愛する祖国の皆様、私のことは忘れてくださって結構です~捨てられた公爵令嬢の手記から始まる、残された者たちの末路~

27.終幕

「リンゼットに国を差し出すと言っても、エスカリーナでは納得しない者も多いだろうな」

 ラーゼはこつこつと靴を鳴らし、シャンテの前に立った。

「レイデフォンの使ったという毒をよこせ」
「こちらでございます」

 いくつもの小瓶を受け取ったラーゼは少し小瓶を眺めると、それらをいきなり放り投げた――ラバラルの前に。

 頑丈な瓶はコロコロとラバラルの目の前を転がる。
 全く意図の読めない行動であった。

「……これは何のつもりでしょうか?」
「飲め」
「は?」
「貴様を自害させれば、エスカリーナ統治は容易になるだろう。だから死ね」

 それは単純明快な理屈であった。

「さ、さきほど殿下は私めを――」
「そう、生きようが死のうがどうでも良かった。しかし今は貴様が死んだほうが得なようだ。……どうした、他人に毒は飲ませられても自分で飲む勇気はないか?」

 ラーゼが首を動かすと衛兵が集まり、ラバラルを羽交い締めにして口を開かせようとする。

「ひっ、ひぃぃっ!」

 隣でそんな様子を見させられたバネッサは腰を抜かしてしまった。

「私を殺せば! レイデフォンとリンゼットで戦争になる! そうでなくても、私を殺してもレイデフォンは手を引きませんよ!」
「いや、そんなことにはならぬ」

 ラーゼは静かに言ってから、シャンテを見やった。

「レイデフォンが動かない理由があります。お兄様がレイデフォンを頼った理由と同じく」
「言え」
「……エスカリーナに埋蔵されている石炭は尽きました。在庫も数か月しかありません」

 シャンテの告白にラバラルは目を剥いた。

 バネッサもそれは初めて聞いた。
 これこそがラセター侯爵も掴んでいた、エスカリーナの急所であった。

 石炭がなければエスカリーナの破綻は避けようがない。
 だからリンゼットに下るという決断を行ったのか。

「そ、そんな……!?」
「石炭の採掘量が危うくなったのは、ここ数年か」
「はい、その通りです。殿下もご存知だったのですね?」
「勘が働いた。それだけのことだ」

 ラーゼがつまらなさそうに答え、ラバラルの前に立つ。

「石炭のないエスカリーナに戦略的価値はない。レイデフォンが表立って、貴様を助けることはなかろう」
「うっ、ううっ……!!」

 ラーゼが指を鳴らすと、衛兵が無理やりラバラルに毒を飲ませようとした。
 惨めなラバラルは何とか逃れようともがき、手錠をかせられたまま暴れる。

「嫌だ! やめろ、俺に触るなぁっ!」
「往生際の悪い男だ。もういい、斬れ」

 衛兵が剣を抜き、あっさりとラバラルを背中から突き刺した。

「がはっ、あが……っ!」

 うめくラバラルが床に転がされる。そこに別の衛兵が剣を胸に突き立てた。

「ぐはっ……」

 ごぽごぽと喉から血を吐き出し、ラバラルの身体が痙攣して――動かなくなった。
 一連の流れをバネッサは現実とは受け止めていられなかった。

「嘘、嘘よ……こんなの……」

 自分と情を交わした男があっけなく死んだ。
 バネッサが歯をカチカチと鳴らしてラーゼを見上げる。

 ラーゼは薄く笑って歯を見せていた。

 目の前で、自分の命令で人が死んで。
 違う。この男はバネッサのような成り上がりの王妃とは違うのだ。

 もちろんベルモンドやラバラルのような男とも決定的に異なる。
 どこまでも傲慢で苛烈で。人を殺すことに躊躇しない。

「残るは貴様だな」
「あっ、あぁあっ……」

 ラーゼが笑みを消し、バネッサを睨む。
 そこでラーゼは床に座るバネッサの前に屈んで、バネッサの顎に手を伸ばした。

「俺は貴様もどうでも良い。生きていようが死んでいようが」
「うっ、ああっ……ひぃいっ……」
「今死んだ隣のこの男は、生かすに足る理由がなかった。貴様はどうだ? 生かすべき理由を俺に示せるか?」

