0時の鐘はあなたへ――推しと先輩が重なる夜
第1話「合言葉は0時ちょうど」
朝の空気は、湯気の薄いコーヒーみたいに頼りなくて、口をつけた途端に冷めていく。
コピー機の前で深呼吸をもう一度。紙の匂いとトナーの匂いが混ざって、眠気の残りをゆっくり押し流す。新卒二年目の私――一花は、背筋を伸ばして資料の束を抱え直した。
「一花さん、九時五分のレビュー、会議室Bで」
背後から声。総務の山下さんだ。にこりと笑ってすべてを把握している人、という感じの笑い方。
「ありがとうございます。……雨宮先輩は?」
「もう入ってるよ。相変わらず時間ぴったり」
「ですよね」
“相変わらず”の言葉を飲み込むように、私は会議室Bのドアを小さく二回ノックする。返事はない。でも入るしかない。ドアノブをひねると、部屋の奥、プロジェクターの白い光のそばに、先輩は静かに立っていた。
雨宮先輩。社内で一番、言葉が少ない人。
代わりに、赤いペンがよくしゃべる。
「……おはようございます」
「おはよう」
視線が一度だけこちらを撫でて、すぐに手元に落ちる。私の提出した広報資料は、たぶん彼の中ではもう組み立て直されていて、私はその過程をただ目撃する役目だ。
「ここ。三行目。主語が滑ってる」
「主語、ですか」
「“当社は”で始めて“我々”に変わると、身体が二つになる。一本で走らせて」
「一本の、身体で」
「うん」
ペン先が紙の上を走る音だけが、雨だれみたいに続く。刺さる、というより、骨の形に沿って削られていく感じ。痛みはある。でも、その痛みの先に、スッと呼吸が通る瞬間もある。
「四ページ目。ここで“お客様”を突然主語にするのは、逃げ」
「逃げ、ですか」
「責任の所在をぼかして気分よくする書き方。君の誠実さが消える」
誠実。目の奥がじん、とする言葉だ。
言ってほしかったわけじゃないのに、言われたくてがんばってきたみたいに、心臓が一回、強く跳ねた。
「じゃあ、ここは――」
「言い切る。事実だけ、五行で。飾らない」
「五行で……」
「できる。昨日までの君なら無理でも、今日はできる」
不意に、励まし。短い、でも確信のある声音。テーブルに置かれた彼のスマホの画面が、ふと灯って、鐘の音色がごく小さく鳴った。
ラ――ソ――ミ。低く、透明な三音。
私の身体が反射的に反応する。
それは、夜の配信が始まるときの、あの合図の音に似ていた。
――0:00の鐘、君だけに。
笑ってしまうくらい、同じ音。偶然。きっと偶然だ。社内の通知音なんてみんな似たり寄ったりで、私が神経質になっているだけ。
「どうした」
「いえ、なんでも」
視線を落とすと、紙の上で赤が光っていた。輪郭線みたいに、文字の周りをやさしく縁取る赤。
否定の線じゃないよ。輪郭をくっきりさせる線だよ。
夜のあの人――配信者“L”の声が、頭のどこかで重なる。
「じゃあ十時までに修正。会見の可能性がある。最終案を持って上に上げる」
「はい」
「喉、大丈夫?」
びくり、と肩が動いた。さっきの鐘よりずっと近いところで、先輩の声が落ちる。私が無意識に喉をさすっていたらしい。
「……大丈夫です」
「紅茶に蜂蜜。ミルクは入れない。呼吸が重くなる」
「え?」
「経験則」
短く言って、彼は席を立った。ジャケットの裾がひらりと揺れて、ドアの向こうに消える。残された空間には、プロジェクターの熱と、白紙に近い資料の余白。私は椅子に腰を下ろし、ペン先を紙に置いた。
事実だけ、五行で。
“核”を五行で――。
