『青い春の迷い星(ステラ)』 ~10歳年上の幼馴染は、一番遠い婚約者~
第十三章:結城先輩の真実と、嘘の崩壊
柚月は、婚約を受け入れてからというもの、蓮の監視と「完璧な令嬢」としての役割を演じることに慣れてしまっていた。しかし、その慣れは心の死を意味していた。大学での彼女は、常に蓮の「支配」と「品格」の基準を意識し、誰とも深い関わりを持とうとしなかった。
ある日の午後、柚月は、必修科目のレポートを提出するために、大学の研究棟を訪れた。提出窓口でふと目をやると、廊下の向こうに結城先輩の姿があった。
柚月は、蓮の監視がいつどこにあるかわからないため、すぐにその場を立ち去ろうとした。しかし、先輩の隣に立つ、見知らぬ一人の女性の姿が、柚月の足を止めさせた。
その女性は、結城先輩と親しげに笑い合い、先輩の腕にそっと手を絡ませている。彼女は、柚月が見ても一目でわかるほど、結城先輩と心が通じ合っている様子だった。
柚月の心臓が、冷たい水に浸されたかのように急激に冷えていくのを感じた。
(あれは……誰?先輩の、親しい友人?)
柚月が立ち尽くしていると、二人は柚月に気づき、こちらへ歩み寄ってきた。
「あれ、柚月ちゃんじゃないか。久しぶり」結城先輩は、いつも通りの優しい笑顔で挨拶した。
「結城先輩……こちらの方は?」
柚月が尋ねると、先輩は隣の女性の肩を抱き寄せ、満面の笑みで答えた。
「紹介するよ。彼女は、僕のフィアンセの春奈。来月、入籍するんだ」
柚月の頭の中に、雷が落ちたかのような衝撃が走った。
「フィ、アンセ……?」
「ああ。彼女とは高校時代からずっとね。柚月ちゃんには、この前、縁談を断るための協力を頼まれたけど、そのすぐ後にプロポーズしたんだ。春奈にも、柚月ちゃんの事情は話してあるよ」
結城先輩は、悪意など微塵もなく、純粋な笑顔でそう告げた。柚月の「好きな人」は、既に別の女性と将来を誓っていたのだ。
あの時、柚月が必死に先輩に求めた「愛の協力」は、先輩にとって「後輩の窮地を救うための義理」でしかなかったことが、明確な事実として柚月の目の前に突きつけられた。
柚月の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「そう、でしたか……おめでとうございます」
柚月は、精一杯の作り笑いを貼り付け、その場を逃げるように立ち去った。
柚月は、人が少ない階段の踊り場まで来ると、その場で崩れ落ちた。
嘘だった。全てが、嘘だった。
蓮との婚約を断るための、唯一の「真実の盾」だと信じていた結城先輩への想い。それが、先輩にとっては「既に本命がいる中での、後輩への優しい協力」という、無邪気な裏切りだった。
「わたくしには……誰もいなかった」
柚月は、涙が止まらなかった。蓮の冷酷な支配を逃れるために、必死で縋り付いた「好きな人」の存在は、実は見合いを断るための理由でしかなく、最初から叶うはずのない恋だったのだ。
蓮に「青い春の迷い」と断罪された時、柚月は蓮を憎んだ。だが、その蓮の言葉は、結果的に真実だった。彼女の「愛」は、蓮の「論理」の前に崩壊したのではなく、最初から存在していなかったのだ。
(私が蓮さまに突きつけたのは、「愛」ではなかった。ただの「逃避の理由」だった)
