0時の鐘はあなたへ――推しと先輩が重なる夜
第2話「彼だけが知っている」
誤った情報は、気温みたいに人を急かす。昼の終わり頃、社内チャットの赤い通知が連打で跳ねた。競合の新製品リリースに、うちの旧製品の数字が勝手に紐づけられている。しかもそのまままとめサイトが拾って拡散中。
広報の島がざわめいた。椅子を引く音、プリンターが一気に回りだす音。紙の匂いが、焼きたてパンみたいに熱を帯びて立ちのぼる。
「臨時PJ、雨宮くんリードで」
役員の一声で流れが決まり、背後から名前を呼ばれた。
「一花さん、ここ」
雨宮先輩の声は、いつもと同じ温度だった。慌てない、急かさない、でも待たない。
「事実の核を五行で。曖昧語は全削除」
「はい」
「法務チェックは佐伯さんへ直送。僕は一次ソースのルート確認。――一花さん、息、浅い」
浅い? 指摘された瞬間、浅くなっていた呼吸がいっそう浅くなる。悪循環。先輩は私の手首を軽くつまみ、脈のリズムを二拍だけ確かめると、言葉を足した。
「過呼吸になりかける癖、出てる。四吸って六吐く」
「……四、六」
「今、やる」
私は頷いて、彼の目線より少し遠く、窓の外の雲に焦点を合わせた。四つ吸い込んで、六つ吐く。背中の真ん中に空気を通すみたいに。
心拍が一段落ちて、キーボードの上で指がやっと自分のものに戻る。
「いける」
「はい」
画面の白に黒い文字列が並ぶ。五行。余分な飾りが勝手に薄れていくのを、手が思い出していく。昨日、教わったばかりの走り方。一本の身体で。
「事実」を核にして、それに必要な補助線だけを添える。誰かの心を慰めるための言葉じゃない。会社の名前を守るための言葉だ。冷たくても、正確であるほうがいい。
プリンターが止むころ、法務の佐伯さんが走ってきた。
「一次案、もらえる?」
「五行で書きました」
「助かる、すぐ戻す」
紙を手渡した瞬間、喉の奥に小骨が刺さったみたいな違和感が走った。さっきから、熱い空気を吸うと、喉だけがひりっとする。マスクのなかの息が湿って、苦くなる。
「休憩、三分」
雨宮先輩が静かに言った。
私が首を振る前に、自販機のほうへ歩き出し、手慣れた動きでボタンを押す。かしゃん、と音がして、白い紙コップが落ちた。
「これ。はちみつゆず。喉に優しいやつ」
「ありがとうございます」
「砂糖、入れない」
「入れる前から、甘いです」
苦笑いしながら一口すする。ゆずの香りが鼻へ抜け、熱の膜が喉の内側に薄く張る感覚。背筋が少し伸びる。
彼は黙って見ていた。私が飲み終えるのを待っていたのだ、と気づいたのはコップが空になってからだった。
「戻る」
「はい」
戻るとすぐ、法務から赤ペンが返ってくる。言い切りを徹底、名詞を統一、日付の表記。目玉焼きの黄身だけを切り分けるみたいな赤。私はそれを飲み込んで、さらに削った。
時間は、砂時計を横から覗きこむみたいな速度で落ちていく。メールが飛び、会議室が埋まり、電話が鳴り、キーボードの打鍵がオフィスの心臓みたいに脈打つ。
いつのまにか夜。窓の外は、ビルのガラスの向こうが墨汁みたいに濃い。
「発表、二十二時。最終、五分前に」
雨宮先輩の言葉が短く落ちる。
私はうなずいて、喉を鳴らした。気づいたら、鳴らない。声が、錆びついた鍵みたいになっている。
「……っ」
「休憩室、二分。吸って吐いて」
先輩は自席の引き出しから小さな紙袋を出すと、私の手に押し込んだ。中にはのど飴が二つ。包装のビニールが、蛍光灯を受けて金色に光る。
「ありがとうございます」
「声は、道具」
「はい」