左の手のひらがじんわりと汗ばむ。目の前の言葉たちが、急に生きものみたいにうごめいて、どの骨を残してどの肉を削ぐか、判断を迫ってくる。
「一本の身体で走る」
小さく口に出してみる。自分に聞かせるように。
そのとき、チャット欄の青い流れが目に浮かんだ。夜ごと私はそこに、自分の一日を五行で沈めてきた。合言葉を合図に、息を整え、今日の“がんばった”を整理する時間。
――0:00の鐘、君だけに。
――Lin、よくがんばったね。
配信者Lは、名前を呼ばない。誰のものでもない声で、誰の心にも届く形を守っている。だからこそ、私には想像する余白があった。声の持ち主の年齢も顔も知らないけれど、言葉の骨格の確かさが、雨宮先輩と似ている、なんて。
いやいや。似ているものは世界にいくらでもある。声とペンの赤を同列に扱うなんて、仕事の集中力を削ぐだけだ。
私は深呼吸を一度。紙をめくる音、キーを叩く音。
十時まで。五行。一本で走る。
*
昼過ぎ、社内チャットに緊急のスレッドが上がった。競合が出したプレスに事実誤認があり、うちの名前も雑に巻き込まれていた。対応は即。修正声明の原案を二時間で。
「雨宮くん、臨時PJ立てて。広報と法務の間に壁を作らないで」
役員の声が廊下を走る。
間髪入れず、先輩の短い指示が飛ぶ。
「一花さん、事実の核だけ五行で。法務チェックは佐伯さん直行。僕はルート確認」
「はい」
頭の後ろで髪を結び直す。指が震える。
五行。昼の五行は夜より強度が高い。誰かの眠りに添えるための五行ではなく、会社の名に添えるための五行だ。異物はすべて排除。曖昧な言い回しはゼロ。
キーを打つ私の右側に、いつのまにか彼が立っていた。身体の熱が空気を少し変える。私の呼吸が浅くなると、先輩の指がそっと私の手首に触れた。
「脈、速い。過呼吸の前兆」
「だい、じょうぶです」
「ここで一回、吸う」
肩甲骨の間に小さな圧がかかる。呼吸を背中へ広げるように、と無言で促されている。私は目を閉じて、数を数える。四つ吸って、六つ吐く。
さっきの鐘の音が、胸の裏で鳴った。ラ――ソ――ミ。
おかしい。別々の世界が、じわりと重なる。
「よし。続けて」
短い肯定が背中を押す。私は指を動かす。動かし続ける。
事実だけ。五行で。一本の身体で。
*
夕方、喉がとうとう錆びたみたいに痛み出した。発表の時間は押せない。会議室の角でマスクをずらして、そっと白湯を飲む。飲み込むたびに、喉の内側に紙やすりを当てられている感じがする。
「大丈夫?」
知らない影が差し、私はびくっと顔を上げた。雨宮先輩。
彼は私の目の前に、透明の袋から取り出した小さなスティックを置く。
「蜂蜜。紅茶に」
「ありがとうございます」
「ミルクはだめ」
「呼吸が重くなる、ですよね」
口からその言葉が出た瞬間、彼の目が一瞬だけ細くなる。
既視感。先輩の指示と、夜の声が、同じ場所に座っているみたいな既視感。
「夕方に鐘が鳴ること、あるんですね」
思わず言ってしまった。彼のスマホの話だ。
「鐘?」
「いえ、通知の音が……」
「そうかもしれない」
曖昧に、とぎれた返事。彼はそれ以上、深掘りしない。
私も、しない。今、すべきことは目の前にある。資料を仕上げる。足りない言葉を切る。残すべき言葉を磨く。
「行こう」
「はい」
発表は大過なく終わった。二分遅れ、想定内の質問、想定外の温度。会議室を出た廊下で、ふたりきりになった。蛍光灯の白は昼より冷たく、窓の向こうはもう夕焼けの色を失っている。
