あの日 カサブランカで

 夕食の提供はないのでレストランを紹介するから、あとで声をかけてくれと言い残してオーナーが去ると、圭一は自分の部屋に戻ってボストンバッグを開いた。

 どこへ行くにも1週間程度のことであれば彼は長年使っている大きな革のボストンバッグひとつで出かけていく。

 同僚にはよくあきれられたが、下着類はホテルで選択すれば済むし、何よりも紛失を恐れて荷物を預けたくないのが一番の理由だったが、まず出入国の手続きが早かった。

 案内されているときは気に留めていなかったのだが、落ち着いてみると外に面した窓はひとつもなく、光はパティオのトップライトから回廊に面した窓越しに入ってくるだけの暗い部屋で、ところどころにステンドグラス製のシェードを付けた薄暗い照明があるだけである。

「すみません… 片付けました」

 その薄暗い光の中で写真を撮っているところへ声をかけられた圭一は腰を上げると、回廊へ出た。

 さっきはよく見なかったが、回廊のいたるところにモロッコを感じさせる家具やタペストリー、オブジェが美しくアレンジして配置されている。

「すごいですね!」

 軽く手を触れながら麻美がきらきらした眼で声を上げた。

 駅前のロータリーで狼狽していた彼女とは別人の無邪気さが圭一には可愛らしかった。



 パティオへ下りると、オーナーがモロッコティーを淹れながら、ここは100年以上前の住宅を改装し、今は夫婦ふたりと使用人とで宿泊施設として営んでいるが、フェズにはそうしたところがたくさんあるのだとわかりやすい英語で話してくれた。

「ここの前の路地をまっすぐ行くとすぐに小さなローカルレストランが右側にあるから、それで良ければ連絡しておくけど」

 オーナーのその案内を断る理由はふたりにはなかった。

「おいしくて安いわよ ふたりで200ディルハムもあれば充分よ」

 3,000円もしないのか、と圭一は頭の中で計算をして驚いていた。

「朝食はここに8時でいいかしら? 10時にモハメドが迎えに来るわ」

 慣れているのだろうが、いちいち手際が良かった。

「夜は鍵をかけるから、出かけるときと帰ってきた時に声をかけてね」

 最後にそう言うと、オーナーはふたりの前を離れた。

 その日、小さなリヤドの贅沢な空間を堪能しているのは彼らだけだった。

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