社内では秘密ですけど、旦那様の溺愛が止まりません!
***
稲木社長の執務室。
書類の山の向こうに座る父は、眼鏡の奥からじっと見ている。

「十年の修行を三年で終わらせる。……正直、納得しているわけじゃない」

「……わかってます」

あれだけ大きな噂になってしまったのだからまたいつそれが再燃してもおかしくはない。今は少し落ち着きを取り戻しているが、またふとしたことで噂が出たら今度こそ消火するのはするのは難しいだろう。

「ただ、あの日の冷静な対応を見て思った。“現場を知らない坊ちゃん”にはもう見えなかった」

短く吐き出された言葉。それは褒め言葉なのか、確認なのか、判断がつかない。

「ただな、亮。お前はまだ“現場を知った男”であって、“会社を動かす人間”にはなっていない。人の痛みを知った分、今度は“判断の冷たさ”も学ばなければならない」

亮は拳を握ったまま、静かにうなずいた。

「わかっています。いや、わかっていきたいと思います。浅賀として学んだ時間を、無駄にしたくないんです」

父の視線が一瞬だけやわらぐ。

「浅賀として過ごした三年が、お前の“稲木”としての基礎になったのなら、それは悪くない修行だったのかもしれんな」

その言葉に隠されているのは父なりの承認なのか。胸の奥に温かいものが広がる。
沈黙のあと、父がゆっくり立ち上がった。

「……今日の発表会で、お前がどんな顔をするか見せてもらう。社長の息子としてではなく、一人の男としてな」

覚悟を決め俺は一言「はい」とだけ告げる。今日周囲からの視線がどんなものになるのか考えると身が引き締まり、自然と背筋が伸びた。

「小春さんのことだが、彼女にはもう少し時間をあげられると思っていたのにこんなことになって申し訳ないな。彼女にも覚悟はできてるのだろうか?」

「はい」

「そうか」

父はわずかに笑って言った。

「うちの社員があんな賢くて優しい子だなんて頼もしいよ。お前の見る目は、確かだったな」

「ありがとうございます」

その言葉に少しだけ表情が和らぐ。
部屋を出るとき、扉越しに父の声が聞こえた。

「亮。会社も人も、いつまでも守ってばかりではいられん。お前の代で、どう変えるかを考えろ」

静かな足音が、廊下に響いた。
重みのある言葉が、胸の奥に残る。
“十年の修行を三年で終わらせた。
だけど、それは“終わり”じゃなく、“始まり”の証だ。
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