「助かりました」
自分でも驚くほど素直に頭が下がった。彼は一拍置いてから、短く言う。
「君がやった」
それだけ。なのに、今日の中でいちばん、胸に効いた。
*
夜、ベッドの上でスマホを横向きに置く。枕の高さを二センチ低くして、喉に優しい角度を探る。電気を落とすと、部屋はすぐに“無音の水槽”みたいになる。私の呼吸音だけが、小さな泡みたいに上がっては消える。
アプリを開く。
“深夜0時の子守歌”。待機の画面に、今日のサムネイルが立つ。
タイトルに、小さく震えた。
――Lin-01。
指が止まる。目が熱を帯びる。私のリスナー名。Lin。
もちろん、アルファベット三文字なんて世界にいくらでもある。偶然だ、と言われたら頷く準備もしている。けれど、今日の私の喉の具合は、昼間の鐘の音は、蜂蜜のスティックは――全部、同じ場所に向かって線を引いてしまう。
0:00。
ラ――ソ――ミ。
部屋の中に、やさしい鐘が鳴る。
Lの低音は、相変わらず水に砂糖を溶かすみたいに、あっという間に空気を甘くする。
『こんばんは。0:00の鐘、君だけに』
胸の奥がぐっと縮む。
チャット欄が一斉に流れ、一行一行が蛍みたいに点滅する。その中に、私のIDもまぎれこんでいる。Lin。いつも通りの挨拶を打とうとして、指が止まる。Lが、先に言ったから。
『今日は、赤の話をしよう。否定の線だと思っている人が多い。でも違う。輪郭をくっきりさせる線だ』
私は仰向けになったまま、目を閉じる。
昼間の会議室の白い光が、まぶたの裏で再生される。赤い線。骨。その先の呼吸。
『君の五行は、今日も強かった。一本で走ったね、Lin』
名前を呼ばれたわけじゃない。けれど、呼ばれた気がする。胸に手を当てて数えると、鼓動が少し速い。Lの声が、呼吸の隙間に入り込んでくる。
『喉を酷使した人は、明日の朝、マグの紅茶に蜂蜜を。ミルクは入れない。呼吸が重くなる』
笑ってしまう。声に出さない笑い。
私のベッドの縁に、雨宮先輩が座っているわけじゃない。なのに、部屋の空気があの会議室と繋がってしまう。
偶然。偶然。
でも、偶然が何度も重なると、暗号の形を取り始める。
配信の後半、BGMが変わった。
はじめて聴くピアノの小品。透明な三音が合図みたいに並び、そこに柔らかい旋律が糸をかけていく。
曲名は――Lin-01。
画面の端に、そう表示された。
『君が眠れるように、今日は短めにするね』
Lが小さく笑い、紙の音を立てた。
朗読の準備をするときの、あの音。
『“言い切る。事実だけ。五行で。”』
あ、と息が漏れる。紙やすりのように痛かった喉が、驚きで少しだけ軽くなる。
それは、今日、雨宮先輩が私に言った言葉。
もちろん、仕事の現場で誰だって言う抽象度の高いアドバイスなのかもしれない。けれど、まるで、会議室の端で拾った声を、ここで磨いて返してくれているみたいで――。
朗読が始まる。
昔読んだ短い童話。森の中で迷子になった小さな動物が、道の脇に赤い石を置いていく話。行きたい方向を示すための赤。戻れなくならないための赤。
否定の線じゃないよ、とLが言ったときの、声の温度が、童話の赤と繋がる。私は目を閉じて、ページのめくれる音に従っていく。
心拍が二つ落ちて、一つ上がる。
眠りが近づいてくるのがわかる。
『おやすみ。右を向いて寝ると、楽だよ』
右。
昼、雨宮先輩は、私の右側に立っていた。
