『青い春の迷い星(ステラ)』 ~10歳年上の幼馴染は、一番遠い婚約者~

第三章:最初の顔合わせと宣戦布告

一週間後。二階堂グループが所有する広大な敷地の一角にある迎賓館に、一条家の車が入っていった。
柚月は、淡い桜色の振袖を身に纏っていた。これは、母がこの日のために誂えたものだ。帯結びはふっくらと、袖を通したその姿は、いかにも「社長令嬢」として非の打ち所がない。

だが、柚月の心の中は、これから蓮に告げる「宣戦布告」への緊張で張り詰めていた。
(ここでひるんだら、私は一生、蓮さまの「説教」と「支配」のもとで生きることになる)

ベンチで交わした結城先輩との会話を思い出す。あの時の先輩の困惑と優しさが、柚月の唯一の盾だった。
迎賓館の応接室は、ため息が出るほどの豪華さだった。天井が高く、壁には著名な画家の絵画、中央には磨き上げられたアンティークのテーブルが鎮座している。

テーブルには、既に二階堂家の三人が着席していた。二階堂グループ会長である蓮の父、穏やかながらも鋭い眼光を持つ会長夫人。そして、柚月の正面には、二階堂 蓮が座っていた。

蓮は、今日のために仕立てられたであろう濃紺のスーツを完璧に着こなし、その整った顔には一切の感情が窺えない。いつも通り、氷のように冷静で、柚月を見つめる眼差しは、「一条家の令嬢」を品定めしているようだ。
父が形式的な挨拶を交わす間、柚月は蓮から目を逸らすことができなかった。

(苦手だ。こんなに近くにいると、息が詰まる)
柚月は、その威圧感に飲まれないよう、強く拳を握りしめた。

一通りの挨拶と世間話が終わった。話は当然のように、蓮と柚月の「婚約」へと移っていく。
二階堂会長が朗らかに口を開いた。「蓮も柚月ちゃんも、幼い頃から顔見知りだからね。気心の知れた二人が夫婦になってくれるのは、我々にとっても、一条社長にとっても、これ以上の喜びはない」

蓮の母も、優雅に微笑んだ。「柚月ちゃんは、本当に可愛らしい。蓮の厳しい性格を、きっと和ませてくれるでしょう」
蓮は、ただ静かに頷いている。その「何も言わなくていい」という態度が、柚月をさらに苛立たせた。まるで、この席は既に形式だけで、柚月には拒否権など存在しない と決めつけているようだ。

「蓮くん、何か柚月ちゃんに言葉はないのかい?」と父が促した。
蓮は、初めて柚月に意識を向けるかのように、わずかに視線を動かした。

「特にありません。一条社長の判断と、父の決定に従います。柚月は一条家の令嬢として、求められる役割を理解し、果たしてくれるでしょう」
その言葉は、柚月への愛情や期待ではなく、「会社の歯車」に対する信頼を述べているようだった。

柚月の胸に、カッと熱いものが込み上げてきた。
「求められる役割」。彼は柚月を一人の人間として見ていない。
柚月は、静かに、しかし、はっきりと声を上げた。
「あの、二階堂さま」

柚月の声に、その場の四人全員の視線が集中した。蓮だけが、微かに眉を動かした。柚月が、彼のことを「蓮さま」ではなく、「二階堂さま」と呼んだからだろう。そのよそよそしさが、蓮の冷静さをほんの少し揺さぶった。
「わたくしは、この縁談を辞退させていただきます」
会場の空気が、凍り付いた。一条社長の顔が、みるみるうちに青ざめていく。

「柚月! 何を言っている!」父が小声で叱咤した。
二階堂会長と夫人は顔を見合わせたが、蓮はまだ、表情を変えずに柚月を見つめている。彼の瞳だけが、柚月の言葉の真意を探るように、わずかに光を帯びていた。

柚月は、父の制止を無視し、蓮にまっすぐ向き直った。
「二階堂さまは、わたくしに『求められる役割』を果たせとおっしゃいました。ですが、わたくしは、その役割を果たすつもりはありません」

「その理由は、先週、一条社長から聞いている。『苦手だから』だと」蓮の声は低く、抑揚がない。まるで、つまらない報告を聞いているかのような態度だ。
「苦手、というだけではありません」

柚月は、結城先輩の優しい笑顔を心の内に描いた。これは、彼の優しさに甘える、最初で最大の嘘だ。
「わたくしには、他に愛する人がいます。その方と、既に将来を約束しています」

テーブルの下で、父の足が柚月の足に当たった。「やめろ!」という無言の圧力が伝わってくる。
だが、柚月はひるまなかった。

「その方は、わたくしを『一条家の娘』としてではなく、『柚月』として見てくれます。わたくしが化粧をしようと、スカート丈を短くしようと、『君らしい』と笑ってくれる方です」

蓮の完璧に整えられた顔に、初めて明確な変化が表れた。
彼の目は、驚きや怒りではなく、侮蔑にも似た冷たい光を放っていた。それは、柚月の「愛する人」という存在自体を、取るに足らないものと見下しているような視線だ。

「将来を約束?」蓮は、その言葉をオウム返しに繰り返した。軽蔑の色を滲ませた、低い、囁くような声だった。
「君は、高校を卒業したばかりの世間知らずが、家柄も財力も持たない男と、『恋』という非合理的な感情だけで、この二階堂家との婚約を反故にすると言っているのか?」
蓮の言葉は、柚月が結城先輩の名前を出さずとも、彼の立場と柚月の恋の軽薄さを完璧に言い当てていた。

「ええ。その通りです」柚月は、震える声で答えた。
「わたくしにとって、蓮さまとのお見合いは、ただの苦痛です。わたくしが本当に愛し、共に生きたいと願うのは、その『家柄も財力も持たない』方です」

柚月の言葉は、蓮の完璧な世界に対する、最も不純で、最も感情的な宣戦布告だった。
蓮は、静かに椅子に深く背を預けた。そして、薄い唇をわずかに緩ませ、冷笑を浮かべた。
「そうか。愛する人ね」

彼は、柚月の父に向かって、冷静に告げた。「一条社長。娘さんのご立派な『愛』は理解いたしました。しかし、契約は契約です。この縁談は、二階堂グループと一条呉服問屋の長期的な提携を確固たるものにするための、ビジネスです」

そして、蓮は再び柚月を見つめた。
「柚月。君が何を考え、誰を愛そうと、この婚約は成立する。君がその『愛する人』とやらを諦め、一条家の娘の役割を理解するまで、私は待ちましょう」
彼の態度は、柚月の宣戦布告を、「取るに足らない抵抗」として一蹴していた。

「一週間後、君には改めて、婚約の意向を確認します。それまでに、君の頭の中の青い春の迷いを、綺麗に整理しておくことだ」

蓮はそう言い放つと、席を立った。彼の背中は、柚月の抵抗など、最初から目に入っていなかったかのように、冷徹で傲慢だった。
柚月の、見合いを断るための最初で最大の策は、あっけなく、そして完璧に打ち砕かれた。
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