溺れるほどの愛は深くて重く、そして甘い
 腕を掴んだ手は一瞬で離れ、共に弾かれた様に声がした方を見た。
 その先には、

「智弘」
「櫻谷、様」

 私服に身を包んだ智弘が笑みを浮かべて立っていた。でも、目は笑っていない。蔑むような目で向井君のことを見つめていた。

 「様付けはやめてくれ。俺はこうして、一個人として君に向き合いに来たんだ」

 その証拠だとでも言うように、私服を示した智弘。きっとスーツを着て来なかったのは、御曹司としての立場を抜きにして向井君と話したかったからなのだろう。

「っ、先輩」
「私は『向井君が約束を破るまでは、直接介入しないでほしい』って智弘にお願いしていたの。だから、平和に今日が終わるなら、智弘は向井君とは会わないはずだった」

 __向井君が約束を破ったからこその現状だよ。
 
 言外にそう言うと、彼は苦虫を噛み潰したような顔になった。

 デートを受け入れるに辺り、智弘は「せめて、常に状況の把握ができるようにしておいて欲しい」と言った。私はそれを承諾し、腕時計に音を拾うことのできるGPSを取り付けた。故障する可能性も考慮し、他にも複数個所に同様の物を取り付けていた。浮気同然の行動をしている自覚はあったため、智弘の提案はもっともだと思ったし、私もむしろつけて欲しいと思っていたほどだった。

 そして、私はその上で1つだけお願いをした。
 それは、『向井君が約束を破るまでは、直接介入はしないでほしい』というもの。元々向井君に提示する予定だった『許可なく私に触れないこと』と関連した約束だった。

 もし彼が、本当に指1本触れてこないなら、私自身が自分の言葉で向井君を真っ向から振るから、と。
 でも、彼が私に触れてくるとしたら、それは私の身に危険が迫った時。勝手な願いではあるものの、その時までは私のことを信じて見守っていて欲しいとお願いしたのだ。我ながら、無茶なお願いだったと思う。
 
 でもそれが、今となっては智弘と私の間にある信頼が本物であると証明する確固たるものになっていた。
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