私は言われた通りに右を向く。布団の端に頬が触れて、ほんの少し冷たくて、すぐ暖かくなる。スマホの画面は消えて、部屋はまた無音の水槽に戻る。
夢に落ちる手前で、私は思う。
もしも、もしもだ。
無口な先輩の指先と、匿名の声の間に、一本の糸が張られているとして。
その糸は、私の一日のどこに結ばれているのだろう。
*
翌朝。
会議室Bのドアを開けると、机の端に小さなものが一本、立てかけてある。透明の袋に入った、蜂蜜のスティック。
「……」
周りを見回す。誰もいない。照明の白が、包装のビニールに淡く跳ね返って、金色みたいに見える。
マグに紅茶。蜂蜜をゆっくり押し出す。細い琥珀色が、くるくると渦を作って沈んでいく。スプーンの音を最小限にして、一口。
喉に、やさしい膜が張る。ミルクを入れない紅茶は少し頼りないけれど、今朝はそれがちょうどいい。
窓の外を見やる。雲が薄く、ビルの影がいつもより細い。
ドアが開く音。
雨宮先輩だ。視線が蜂蜜に落ち、一瞬だけ、口の端がゆるむ。
「喉」
「はい。おかげさまで」
「よかった」
彼は机の上の資料を一枚手に取り、赤ペンのキャップを静かに外す。その仕草に、昨夜のピアノが重なる。ラ――ソ――ミ。
私はペンを握り直し、口角をほんのすこし上げる。
「五行で、いきます」
「うん」
いつも通りの短い返事。
でも、その一音が、窓際の蜂蜜の金色に触れて、少しだけ甘くなった気がした。
私は気づかないふりをする。
気づいてしまったことの半分を、胸の奥に仕舞っておく。
“二つの声の重なり”に名前をつけないまま、今日の仕事に向き合う。
夜になれば、また鐘が鳴る。合言葉が落ちる。
そのとき、私は少しだけ、確かめてみるつもりだ。
偶然なのか、暗号なのか。
私の右隣が、いつでも安全地帯かどうかを。
キーボードに指を置く。
一本の身体で、走る準備はできている。
コピー機の前で深呼吸をもう一度。紙の匂いとトナーの匂いが混ざって、眠気の残りをゆっくり押し流す。新卒二年目の私――一花は、背筋を伸ばして資料の束を抱え直した。
「一花さん、九時五分のレビュー、会議室Bで」
背後から声。総務の山下さんだ。にこりと笑ってすべてを把握している人、という感じの笑い方。
「ありがとうございます。……雨宮先輩は?」
「もう入ってるよ。相変わらず時間ぴったり」
「ですよね」
“相変わらず”の言葉を飲み込むように、私は会議室Bのドアを小さく二回ノックする。返事はない。でも入るしかない。ドアノブをひねると、部屋の奥、プロジェクターの白い光のそばに、先輩は静かに立っていた。
雨宮先輩。社内で一番、言葉が少ない人。
代わりに、赤いペンがよくしゃべる。
「……おはようございます」
「おはよう」
視線が一度だけこちらを撫でて、すぐに手元に落ちる。私の提出した広報資料は、たぶん彼の中ではもう組み立て直されていて、私はその過程をただ目撃する役目だ。
「ここ。三行目。主語が滑ってる」
「主語、ですか」
「“当社は”で始めて“我々”に変わると、身体が二つになる。一本で走らせて」
「一本の、身体で」
「うん」
ペン先が紙の上を走る音だけが、雨だれみたいに続く。刺さる、というより、骨の形に沿って削られていく感じ。痛みはある。でも、その痛みの先に、スッと呼吸が通る瞬間もある。
「四ページ目。ここで“お客様”を突然主語にするのは、逃げ」
「逃げ、ですか」
「責任の所在をぼかして気分よくする書き方。君の誠実さが消える」
誠実。目の奥がじん、とする言葉だ。