 ラーゼの言葉にシャンテがわずかに身を揺らした。

 どうやらこれはシャンテも予想外の行動だったらしい。
 バネッサは最後の望みをかけて、ラーゼの足元にすがりついた。

「な、なんでも! なんでもいたします!」
「…………」
「わ、私はこれでもエスカリーナの宝石と讃えられた女です! 私より美しい女はエスカリーナにはおりません!」

 バネッサは胸元を見せつけるようにラーゼへ自分を示した。

「奴隷でもなんでも、命さえ助けてもらえれば……誠心誠意、殿下にお仕えいたします! だ、だからどうか……っ!」
「その身体を差し出すというのか」
「も、もちろんです! 姉と比べても私は――」

 そこでバネッサはラーゼの急変に気付いた。

 ラーゼの真紅の瞳を覗き込むと、そこには殺意しか浮かんでいない。
 その瞳とは裏腹にラーゼは静かに話し始めた。

「貴様は俺の母によく似ているな」
「……え?」
「俺の母は節操がなく、女を武器にしてリンゼット皇帝の側妃にまで駆け上がった。皇帝だけだなく、大臣や吏僚にも身体を明け渡していた」

 ラーゼが手を広げながらバネッサの顔に伸び、強引に顔全体を掴む。

「それだけでなく、他の妃の子をも追い落とそうと手にかけて……それが露見した時、俺の母は皇帝にこう言ったそうだ」

 ぐぐぐっと顔を締め付けられ、バネッサは苦痛にうめく。

「あっ、がっ……! ああっ!」
「私はまだ美しい。また閨房で何なりと奉仕いたしますから、どうかお許しを――と俺の父たる皇帝は愚かにもその言葉を聞いてしまった」

 そこでラーゼはバネッサの顔から手を離し、立ち上がって身を翻した。

「俺の母は結局あの日まで同じことを言っていた。俺に粛清される、その日まで」
「――っ!!」
「だが、俺は知っている。お前はレイデフォンが仕立てた女だ。貴様はペドローサ公爵の血を引いていない」
「……え?」

 思っても見なかった言葉にバネッサが唖然とする。

「そうだな、シャンテ姫」
「はい、大使館から押収した資料で判明いたしました。この女はレイデフォンが作った……兄ベルモンドを誘惑するための武器です。生まれも経歴も全て――偽り」
「嘘、嘘よ! 私は、私の父は……っ!」
「レイデフォンと貴様の母が結託すれば、不可能ではないだろう? ペドローサ公爵は人が良すぎたな」

 恐らくベルモンドでなくても、高位貴族の誰かを引っ掛ければ儲け物だったのだろう。
 公爵家の娘になるのだから、同じ公爵家のどこか有望な男あたりか。

 ところがバネッサは最初から上手く行き過ぎてしまった。
 まさか何年もの婚約者を追い落とすほどの結果を出してしまうとは。

 もしかしたらレイデフォンにとっても予想外の成果だったのではないだろうか。

「そんな、嘘……!! 私はちゃんと、貴族の血を引いて……っ」
「レイデフォン生まれの貴様を、誰が保証すると言うんだ? まぁ、もう貴様の生まれよりも死に様のほうが意味があるだろうがな」

 ラーゼがバネッサを突き放し、床に転がした。
 息が詰まりそうなほどにバネッサが自分の胸を掴む。

「貴様は汚物にたかる蛆虫だ。虫を殺すのに理由は必要ない。不快だから殺す。この女を引っ立てて、首を落とせ」
「えっ、いやっ! ま、待って!!」

 バネッサは叫んでラーゼに掴みかかろうとするが、衛兵の動きのほうが遥かに早かった。
 両腕と身体を屈強な衛兵に掴まれ、なすすべもなくテントから連行される。

「いやっ、許して! やめてぇっ!」
「シャンテ姫よ。あの女の首をエスカリーナに持って帰るがいい。国王暗殺の首謀犯としてな」

 なおもわめくバネッサの叫びが一際高くなって、途切れた。
 これで終わったのだ。少なくともエスカリーナに巣食う悪は、死んだ。



 ベルモンドが意識を取り戻したのは、それからずっと後のことだった。
 とはいえ、目をやっと開けられて頷く程度のことしかできなかったが。

 もう春から夏になったようで、じんわりとした暑さを感じる。
 窓の外に目を向けると、そこは見慣れたエスカリーナの王都ではなかった。

 黒の尖塔が連なり、エスカリーナの数倍の威容を誇る大都市。
 来たことはないがいくつもの絵画で謳われているため、ここがどこかベルモンドにもすぐにわかった。

(……リンゼットの帝都か)