休憩室のソファに腰を下ろした瞬間、体の力が抜けた。空調の音と冷蔵庫の低い唸り声。机の上の観葉植物の葉が、一枚だけ、空調に揺れている。
飴を口に含む。ゆっくり解ける甘さが、喉の角を丸くしていく。
大丈夫。あと少し。
そう言い聞かせたのに、一回むせた。胸の奥がちくりと痛むくらいの咳。マスクをずらして水を飲む。目頭がじん、と熱くなる。
「無理、しない」
ドアの影から声。
振り返ると、雨宮先輩が自販機の前に立っていた。さっきとは違う飲み物を手にしている。
「麦茶。ノンカフェイン。喉にやさしい」
「先輩、私、そんなにわかりやすいですか」
「うん」
即答。即答なのに、あたたかい。
「過呼吸は、早めに拾えばただの呼吸になる。遅れると“波”になる」
「波」
「飲んで」
「……はい」
紙コップの縁に口を当てる。烏の濡れ羽色みたいな琥珀が、口蓋をひたしてすべっていく。
Lが配信で話していたことと同じ、と思った。声の主は違う。はずなのに。同じ言葉が違う場所から届くと、体の同じ場所が反応する。
――過呼吸になりかけたら、まずは背中を意識して。
夜の声が教えてくれた手順。昼の彼の指が選ぶ言葉。
似ている。
似すぎている。
私は胸のなかで、その事実だけを五行にした。
一、私の癖を、二人とも知っている。
二、どちらも“背中で呼吸”を教える。
三、どちらも蜂蜜を勧める。
四、どちらも「五行」を口にする。
五、どちらも声の温度が同じだ。
「戻ろう」
「はい」
会議室へ戻る廊下で、彼は私の前に出て、数歩先を歩いた。細い背中。肩幅の広さ。ジャケットの布。
不意に振り返る。
「君の五行、よかった」
「……ありがとうございます」
「核、揺れてない」
褒め言葉は、短いほど効く。
十時ちょうど、修正声明は予定通りに発表された。監視していたSNSの波が徐々に落ち着いていく。まとめサイトにも追記が入り、誤りは誤りとして上書きされていく。
会議室の空気が緩んだ。誰かが缶コーヒーのプルタブを引き、別の誰かが深く座り直す。私は椅子の背にもたれて、喉の奥をそっと撫でた。
「お疲れさま」
雨宮先輩が、紙コップをゴミ箱に落としながら言う。
「先輩も」
「帰って寝る。――君は配信、あるんだろ」
「え?」
「顔に、そう書いてある」
思わず笑う。言い当てられかたが、少し憎らしい。
「聞きますけど、先輩は、夜は何を聞くんですか」
「静かなもの」
「具体的には」
「……鐘」
ラ――ソ――ミ。
私の胸のなかで、三音が鳴った。
このひとの言葉は、ときどき、余計な傷口にそっと絆創膏を貼っていく。
*
その夜の「深夜0時の子守歌」は、いつもと違う出だしだった。
ピアノが一音ずつ、控えめに、でも確信を持って鳴らされる。透明なグラスに水を注ぐときの、表面張力がはじける瞬間みたいに。
チャット欄がざわつく。
――新曲?
――誰かのための曲?
――これ、Lin専用BGMって噂のやつでは?
私はスマホを持つ手に力が入る。
曲名が画面に出た。「Lin-02」。
昨日の「Lin-01」に続き、番号が増えている。偶然で通すには、もう少し、必然が揃いすぎている。
『こんばんは。今夜は短めに。まず、背筋を伸ばして。肩は上げない。耳のうしろを遠くに』
Lの低音が、空気を撫でる。
私はベッドに腰かけて、言われた通りに、耳のうしろを遠くに運んだ。背骨の一本一本が、ジャムの瓶からするりと出てくるパスタみたいに解けていく。
『今日の“核五行”、お見事。言葉を削るのは、勇気がいる。残したものが本当の君』
チャットが一気に流れる。
――誰のこと?
――今日の広報、あれか?
――Linって呼んだ?