言ってほしかったわけじゃないのに、言われたくてがんばってきたみたいに、心臓が一回、強く跳ねた。
「じゃあ、ここは――」
「言い切る。事実だけ、五行で。飾らない」
「五行で……」
「できる。昨日までの君なら無理でも、今日はできる」
不意に、励まし。短い、でも確信のある声音。テーブルに置かれた彼のスマホの画面が、ふと灯って、鐘の音色がごく小さく鳴った。
ラ――ソ――ミ。低く、透明な三音。
私の身体が反射的に反応する。
それは、夜の配信が始まるときの、あの合図の音に似ていた。
――0:00の鐘、君だけに。
笑ってしまうくらい、同じ音。偶然。きっと偶然だ。社内の通知音なんてみんな似たり寄ったりで、私が神経質になっているだけ。
「どうした」
「いえ、なんでも」
視線を落とすと、紙の上で赤が光っていた。輪郭線みたいに、文字の周りをやさしく縁取る赤。
否定の線じゃないよ。輪郭をくっきりさせる線だよ。
夜のあの人――配信者“L”の声が、頭のどこかで重なる。
「じゃあ十時までに修正。会見の可能性がある。最終案を持って上に上げる」
「はい」
「喉、大丈夫?」
びくり、と肩が動いた。さっきの鐘よりずっと近いところで、先輩の声が落ちる。私が無意識に喉をさすっていたらしい。
「……大丈夫です」
「紅茶に蜂蜜。ミルクは入れない。呼吸が重くなる」
「え?」
「経験則」
短く言って、彼は席を立った。ジャケットの裾がひらりと揺れて、ドアの向こうに消える。残された空間には、プロジェクターの熱と、白紙に近い資料の余白。私は椅子に腰を下ろし、ペン先を紙に置いた。
事実だけ、五行で。
“核”を五行で――。
左の手のひらがじんわりと汗ばむ。目の前の言葉たちが、急に生きものみたいにうごめいて、どの骨を残してどの肉を削ぐか、判断を迫ってくる。
「一本の身体で走る」
小さく口に出してみる。自分に聞かせるように。
そのとき、チャット欄の青い流れが目に浮かんだ。夜ごと私はそこに、自分の一日を五行で沈めてきた。合言葉を合図に、息を整え、今日の“がんばった”を整理する時間。
――0:00の鐘、君だけに。
――Lin、よくがんばったね。
配信者Lは、名前を呼ばない。誰のものでもない声で、誰の心にも届く形を守っている。だからこそ、私には想像する余白があった。声の持ち主の年齢も顔も知らないけれど、言葉の骨格の確かさが、雨宮先輩と似ている、なんて。
いやいや。似ているものは世界にいくらでもある。声とペンの赤を同列に扱うなんて、仕事の集中力を削ぐだけだ。
私は深呼吸を一度。紙をめくる音、キーを叩く音。
十時まで。五行。一本で走る。
*
昼過ぎ、社内チャットに緊急のスレッドが上がった。競合が出したプレスに事実誤認があり、うちの名前も雑に巻き込まれていた。対応は即。修正声明の原案を二時間で。
「雨宮くん、臨時PJ立てて。広報と法務の間に壁を作らないで」
役員の声が廊下を走る。
間髪入れず、先輩の短い指示が飛ぶ。
「一花さん、事実の核だけ五行で。法務チェックは佐伯さん直行。僕はルート確認」
「はい」
頭の後ろで髪を結び直す。指が震える。
五行。昼の五行は夜より強度が高い。誰かの眠りに添えるための五行ではなく、会社の名に添えるための五行だ。異物はすべて排除。曖昧な言い回しはゼロ。
キーを打つ私の右側に、いつのまにか彼が立っていた。身体の熱が空気を少し変える。私の呼吸が浅くなると、先輩の指がそっと私の手首に触れた。
「脈、速い。過呼吸の前兆」