 身体に力が入らない。点滴を打たれ、寝かせられている。

「あっ……」

 目を開けていると医者が回診に来て、ベルモンドの覚醒を確認して驚いた。

「なんと、目を開けたぞ! こんなことが!」

 医者はそのまま慌てて去っていき、しばらくすると病室に人の気配がした。

「……目を覚まされたのですね」

 凛として優しさに満ちあふれた、元婚約者の声がした。
 わずかに動かせる瞳で声の主を確かめる。

 それは黒のドレスに身を包んだクロエ、隣にはラーゼもいた。
 ラーゼはクロエの手を取り、ベルモンドのそばへ立つ。

「医者の話では意識を取り戻せただけで奇跡。それ以上のことはできんだろうとのことだ」

 やはりそうなのか。諦めとともに納得もできた。まぶたと瞳以外動かせないのだから。

「あなたが倒れてから、五週間が経ちました。事の顛末をお聞きください」

 それからクロエは粛々と語った。

 エスカリーナ王国はリンゼット帝国の一部になり、レイデフォン王国は手を引いた。
 当面、エスカリーナはシャンテが取り仕切り、補佐にはラセター侯爵が置かれた。

 バネッサが首をはねられたことについて、悲しむ者はほとんどいなかった。
 彼女の浪費癖と奔放さはレイデフォン派の貴族からも不評を買っていたのだ。

「……彼女はエスカリーナの王室墓地に葬りました。それでよろしかったですね?」

 ラーゼは何も言わなかったが、この決定は不本意ではあったようだ。

 ベルモンドにだけ見える位置で首を少し傾けている。
 ベルモンドはまぶたを閉じて開けて、同意の意を示した。

(不思議だ。今となっては……あのバネッサを恨む気持ちもない)

 彼女を追い詰めてしまったのは、他ならぬベルモンドだった。

 結局、ベルモンドは愚かだったのだ。
 国が危機の際に王妃を信頼せず、突っ走ってしまった。

 クロエと婚約破棄した時から何も変わっていなかった。

「ラバラルは自害し、レイデフォンは何もしてきていません。あくまで表向きは」
「しばらくは外交政策を立て直し、シャンテ姫の様子を見るだろう。ずっと何もしない連中ではないがな」

 ラーゼの話を聞いても、ベルモンドは少しも心が乱れなかった。
 もう自分には何もできない。ここで話を聞くことくらいしか残されていないのだから。

「エスカリーナの王位は……もう少しでシャンテが継ぐことになるでしょう」

 今までなら、退位など決して受け入れられなかった。

 だが、こうなっては何もやれない。意思表示さえ満足にできない。
 諦めてみると、なんと空虚な王であったか。

「殿下のご好意により、あなたはいつまでもここにいられます。リンゼットの医療水準は世界有数。もしかしたら、いつか良くなるかも」

 相変わらず優しいのだなと思いながら、ベルモンドは笑いそうになってしまった。

 自分の身体のことはよくわかっていた。
 もう二度とエスカリーナの王として戻ることはないだろう。

 ベルモンドにはこの窓から無数の時間、歴史の流れを眺める以外に何も残されてはいない。

「他に聞きたいことはありますでしょうか?」

 質問ならたくさんあった。
 許されるなら、答えて欲しかった。

 なぜクロエは今、リンゼット帝国の皇太子の婚約者となっているのか。
 目で語る以外は何もできなかったが、クロエは理解してくれたようだった。

「…………。殿下、話が少し長くなります。お戻りになられてもよろしゅうございますよ」
「いいや、俺も聞いておこう」

 ラーゼが首を振った。

「この男には聞く義務がある。そして君が君自身をどのように語るのか、俺も興味がある」
「わかりました。ではベルモンド、話しましょう。この三年間、私が何をしてきたのか」
< 27 / 31 >

この作品をシェア

pagetop