愛する祖国の皆様、私のことは忘れてくださって結構です~捨てられた公爵令嬢の手記から始まる、残された者たちの末路~
クロエの物語

28.闇の中で

 バネッサがベルモンドに近付いていたのを、クロエは知っていた。
 しかし正直なことを言えば、まさか婚約破棄までは行かないだろうとも考えていた。

「意外でしたか。私は読み間違っていたのです。数字や利害に関わることなら、どんなことも即座に読み解けるのに。愛の機微だけは疎かったみたいです。自分で思うよりも遥かに」

 ベルモンドを見つめながらクロエははっきりと言い切った。

「私は――ベルモンド、あなたを愛していなかった」

 その言葉を聞くのに三年もかかってしまっていた。
 クロエはふたりの関係に気付いてから、ベルモンドに警告をした。

「もうあの子に近付くのはやめてください。あの子がかわいそうです」

 クロエは哀れなのはバネッサだと言った。

 わかっていたのだ、クロエには。
 バネッサは王妃になっても幸せにはなれないのだと。

 彼女が満ち足りることはなく、それゆえに浪費して周囲をも不幸にする。

「あの子はずっと奪われてきました。母が違うというだけで……」

 バネッサに対してクロエは常に同情的であった。
 レイデフォンに残された義妹。

 それは一歩間違えば自分の辿る運命だったかもしれないから。
 周囲の人間が反対すればするほど、ふたりは燃え上がり、絆を深めていった。

「婚約破棄されて、私は悔しかった。でもそれよりエスカリーナがきっと大変なことになると思いました」

 クロエはその時にはもう諦めていた。
 結局、恨もうと思ったけれど、詮無きことだった。

 クロエもまたエスカリーナの公爵令嬢として生まれついたのだから。

「あなたは王になるべくして生まれた。特別で選ばれた人――凡人であったとしても」

 クロエはエスカリーナを愛していた。
 山に囲まれた平和な国。たとえ小さくても水に恵まれ、歴史ある国。

「エスカリーナのことを私はずっと考え、生まれてきてから受け取ってきたものを返そうとしてきました。それが私の全てだったから」

 婚約破棄がなされ、クロエの立場は不安定になった。

 あのあと王都に居続ければ、命が危なかっただろう。
 あるいは内部対立がもっと早く深刻に進んでいたかもしれない。

 その頃、クロエは考えた。きっとエスカリーナは中立政策を捨ててレイデフォンに近寄るのではないかと。

 レイデフォンに寄れればマシだったが、そうならなかった時が問題だった。
 エスカリーナは伝統的に周辺国の貴族とも婚姻を重ねている。

 ベルモンドやバネッサが主導して、上手くいく可能性は低いとクロエは判断した。

 他に危険なのはベルモンドの行動に触発され、動かざるを得ない国々だった。
 療養生活と偽って、クロエはリンゼット帝国の国境沿いに向かった。

 王都からいなくなるクロエをベルモンドとバネッサは好都合として止めなかった。

「そして私は出会ったのです――この運命の方と」

 リンゼット帝国は三年前、エスカリーナよりも荒れていた。
 三年前のラーゼはまだ皇太子ではなく、皇子のひとりであった。

 皇太子の有力候補ではあったが、まだ立場は不安定極まりない。
 皇族同士の争いは死者が出るまでに発展し、日々多くの血が裏側で流れていたのだ。

 その日ラーゼは視察中、刺客に襲われた。
 隠密行動のはずがレイデフォンからの情報で危機に陥ったのだ。

 何人もの護衛が傷つき、進退窮まったラーゼは……思案した。
 ラーゼが唯一信頼できる護衛たち。置いていくことは考えたくなかった。

(見捨てるものか、だが……どうすればいい!?)

 国内ではどこに暗殺者がいるかわからない。
 誰に助けを求めべきか、信頼できる人間を見極める時間も足りなかった。

 なんとかラーゼが考えた奇策がエスカリーナに逃げ込むことだった。
 それが一番確実に追っ手を撒く方法であったのだ。

 エスカリーナに入り、さすがに刺客の気配は途絶えた。
 とはいえ傷に苦しむ護衛を抱えて、無様に野営をしなければならなかったが。

 まさにその夜、ラーゼは運命的な出会いを果たした。

「リンゼット帝国から、あなた方はなにゆえエスカリーナに侵入されたのですか?」

 優しげな響きに、芯ある声。
 彼女の出で立ちと護衛の武装はまさに高位貴族そのものであった。

 星に輝く薄い金の髪と確かな知性を備えた碧の瞳。
 ラーゼのことを知らなくても、黒の軍服を着たリンゼットの人間にここまで言える人間はそうはいないだろう。

(エスカリーナのこの場所は療養区で特定の貴族の支配下にはないはずだが……)

 だから逃げ込んだというのに。

 この女性は常に警戒していたというのか。彼女にも見覚えはない。
 しかし殺気立つ護衛を抑えてラーゼは丁重に答えた。

「領内に無断で立ち入りしたこと、心より詫びる。事が済み次第、すぐに退去する」

 それはラーゼの心からの言葉であった。
 エスカリーナの貴族と揉めるわけにはいかない。力任せに追い返されても苦境に陥る。

 そう考えていたラーゼに彼女が眉をひそめた。

「もしかして怪我人がいるのですか!?」
「……あ、ああ。戦闘が起こってしまって」
「早く言ってください! 医療の手配を!」

 その剣幕にラーゼは驚いてしまった。
 リンゼットなら無断侵入だけで大きな揉め事になる。

 その罪を問わないばかりか、治療まで行おうとするとは。
 エスカリーナの医療陣が到着して、ラーゼの護衛は皆一命を取り止めた。

(良かった、賭けに勝った……)