私は何も打たない。打たないけれど、指が軽く震える。呼ばれてはいない。けれど、呼ばれた。私だけの名前のない呼びかけで、呼ばれた。
『明日の朝、エレベーターが九時三分に点検で止まる。無理しない。右手の階段、使える』
心臓が跳ねた。
社内の点検スケジュールは、知られていないはず。けれど、Lは「知っている」。
私は一度、深く息を吸って、そっと吐いた。
『それと――』
声が少しだけ落ちる。夜の深さが、ほんの一滴、混ざったみたいに。
『もし、明日、怖いことがあっても。君の右隣が安全地帯』
右隣。
昼の廊下で、雨宮先輩は、私の右側に立っていた。右手の階段を示したときも、右側から。
スマホの画面が少しだけ滲む。泣きたいのか笑いたいのか、よくわからない。どちらでもいい。どちらでも、今夜の睡眠に邪魔はしない。
Lは紙の擦れる音を立てた。朗読の合図。
眠る前の、おまじない。
私は横になる。右を下にして、枕の高さを少しだけ低くする。
ラ――ソ――ミ。
鐘が鳴り、ピアノが呼吸と同期する。文字が目蓋の裏でほどけていく。
*
翌朝。
九時二分。
私はエレベーターホールで、壁の時計を見上げていた。周囲には出勤中の社員が数人。誰も焦っていない。九時三分。
ぴ、と控えめなアラームが鳴り、液晶表示が「点検」に変わる。扉が閉じ、動きが止まった。数歩離れたところで、ため息がいくつか重なる。
「……」
呆然と立ち尽くした私の視界に、灰色のスーツの背中が横切った。雨宮先輩。
彼は振り返らない。振り返らない代わりに、右手の階段を顎で指し示す。さあ、と無言の促し。
私はこくりと頷いて、右足を一段目に置いた。足音が階段に吸い込まれる。
上り切った踊り場で、先輩が短く言う。
「無理、しない」
「……はい」
右隣。
たぶん、私はこれから、その意味を少しずつ理解していく。
怖いことがある日も、ない日も。
合言葉が夜に落ちるたび、右隣がどこにあるのか、確かめながら進めばいい。
仕事の島に戻ると、社内チャットが静かだった。昨夜の波は引き、机の上に朝の光が薄く伸びる。私は椅子に腰を下ろし、キーボードに指を置いた。
事実の核を、五行で。
一本の身体で、今日も走る。
右隣が安全地帯だと知っているぶん、少しだけ、背筋がまっすぐになった気がした。
広報の島がざわめいた。椅子を引く音、プリンターが一気に回りだす音。紙の匂いが、焼きたてパンみたいに熱を帯びて立ちのぼる。
「臨時PJ、雨宮くんリードで」
役員の一声で流れが決まり、背後から名前を呼ばれた。
「一花さん、ここ」
雨宮先輩の声は、いつもと同じ温度だった。慌てない、急かさない、でも待たない。
「事実の核を五行で。曖昧語は全削除」
「はい」
「法務チェックは佐伯さんへ直送。僕は一次ソースのルート確認。――一花さん、息、浅い」
浅い? 指摘された瞬間、浅くなっていた呼吸がいっそう浅くなる。悪循環。先輩は私の手首を軽くつまみ、脈のリズムを二拍だけ確かめると、言葉を足した。
「過呼吸になりかける癖、出てる。四吸って六吐く」
「……四、六」
「今、やる」
私は頷いて、彼の目線より少し遠く、窓の外の雲に焦点を合わせた。四つ吸い込んで、六つ吐く。背中の真ん中に空気を通すみたいに。
心拍が一段落ちて、キーボードの上で指がやっと自分のものに戻る。
「いける」
「はい」
画面の白に黒い文字列が並ぶ。五行。余分な飾りが勝手に薄れていくのを、手が思い出していく。昨日、教わったばかりの走り方。一本の身体で。
「事実」を核にして、それに必要な補助線だけを添える。誰かの心を慰めるための言葉じゃない。会社の名前を守るための言葉だ。冷たくても、正確であるほうがいい。
プリンターが止むころ、法務の佐伯さんが走ってきた。
「一次案、もらえる?」
「五行で書きました」
「助かる、すぐ戻す」
紙を手渡した瞬間、喉の奥に小骨が刺さったみたいな違和感が走った。さっきから、熱い空気を吸うと、喉だけがひりっとする。マスクのなかの息が湿って、苦くなる。
「休憩、三分」
雨宮先輩が静かに言った。
私が首を振る前に、自販機のほうへ歩き出し、手慣れた動きでボタンを押す。かしゃん、と音がして、白い紙コップが落ちた。
