溺れるほどの愛は深くて重く、そして甘い
 若干混んでいるものの、ついさっき急行が出たばかりだったのか、会話できる程度の余裕はあった。

「でも、本当に助かったんですよ。風邪は流行るし、もう大変で…」
「繁忙期だと体調崩しやすくなるもんね」

 そんな話をしながらも、電車は進む。大体は仕事の話をし、彼の苦悩にひたすら頷いた。かつて所属していた部署と言えど、人によって感じることも抱える悩みも変わる。どうせなら、少しでも現場の情報や悩みは収集しておきたかった。

「先輩はどうなんですか?」
「え?何が?」
「仕事ですよ。秘書という仕事は大変だと聞きます」

 急に振られた話題に驚けば、彼はコテンと首を傾げた。そして、じっと私の目を見つめる。答えないわけにはいかず、渋々答える。

「あー…大変だけれど、やりがいもあるよ。それに、」

 智弘との関係も良好だし。
 そう言おうとして、寸前のところで呑み込んだ。余計なことを言えば、向井君を焚きつけかねない。

「…櫻谷様ですか?」
 
 その言葉に、無意識の内に反応してしまった。いつの間にか逸らしていた視線を彼に向けると、真顔で私のことを見つめていた。それが、無性に怖い。

「先輩、本気で櫻谷様と今後を共にするつもりですか?」
「向井く、」
「俺は、先輩に幸せになってほしいんです。だから、」

 
『次は××、××。お降りの方は___』


「! ごめんなさい。もう、降りないと」

 アナウンスにハッとした。彼の言葉を遮ってドアの近くに寄ろうとするも、手を取られる。そして、

「先輩、俺は先輩のことを幸せにできます」
「……」
「1回でいいんです。俺とデートしてください」

 彼の発した言葉を認識すると共に、ヒュッと喉が鳴る。
 それは、

「私に、智弘のことを裏切れと?」

 思わず咎めるように言うと、彼は気まずそうにしながらも首を横に振った。違うというのなら、一体どういうことなのだろうか。

「今すぐ返事はしないでください。お願いですから、一度持ち帰って考えてもらえませんか?」
「……」

 私は何も言えないまま彼の手を振り払い、早足で改札に向かった。駅のロータリーで振り返るも、向井君が追ってくる様子はなかった。
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