 誰も死なせることがなくて、ラーゼは安堵した。しかし疑問はあった。

 なぜ彼女はこんな助けをしてくれたのか。
 リンゼット帝国では血みどろの暗闘が続いている。

 この目の前の女性にとってはとばっちりでしかない、そんな出来事に彼女は真摯に向き合っているのだ。

「君は――」
「はい?」
「お人好しなのか?」

 馬鹿みたいな質問であったが、聞かずにはいられなかった。
 野営のそばで焚き火が燃える。

「こんなことをして、君に得があるのか?」
「……ありませんね」

 そこでクロエは寂しそうな笑顔を浮かべた。
 この世に絶望して、身を投げ出しそうな。

「ただ、利害や損得で考えることに疲れていたんです」

 普段のラーゼなら一笑に付すだろう。
 王侯貴族に生まれた者は、王侯貴族の生き方しかできない。

 できない者は淘汰され消えていく。

「一人も死者が出なかったんですよね? 今はそれだけで良しと思いたいのです。あなた方がリンゼットの何者であれ、なぜここにいるのであれ」
「……皮肉なものだ」

 彼女の横顔が痛々しく見えて、ラーゼの胸も痛んだ。
 今日ほど皇子の地位を疎ましく思ったことはなかったからだ。

 今のラーゼがリンゼット帝国で信じられる人間はごく少ない。
 暗殺者らを送り込んできたのは実の母か、それとも兄弟姉妹の誰かだろうか。

 そんな絶望の先、身内から追われて逃げ込んだ場所で無償の慈しみに出会うとは。

「俺も疲れた」
「あなたもですか?」
「四六時中、刺客から狙われればな。叩いても根を切れるわけではない。きりがない」
「…………」

 なぜこんなことを吐露したのか。
 それは目の前の女性の名前も知らず、何の利害関係もないからだ。

 離れれば終わる関係。だから言えた。

「外に武威をお示しになれば、国内の混乱は静まるでしょう」
「簡単に言うな」
「リンゼットに接する、ハルマート王国のナディル市は国からの税に苦しんでいると聞きます。軍を少々見せつければ、労せず武威を示せましょう」
「……なんだと?」
「他にも北にあるシュダイナー平原の自由都市は不作に苦しんでいます。今なら好条件で帝国の傘下に加わるでしょう」
「それをどこで聞いた……?」

 彼女が語った構想は、まさにラーゼが今裏で進めている戦略だった。
 ごく少数の側近しか知らない、父である皇帝にも秘密の戦略をどこで聞いたのか。

「外交に少々携わっていたので。不満の種を隠し切るのは難しいことです」

 彼女は静かに答えるが、そんな程度で手に入る情報ではなかった。
 よほど関係を築き、懐に入らねば手に入らない機密情報だ。

「君は……」

 ラーゼの問いにクロエは首を振った。

「あなたが何者か、知りたくありません。ただ、私はリンゼットとその近隣のためになるであろうことをお話しただけです」
「代価は要らないと?」
「傷ついた人を助けるのは善意です。善意に礼は必要ありません」
「……そうか」

 揺れ動くクロエの視線に、ラーゼは頷いた。
 彼女もきっと自分と同じなのだろうとラーゼは感じた。

 高い地位に生まれ、才覚があって――打ちひしがれた。
 自分ひとりで全てが済むのなら、こんなに楽なことはないというのに。

「なら、友になろう」
「え?」
「俺は君が気に入った。君と友になれたら、学ぶことも多く楽しいだろう」

 彼女は突然の申し出に困惑の色を浮かべた。
 貴族社会にあるまじき率直さであった。

「音楽は好きか?」
「え、はい……」

 ラーゼが手荷物の中から小さなハープを持ってきた。
 通常サイズの半分以下、特注品でなければあり得ないハープであった。

「見たことのないハープですね」
「そうだろうな。懇意にしている音楽家のデザインだ。出せる音域は狭く、音も荒い」
「あまり良い風に聞こえませんが……」
「だが、優しく響く」

 ラーゼはハープを肝臓のある位置に当てて、弾き始めた。
 彼が奏でたのはゆったりとして、静かな曲。

 闇夜に溶けて心に沁みる。
 彼の音楽は立ち振る舞いや言葉遣いとは真逆だった。

「……とても良い音です」

 クロエは言って、目を閉じた。
 そのまぶたから涙が流れる。

 初めて会った、誰ともわからない男性の奏でる音楽になぜこんなにも心を揺さぶれるのだろうか。こうしてラーゼとクロエは最初、お互いを知らないまま、秘密裏に友人関係を始めた。

 帝国に戻ったラーゼはクロエの提案を元に戦略を立てて、地盤固めを行う。
 その全てが上手く行った。

 皇太子争いの合間にラーゼは何度も手紙を出し、さらにはクロエへ会いに行った。
 素性は探らないというルールを課して。

 それは奇妙な関係であった。
 だが話せば話すほど、ふたりはお互いに共通点を見出していった。

 兄弟姉妹間での葛藤、国との軋轢、知的な側面……違いは音楽に対する愛だろうか。

 クロエにとって音楽は聴くもので奏でるものではなかった。
 反面、クロエが好きな園芸についてラーゼは何も知らなかった。

 ふたりは色々なことを手紙でやり取りして、趣味について話し合った。
 何も知らないまま、立場を越えての交流は……クロエには初めてのことで。

 それがとても心地良かった。
 ラーゼもそれは同じであった。政治的な暗闘に奔走し、疲弊した彼にとってクロエとの時間は何者にも代えがたいものになっていった。
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