「だい、じょうぶです」
「ここで一回、吸う」
肩甲骨の間に小さな圧がかかる。呼吸を背中へ広げるように、と無言で促されている。私は目を閉じて、数を数える。四つ吸って、六つ吐く。
さっきの鐘の音が、胸の裏で鳴った。ラ――ソ――ミ。
おかしい。別々の世界が、じわりと重なる。
「よし。続けて」
短い肯定が背中を押す。私は指を動かす。動かし続ける。
事実だけ。五行で。一本の身体で。
*
夕方、喉がとうとう錆びたみたいに痛み出した。発表の時間は押せない。会議室の角でマスクをずらして、そっと白湯を飲む。飲み込むたびに、喉の内側に紙やすりを当てられている感じがする。
「大丈夫?」
知らない影が差し、私はびくっと顔を上げた。雨宮先輩。
彼は私の目の前に、透明の袋から取り出した小さなスティックを置く。
「蜂蜜。紅茶に」
「ありがとうございます」
「ミルクはだめ」
「呼吸が重くなる、ですよね」
口からその言葉が出た瞬間、彼の目が一瞬だけ細くなる。
既視感。先輩の指示と、夜の声が、同じ場所に座っているみたいな既視感。
「夕方に鐘が鳴ること、あるんですね」
思わず言ってしまった。彼のスマホの話だ。
「鐘?」
「いえ、通知の音が……」
「そうかもしれない」
曖昧に、とぎれた返事。彼はそれ以上、深掘りしない。
私も、しない。今、すべきことは目の前にある。資料を仕上げる。足りない言葉を切る。残すべき言葉を磨く。
「行こう」
「はい」
発表は大過なく終わった。二分遅れ、想定内の質問、想定外の温度。会議室を出た廊下で、ふたりきりになった。蛍光灯の白は昼より冷たく、窓の向こうはもう夕焼けの色を失っている。
「助かりました」
自分でも驚くほど素直に頭が下がった。彼は一拍置いてから、短く言う。
「君がやった」
それだけ。なのに、今日の中でいちばん、胸に効いた。
*
夜、ベッドの上でスマホを横向きに置く。枕の高さを二センチ低くして、喉に優しい角度を探る。電気を落とすと、部屋はすぐに“無音の水槽”みたいになる。私の呼吸音だけが、小さな泡みたいに上がっては消える。
アプリを開く。
“深夜0時の子守歌”。待機の画面に、今日のサムネイルが立つ。
タイトルに、小さく震えた。
――Lin-01。
指が止まる。目が熱を帯びる。私のリスナー名。Lin。
もちろん、アルファベット三文字なんて世界にいくらでもある。偶然だ、と言われたら頷く準備もしている。けれど、今日の私の喉の具合は、昼間の鐘の音は、蜂蜜のスティックは――全部、同じ場所に向かって線を引いてしまう。
0:00。
ラ――ソ――ミ。
部屋の中に、やさしい鐘が鳴る。
Lの低音は、相変わらず水に砂糖を溶かすみたいに、あっという間に空気を甘くする。
『こんばんは。0:00の鐘、君だけに』
胸の奥がぐっと縮む。
チャット欄が一斉に流れ、一行一行が蛍みたいに点滅する。その中に、私のIDもまぎれこんでいる。Lin。いつも通りの挨拶を打とうとして、指が止まる。Lが、先に言ったから。
『今日は、赤の話をしよう。否定の線だと思っている人が多い。でも違う。輪郭をくっきりさせる線だ』
私は仰向けになったまま、目を閉じる。
昼間の会議室の白い光が、まぶたの裏で再生される。赤い線。骨。その先の呼吸。
『君の五行は、今日も強かった。一本で走ったね、Lin』
名前を呼ばれたわけじゃない。けれど、呼ばれた気がする。胸に手を当てて数えると、鼓動が少し速い。Lの声が、呼吸の隙間に入り込んでくる。
