愛する祖国の皆様、私のことは忘れてくださって結構です~捨てられた公爵令嬢の手記から始まる、残された者たちの末路~

25.蛇を捕らえる瞬間

 ラセター侯爵について、ラバラルはほんの少ししか知らない。
 軍務省の大臣であったが、もう遥か前に役職からは離れて隠居していたはずだ。

 派閥の勢力は相当なものだが、いかなる政局にも中立。
 ラバラルはほとんど彼に注目していなかった。

「貴公、独断でこんな横暴をしたのか! 許されない狼藉、宣戦布告にも等しい蛮行だぞ!」
「狼藉と蛮行の誹りは甘んじて受けましょう。毒蛇を捕らえるためとはいえ、武力行使は不本意でございました」

 ラセターの目が細められ、ラバラルを睨む。
 その眼光は鋭く、乱心などはしていない。

「しかし独断ではありません。これはエスカリーナの総意、国を守るための決断でございます」
「なんだと……!?」

 ラバラルが目を剥くと、さらに兵の波が割れた。

 同時に兵の目が忠誠心に満ち、決意に燃えていくのがわかる。
 そこでラバラルは、この武力行使を実行した張本人に気が付いた。

「シャンテ姫殿下……っ」

 白のドレスを身にまとい、シャンテはゆっくりと兵の間を歩む。

 その足取りは軽やかにして威厳に満ち、このような状況下でも微笑んでいた。
 大国レイデフォンの大使館を襲撃したというのに、不安な様子は微塵もない。

 それゆえに兵も動揺することなく、姫を誇り高く出迎えている。
 シャンテはラバラルの前に立つと、ひとつの小瓶を取り出した。

 それはラバラルがバネッサへと渡した、桃色の鳥の小瓶であった。

「ラバラル様、多くは問いません。この毒を王妃バネッサに渡したのはあなたですね?」
「な、なにを! そんな瓶など知らない!」

 ラバラルは焦りながら首を振った。

(愚かなバネッサめ! マズロー山に行くのに、桃色の鳥の毒瓶を持っていかなかったのか! マズい……!)

 馬鹿だとは思っていたが、ここまでとは予想外だった。

 最大の証拠品を手元に置かず、夫の元に行ってしまうとは。
 ラバラルの額と背中から汗がとめどもなく流れてくる。

「王妃が何を持っているか、関係あるか! こんな仕打ちを私に働く理由にはならないぞ!」
「そう仰ると思いました。ですが、そのような言い訳は通用いたしません」

 ラセター侯爵が恭しく、シャンテにいくつもの小瓶を差し出す。

 それらの小瓶は大使館の執務室に隠してあった、ラバラルが使うための予備の毒であった。

 こんな短時間でどこまで。どこまでシャンテは調べ上げているのか。
 シャンテが差し出されたものから、オレンジの鶴のデザインの小瓶を選ぶ。

「瓶のデザインは違いますが、中身は……ええ、桃色の鳥と同じはずです」

 シャンテの言葉にラバラルは愕然とする。

 確かにバネッサへ渡した毒とオレンジの鶴の小瓶の毒は瓶こそ違うが、同じものだ。
 しかし、それは最高機密のはず。どこからそんな情報が漏れたのか――。

「そうですよね、シューファ」
「はい、間違いありません」

 答えたのはラバラルの腹心、紫髪のデューンであった。

 デューンは悠然とエスカリーナ兵の中から歩み出て、シャンテに跪く。
 見るとデューンは手錠も何もされていない。

 全てを悟ったラバラルが絶叫する。

「お前か! デューン、お前が裏切ったのか!?」

 ちらりとラバラルに横目を向けたデューンは冷めきっていた。

「ラバラル次官、裏切ったのはあなたではないですか?」
「何……!?」
「あなたはエスカリーナに毒を撒き、何人も害しました。それだけでなく王妃様を言葉巧みに誘導して……そしてさらには、その王妃様と不義を働いた。これがエスカリーナに対する裏切りでなくて、何なのですか?」
「お、お前は――」

 シャンテが静かに目を閉じて、開けた。
 その瞳はデューンをしっかりと映している。

「シューファ、長のお役目ご苦労様でした」
「私ごときにもったいなき御言葉。しかし私は……手を汚しました。エスカリーナを害し、悪を見過ごしてきました。私自身にも大いに罪があり、万死に値します。ただいまをもって私の罪深き職も終わりました。どうか、私めに正義のお裁きを」
「あなたに罪はありません。クロエ姉様は全てを見越して、あなたをレイデフォンに仕えさせたのです。罪咎は王家が引き受けましょう」
「ば、馬鹿な!? クロエだと……!」

 ラバラルがデューンをエスカリーナのスパイだと見抜けなかったのには理由があった。
 デューンは間違いなくレイデフォンの生まれで、経歴に不審な点はひとつもないはず。

「驚くことではないでしょう。クロエ姉様はずっと昔からあなたがたを警戒していた。あなたがたと同じことを考え、実行していたのです」
「うっ、うう……っ!」

 ラバラルはなまじ明晰な頭脳を持つだけに、シャンテの言葉を即座に理解した。

 つまりクロエは疑っていたわけだ。レイデフォンの仕掛けた計略を。
 そしてレイデフォンが仕掛けるより前に、クロエは仕掛けていた。

 デューンが誰に聞こえるともなく呟く。

「……クロエ様は私の才能を見出し、役目を与えてくださいました。あの御方こそエスカリーナだけでなく、もっと広く世界を救う御方です」

 その盲信ぶりは神を信仰するかのごとく。

 ラバラルはクロエのことをそこまで知らない。
 だが、デューンほどの男をここまで心酔させてスパイとして動かすとは。

「クロエ姉様はデューンを動かすのは一度だけと仰っておりました。あなたがたレイデフォンが巣から出てきて毒牙を剥き出しにする、その瞬間だけが隙であると」

 ラバラルの心に絶望が忍び寄る。

 なんという忍耐と計画性。シャンテの言う通り、ラバラルは動きすぎた。
 しかしこれはバネッサを動かすのに必要なことだったのだ。

 他の人間に任せてもバネッサは動かないだろう。レイデフォンの元に誘導するには、ラバラルが動かなければならない。
 そして全ての用意が整った今こそ、言い逃れできない状況が完成してしまっていた。

「さぁ、何か申し開きはありますか?」
「うっ……あっ、ああ……」

 うめいたラバラルが必死に言葉を探す。

 今のシャンテには覚悟がある。レイデフォンの大使館まで攻撃したのだ。
 ラバラルがなんとか選んだ言葉は、レイデフォンにすがる一手であった。

「俺、俺をどうするつもりだ……!? 俺に手を出せば、レイデフォンが動くぞ!」

 もう言い逃れの余地はない。しかし、まだ望みはあるはずだ。
 動かぬ証拠があってもラバラルは大国レイデフォンからの外交官。その身分で逃げ切るしかない。シャンテはラバラルへの軽蔑を隠さず、宣言した。

「……いいでしょう。私もこれ以上の無法を押し通すつもりはありません。然るべき場にあなたを連行して、あなたを断罪いたします!」
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