「これ。はちみつゆず。喉に優しいやつ」
「ありがとうございます」
「砂糖、入れない」
「入れる前から、甘いです」
苦笑いしながら一口すする。ゆずの香りが鼻へ抜け、熱の膜が喉の内側に薄く張る感覚。背筋が少し伸びる。
彼は黙って見ていた。私が飲み終えるのを待っていたのだ、と気づいたのはコップが空になってからだった。
「戻る」
「はい」
戻るとすぐ、法務から赤ペンが返ってくる。言い切りを徹底、名詞を統一、日付の表記。目玉焼きの黄身だけを切り分けるみたいな赤。私はそれを飲み込んで、さらに削った。
時間は、砂時計を横から覗きこむみたいな速度で落ちていく。メールが飛び、会議室が埋まり、電話が鳴り、キーボードの打鍵がオフィスの心臓みたいに脈打つ。
いつのまにか夜。窓の外は、ビルのガラスの向こうが墨汁みたいに濃い。
「発表、二十二時。最終、五分前に」
雨宮先輩の言葉が短く落ちる。
私はうなずいて、喉を鳴らした。気づいたら、鳴らない。声が、錆びついた鍵みたいになっている。
「……っ」
「休憩室、二分。吸って吐いて」
先輩は自席の引き出しから小さな紙袋を出すと、私の手に押し込んだ。中にはのど飴が二つ。包装のビニールが、蛍光灯を受けて金色に光る。
「ありがとうございます」
「声は、道具」
「はい」
休憩室のソファに腰を下ろした瞬間、体の力が抜けた。空調の音と冷蔵庫の低い唸り声。机の上の観葉植物の葉が、一枚だけ、空調に揺れている。
飴を口に含む。ゆっくり解ける甘さが、喉の角を丸くしていく。
大丈夫。あと少し。
そう言い聞かせたのに、一回むせた。胸の奥がちくりと痛むくらいの咳。マスクをずらして水を飲む。目頭がじん、と熱くなる。
「無理、しない」
ドアの影から声。
振り返ると、雨宮先輩が自販機の前に立っていた。さっきとは違う飲み物を手にしている。
「麦茶。ノンカフェイン。喉にやさしい」
「先輩、私、そんなにわかりやすいですか」
「うん」
即答。即答なのに、あたたかい。
「過呼吸は、早めに拾えばただの呼吸になる。遅れると“波”になる」
「波」
「飲んで」
「……はい」
紙コップの縁に口を当てる。烏の濡れ羽色みたいな琥珀が、口蓋をひたしてすべっていく。
Lが配信で話していたことと同じ、と思った。声の主は違う。はずなのに。同じ言葉が違う場所から届くと、体の同じ場所が反応する。
――過呼吸になりかけたら、まずは背中を意識して。
夜の声が教えてくれた手順。昼の彼の指が選ぶ言葉。
似ている。
似すぎている。
私は胸のなかで、その事実だけを五行にした。
一、私の癖を、二人とも知っている。
二、どちらも“背中で呼吸”を教える。
三、どちらも蜂蜜を勧める。
四、どちらも「五行」を口にする。
五、どちらも声の温度が同じだ。
「戻ろう」
「はい」
会議室へ戻る廊下で、彼は私の前に出て、数歩先を歩いた。細い背中。肩幅の広さ。ジャケットの布。
不意に振り返る。
「君の五行、よかった」
「……ありがとうございます」
「核、揺れてない」
褒め言葉は、短いほど効く。
十時ちょうど、修正声明は予定通りに発表された。監視していたSNSの波が徐々に落ち着いていく。まとめサイトにも追記が入り、誤りは誤りとして上書きされていく。
会議室の空気が緩んだ。誰かが缶コーヒーのプルタブを引き、別の誰かが深く座り直す。私は椅子の背にもたれて、喉の奥をそっと撫でた。
「お疲れさま」
雨宮先輩が、紙コップをゴミ箱に落としながら言う。
「先輩も」
「帰って寝る。――君は配信、あるんだろ」
「え?」
「顔に、そう書いてある」
思わず笑う。言い当てられかたが、少し憎らしい。
「聞きますけど、先輩は、夜は何を聞くんですか」
「静かなもの」
「具体的には」
「……鐘」
ラ――ソ――ミ。
私の胸のなかで、三音が鳴った。
このひとの言葉は、ときどき、余計な傷口にそっと絆創膏を貼っていく。
*
その夜の「深夜0時の子守歌」は、いつもと違う出だしだった。
ピアノが一音ずつ、控えめに、でも確信を持って鳴らされる。透明なグラスに水を注ぐときの、表面張力がはじける瞬間みたいに。
チャット欄がざわつく。
――新曲?