『喉を酷使した人は、明日の朝、マグの紅茶に蜂蜜を。ミルクは入れない。呼吸が重くなる』
笑ってしまう。声に出さない笑い。
私のベッドの縁に、雨宮先輩が座っているわけじゃない。なのに、部屋の空気があの会議室と繋がってしまう。
偶然。偶然。
でも、偶然が何度も重なると、暗号の形を取り始める。
配信の後半、BGMが変わった。
はじめて聴くピアノの小品。透明な三音が合図みたいに並び、そこに柔らかい旋律が糸をかけていく。
曲名は――Lin-01。
画面の端に、そう表示された。
『君が眠れるように、今日は短めにするね』
Lが小さく笑い、紙の音を立てた。
朗読の準備をするときの、あの音。
『“言い切る。事実だけ。五行で。”』
あ、と息が漏れる。紙やすりのように痛かった喉が、驚きで少しだけ軽くなる。
それは、今日、雨宮先輩が私に言った言葉。
もちろん、仕事の現場で誰だって言う抽象度の高いアドバイスなのかもしれない。けれど、まるで、会議室の端で拾った声を、ここで磨いて返してくれているみたいで――。
朗読が始まる。
昔読んだ短い童話。森の中で迷子になった小さな動物が、道の脇に赤い石を置いていく話。行きたい方向を示すための赤。戻れなくならないための赤。
否定の線じゃないよ、とLが言ったときの、声の温度が、童話の赤と繋がる。私は目を閉じて、ページのめくれる音に従っていく。
心拍が二つ落ちて、一つ上がる。
眠りが近づいてくるのがわかる。
『おやすみ。右を向いて寝ると、楽だよ』
右。
昼、雨宮先輩は、私の右側に立っていた。
私は言われた通りに右を向く。布団の端に頬が触れて、ほんの少し冷たくて、すぐ暖かくなる。スマホの画面は消えて、部屋はまた無音の水槽に戻る。
夢に落ちる手前で、私は思う。
もしも、もしもだ。
無口な先輩の指先と、匿名の声の間に、一本の糸が張られているとして。
その糸は、私の一日のどこに結ばれているのだろう。
*
翌朝。
会議室Bのドアを開けると、机の端に小さなものが一本、立てかけてある。透明の袋に入った、蜂蜜のスティック。
「……」
周りを見回す。誰もいない。照明の白が、包装のビニールに淡く跳ね返って、金色みたいに見える。
マグに紅茶。蜂蜜をゆっくり押し出す。細い琥珀色が、くるくると渦を作って沈んでいく。スプーンの音を最小限にして、一口。
喉に、やさしい膜が張る。ミルクを入れない紅茶は少し頼りないけれど、今朝はそれがちょうどいい。
窓の外を見やる。雲が薄く、ビルの影がいつもより細い。
ドアが開く音。
雨宮先輩だ。視線が蜂蜜に落ち、一瞬だけ、口の端がゆるむ。
「喉」
「はい。おかげさまで」
「よかった」
彼は机の上の資料を一枚手に取り、赤ペンのキャップを静かに外す。その仕草に、昨夜のピアノが重なる。ラ――ソ――ミ。
私はペンを握り直し、口角をほんのすこし上げる。
「五行で、いきます」
「うん」
いつも通りの短い返事。
でも、その一音が、窓際の蜂蜜の金色に触れて、少しだけ甘くなった気がした。
私は気づかないふりをする。
気づいてしまったことの半分を、胸の奥に仕舞っておく。
“二つの声の重なり”に名前をつけないまま、今日の仕事に向き合う。
夜になれば、また鐘が鳴る。合言葉が落ちる。
そのとき、私は少しだけ、確かめてみるつもりだ。
偶然なのか、暗号なのか。
私の右隣が、いつでも安全地帯かどうかを。
キーボードに指を置く。
一本の身体で、走る準備はできている。