の売上計上分ですね。ただし、今期の特別割引キャンペーン適用分は除外されています。データソースは『F-15』ではなく、『F-15-B』を使ってください」
「え、あ、なるほど!ありがとうございます!」

 テキパキと的確な指示を出し、積み上がっていた書類の山を次々と捌いていく。久々に現場の活気の中に身を置くのも悪くない。ここには「櫻谷智弘の秘書」ではない、「前田美咲」という1人の社員がいるだけだった。
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