柚月は、蓮との結婚が家の存続のためだと知らされた時、絶望した。だが、今、彼女が味わっているのは、「愛する人がいなくなった」という、個人的な虚無感だった。
「私は、蓮さまを憎む資格さえ、なかった……」
柚月は、自分が蓮に「愛する人がいる」と告げ、彼を愛のない冷酷な支配者だと罵ったことに、強い罪悪感を覚えた。彼女が蓮に突きつけたのは、真実の愛ではなく、最初から嘘の根拠だったのだ。
柚月が、その場でうずくまっていると、携帯が震えた。蓮からのメッセージだ。
『夜、君の父親と緊急の会議がある。二階堂家に来なさい。神崎が迎えに行く』
蓮は、いつも通り事務的な命令だ。しかし、今の柚月には、その命令が、「私情を捨て、役割に戻れ」という、冷静な救いのように聞こえた。
その日の夜。柚月は、二階堂家で蓮と対峙した。蓮は、書類を前に、相変わらず冷徹な表情で、ビジネスの話をしていた。
「……柚月。お前の大学卒業後の研修先だが、二階堂グループの海外支社を推奨する。そこで、一条の娘として、改めて経営学を学ぶべきだ」
蓮の提案は、柚月の進路を、完全に彼の支配下に置こうとするものだった。
柚月は、静かに頷いた。以前なら、「わたくしの人生を勝手に決めないでください!」と反発しただろう。だが、今は、蓮の冷徹な論理が、彼女の虚無感を埋める、唯一の現実だった。
「承知いたしました。蓮さまの指示に従います」
柚月の従順すぎる態度に、蓮の冷たい瞳が、わずかに動揺した。
「……異論はないのか?」
「ありません。わたくしには、他に願うべき道も、愛する人も、いなくなりました。蓮さまの言う通り、わたくしは一条家の娘の役割を果たすことに専念します」
その言葉は、蓮の論理的な勝利を意味していた。彼が望んでいた通りの、完璧な降伏だ。
しかし、蓮の顔には喜びはなかった。代わりに、深い孤独と苦悩が浮かんでいた。
(なぜだ?君は、自分の愛が嘘だったと認めているのか?)
蓮は、柚月がなぜ突然、抵抗をやめたのか、その真意を探ろうとした。だが、柚月が口を開く前に、彼は冷徹な仮面を被り直す。
「結構。では、そのつもりで準備を進める」
蓮は、柚月の「愛する人がいなくなった」という言葉を、自分の論理的な証明によるものだと誤解した。彼は、自分の行動が柚月の愛を殺したのだと確信し、罪悪感を深めた。
柚月は、蓮が自分の真の絶望(結城先輩の真実)を知らず、勝利を確信していると思い込み、「愛のない支配者」だと憎んだ。
こうして、「愛する人の真実」の崩壊は、二人の間の誤解の壁をさらに分厚く、切なく拗らせていくのだった。
ある日の午後、柚月は、必修科目のレポートを提出するために、大学の研究棟を訪れた。提出窓口でふと目をやると、廊下の向こうに結城先輩の姿があった。
柚月は、蓮の監視がいつどこにあるかわからないため、すぐにその場を立ち去ろうとした。しかし、先輩の隣に立つ、見知らぬ一人の女性の姿が、柚月の足を止めさせた。
その女性は、結城先輩と親しげに笑い合い、先輩の腕にそっと手を絡ませている。彼女は、柚月が見ても一目でわかるほど、結城先輩と心が通じ合っている様子だった。
柚月の心臓が、冷たい水に浸されたかのように急激に冷えていくのを感じた。
(あれは……誰?先輩の、親しい友人?)
