サイレント&メロディアス

俺は、会場の裏口でさおりさんを待っていた。
すっかり薄闇に包まれた秋の夜はとても寒く、雨のにおいもした。
（まだドキドキしてる）
どうしてあんな大胆なことをしてしまったのだろう。ホールで歌いだすなんて。
（でも、さおりさんの想いをどうしてもあの子に伝えたくて）
お姉さんたちは終演後「ビックリしたよー!!　でもありがとね!!」「さおり喜んでたよ!!　本当にありがとう!!」と明るく言いながら、
俺の肩をバシバシたたいた。痛かった。痛かったけどお土産をもらったし、俺も彼女たちにちょっと高級な缶詰の詰め合わせを渡した。来る途中で買ったものだ。
ホワイエで子どもたちが口々に「楽しかった!!」「さおり先生すごかった!!」「さおり先生といっしょに歌えて嬉しかった!!」と話していて俺も飛べそうなくらい嬉しくなった。最初のきっかけになった親子らしいひとびとが、「最初に歌ってくださった男性はどちらにいらっしゃいますか？」と俺を探していたので、俺はさっと自動販売機の陰にかくれた。さおりさん、今日のヒーローはあなただ。俺じゃない。

10分ほど待って、フルートのケースを持ったさおりさんが同僚のひとたちと現れ、俺を見て一瞬ビックリした顔になり、
それからぱああああっと明るい顔になる。あ、待っててよかった。
「さおり先生、フルートあずかりますよ。先生の戸棚に入れときますね」
「さおり先生は打ち上げ行かないんですよね。旦那さん、こんなに寒いところで待っててくれましたよ。早くいっしょに帰ってあげてください」
「さおり先生。
先生の旦那さん、イケメンな上に歌まで上手なんですね」
同僚のひとたちがあいさつしたりからかったりするのに、さおりさんはいちいちぺこぺこ頭を下げたり、赤くなったり青くなったり、助けを求めるように俺をちらちら見たりした。あぁ、バレてたのか。やっぱり。俺が最初に歌いだしたのって。みんなプロの演奏家だもんな。耳が良いんだ。
ひととおりあいさつし終えたさおりさんが、俺のそばにテテテッと来て、こちらでも深々と頭を下げる。
「最高でしたよ。さおりさん」
俺がニコッと笑ってさおりさんの顔を見たら、さおりさんは誇らしげににっこり笑ったあと、
急に、ぽろぽろ泣き出した -

俺はそっとさおりさんにハンカチを差し出す。さおりさんはリサイタルのあと、不安や緊張から解放されてこうなる。俺には、彼女にハンカチを捧げることしかできないけれど、こう言うあなたもとても愛しく思います。さおりさん。