――誰かのための曲?
――これ、Lin専用BGMって噂のやつでは?
私はスマホを持つ手に力が入る。
曲名が画面に出た。「Lin-02」。
昨日の「Lin-01」に続き、番号が増えている。偶然で通すには、もう少し、必然が揃いすぎている。
『こんばんは。今夜は短めに。まず、背筋を伸ばして。肩は上げない。耳のうしろを遠くに』
Lの低音が、空気を撫でる。
私はベッドに腰かけて、言われた通りに、耳のうしろを遠くに運んだ。背骨の一本一本が、ジャムの瓶からするりと出てくるパスタみたいに解けていく。
『今日の“核五行”、お見事。言葉を削るのは、勇気がいる。残したものが本当の君』
チャットが一気に流れる。
――誰のこと?
――今日の広報、あれか?
――Linって呼んだ?
私は何も打たない。打たないけれど、指が軽く震える。呼ばれてはいない。けれど、呼ばれた。私だけの名前のない呼びかけで、呼ばれた。
『明日の朝、エレベーターが九時三分に点検で止まる。無理しない。右手の階段、使える』
心臓が跳ねた。
社内の点検スケジュールは、知られていないはず。けれど、Lは「知っている」。
私は一度、深く息を吸って、そっと吐いた。
『それと――』
声が少しだけ落ちる。夜の深さが、ほんの一滴、混ざったみたいに。
『もし、明日、怖いことがあっても。君の右隣が安全地帯』
右隣。
昼の廊下で、雨宮先輩は、私の右側に立っていた。右手の階段を示したときも、右側から。
スマホの画面が少しだけ滲む。泣きたいのか笑いたいのか、よくわからない。どちらでもいい。どちらでも、今夜の睡眠に邪魔はしない。
Lは紙の擦れる音を立てた。朗読の合図。
眠る前の、おまじない。
私は横になる。右を下にして、枕の高さを少しだけ低くする。
ラ――ソ――ミ。
鐘が鳴り、ピアノが呼吸と同期する。文字が目蓋の裏でほどけていく。
*
翌朝。
九時二分。
私はエレベーターホールで、壁の時計を見上げていた。周囲には出勤中の社員が数人。誰も焦っていない。九時三分。
ぴ、と控えめなアラームが鳴り、液晶表示が「点検」に変わる。扉が閉じ、動きが止まった。数歩離れたところで、ため息がいくつか重なる。
「……」
呆然と立ち尽くした私の視界に、灰色のスーツの背中が横切った。雨宮先輩。
彼は振り返らない。振り返らない代わりに、右手の階段を顎で指し示す。さあ、と無言の促し。
私はこくりと頷いて、右足を一段目に置いた。足音が階段に吸い込まれる。
上り切った踊り場で、先輩が短く言う。
「無理、しない」
「……はい」
右隣。
たぶん、私はこれから、その意味を少しずつ理解していく。
怖いことがある日も、ない日も。
合言葉が夜に落ちるたび、右隣がどこにあるのか、確かめながら進めばいい。
仕事の島に戻ると、社内チャットが静かだった。昨夜の波は引き、机の上に朝の光が薄く伸びる。私は椅子に腰を下ろし、キーボードに指を置いた。
事実の核を、五行で。
一本の身体で、今日も走る。
右隣が安全地帯だと知っているぶん、少しだけ、背筋がまっすぐになった気がした。