柚月が立ち尽くしていると、二人は柚月に気づき、こちらへ歩み寄ってきた。
「あれ、柚月ちゃんじゃないか。久しぶり」結城先輩は、いつも通りの優しい笑顔で挨拶した。
「結城先輩……こちらの方は?」
柚月が尋ねると、先輩は隣の女性の肩を抱き寄せ、満面の笑みで答えた。
「紹介するよ。彼女は、僕のフィアンセの春奈。来月、入籍するんだ」
柚月の頭の中に、雷が落ちたかのような衝撃が走った。
「フィ、アンセ……?」
「ああ。彼女とは高校時代からずっとね。柚月ちゃんには、この前、縁談を断るための協力を頼まれたけど、そのすぐ後にプロポーズしたんだ。春奈にも、柚月ちゃんの事情は話してあるよ」
結城先輩は、悪意など微塵もなく、純粋な笑顔でそう告げた。柚月の「好きな人」は、既に別の女性と将来を誓っていたのだ。
あの時、柚月が必死に先輩に求めた「愛の協力」は、先輩にとって「後輩の窮地を救うための義理」でしかなかったことが、明確な事実として柚月の目の前に突きつけられた。
柚月の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「そう、でしたか……おめでとうございます」
柚月は、精一杯の作り笑いを貼り付け、その場を逃げるように立ち去った。
柚月は、人が少ない階段の踊り場まで来ると、その場で崩れ落ちた。
嘘だった。全てが、嘘だった。
蓮との婚約を断るための、唯一の「真実の盾」だと信じていた結城先輩への想い。それが、先輩にとっては「既に本命がいる中での、後輩への優しい協力」という、無邪気な裏切りだった。
「わたくしには……誰もいなかった」
柚月は、涙が止まらなかった。蓮の冷酷な支配を逃れるために、必死で縋り付いた「好きな人」の存在は、実は見合いを断るための理由でしかなく、最初から叶うはずのない恋だったのだ。
蓮に「青い春の迷い」と断罪された時、柚月は蓮を憎んだ。だが、その蓮の言葉は、結果的に真実だった。彼女の「愛」は、蓮の「論理」の前に崩壊したのではなく、最初から存在していなかったのだ。
(私が蓮さまに突きつけたのは、「愛」ではなかった。ただの「逃避の理由」だった)
柚月は、蓮との結婚が家の存続のためだと知らされた時、絶望した。だが、今、彼女が味わっているのは、「愛する人がいなくなった」という、個人的な虚無感だった。
「私は、蓮さまを憎む資格さえ、なかった……」
柚月は、自分が蓮に「愛する人がいる」と告げ、彼を愛のない冷酷な支配者だと罵ったことに、強い罪悪感を覚えた。彼女が蓮に突きつけたのは、真実の愛ではなく、最初から嘘の根拠だったのだ。
柚月が、その場でうずくまっていると、携帯が震えた。蓮からのメッセージだ。
『夜、君の父親と緊急の会議がある。二階堂家に来なさい。神崎が迎えに行く』
蓮は、いつも通り事務的な命令だ。しかし、今の柚月には、その命令が、「私情を捨て、役割に戻れ」という、冷静な救いのように聞こえた。
その日の夜。柚月は、二階堂家で蓮と対峙した。蓮は、書類を前に、相変わらず冷徹な表情で、ビジネスの話をしていた。
「……柚月。お前の大学卒業後の研修先だが、二階堂グループの海外支社を推奨する。そこで、一条の娘として、改めて経営学を学ぶべきだ」
蓮の提案は、柚月の進路を、完全に彼の支配下に置こうとするものだった。
柚月は、静かに頷いた。以前なら、「わたくしの人生を勝手に決めないでください!」と反発しただろう。だが、今は、蓮の冷徹な論理が、彼女の虚無感を埋める、唯一の現実だった。
「承知いたしました。蓮さまの指示に従います」
柚月の従順すぎる態度に、蓮の冷たい瞳が、わずかに動揺した。
「……異論はないのか?」
「ありません。わたくしには、他に願うべき道も、愛する人も、いなくなりました。蓮さまの言う通り、わたくしは一条家の娘の役割を果たすことに専念します」
その言葉は、蓮の論理的な勝利を意味していた。彼が望んでいた通りの、完璧な降伏だ。
しかし、蓮の顔には喜びはなかった。代わりに、深い孤独と苦悩が浮かんでいた。
(なぜだ?君は、自分の愛が嘘だったと認めているのか?)
蓮は、柚月がなぜ突然、抵抗をやめたのか、その真意を探ろうとした。だが、柚月が口を開く前に、彼は冷徹な仮面を被り直す。
「結構。では、そのつもりで準備を進める」
蓮は、柚月の「愛する人がいなくなった」という言葉を、自分の論理的な証明によるものだと誤解した。彼は、自分の行動が柚月の愛を殺したのだと確信し、罪悪感を深めた。
柚月は、蓮が自分の真の絶望(結城先輩の真実)を知らず、勝利を確信していると思い込み、「愛のない支配者」だと憎んだ。
こうして、「愛する人の真実」の崩壊は、二人の間の誤解の壁をさらに分厚く、切なく拗らせていくのだった。