あの日 カサブランカで

「あのう… いくらだったんですか? わたしも…」

 教えてもらったレストランで夕食を終えて宿に戻ると麻美が圭一に訊ねた。

 ひとまわり以上も歳の離れた女子学生に食事代を払わせる気など毛頭ない彼は即座に断って笑った。

「よくわからなかったけど、おいしかったね」

「ええ、とても」

 挨拶だけだったがアラビア語で交わすと店の従業員も顔がほころんだ。
 
 メニューには英語も表記があったので、素材と調理方法はなんとなくわかったが、ほとんど英語は通じなかったので、彼らの説明はうまく理解ができなかったのだ。

「アラビア料理なんて初めて食べました」

「すごく甘いでしょ?」

 駐在先のドバイでよく食べる濃厚で甘い味付けのアラビア料理は圭一の口には合っていたが、麻美の箸が止まらなかったことで彼は少し安心した。

「今日は助けていただいて、ほんとうにありがとうございました」

 改まったような真顔で麻美に頭を下げられて圭一は大きく首を振った。

 思いもよらず若い女子学生と共に過ごせる時間は殊のほか嬉しかったのだ。

 トップライトから明るい光がふんだんに落ちていた昼間と全く異なるランプの灯のような落ち着いた光で静まりかえった回廊で挨拶を交わすと、ふたりはそれぞれの部屋のアーチの重い木製扉をくぐった。

 12月のモロッコは日本の秋のような快適な気候だったので、壁のエアコンを動かす必要もなく、床のタイルの固い冷たさが圭一の脚には気持ちがよかった。

 扉のない暗い浴室の湿気対策はどうするのだろうと余計な心配をしながらシャワーを浴びた圭一は、広いベッドに腰を下ろして往路の機中で読みかけだった文庫本を開いたが枕元のスタンドの光だけでは読めそうになく諦めて閉じるとそのまま横になった。

 テレビもなく、何の物音もしない静寂の中で高い天井を見上げているうちに彼はいつのまにか眠りに落ちていた。


 

 どのくらい眠ったかわからなかったが、不意に入口の扉が小さく叩かれる音で彼は眼を覚まされた。
 
 枕元に置いた携帯の時計は夜10時過ぎを示している。

 ベッドに横になってからまだいくらも時間が経っていなかった。

「はい、どなたですか?」

 何ごとかと少し緊張しながら圭一がベッドから脚を下ろし扉へ向かって英語で返事をすると、返ってきたのは日本語だった。

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