完璧な嘘、本当の愛
完璧な娘の日常
朝。7時30分。アラームが鳴る前に目が覚める。
日下部春菜は天井を見つめたまま、ベッドの上で何秒か身動きしない。枕の下には、スマートフォンが放置してある。
春菜は起き上がり、寝ぼけた顔のまま鏡に向かった。鏡に映る28歳の自分。睡眠不足の影響で、目の下に薄い浮腫みがある。これではいけない。父が好む髪型は、顔にかかるボブ。柔らかい印象を与える。春菜は細い指で髪を梳かし、形を整える。その手つきは、何度も繰り返した儀式のように自動的だった。
化粧は控えめに。父は濃いメイクを好まない。「女らしさは、引き算だ」。その言葉は、春菜の脳に刻み込まれている。ベージュ系のアイシャドウ。リップは薄いピンク。チークも微かに。完璧なまでに計算された化粧。
クローゼットを開ける。仕事用のスーツが整然と並んでいる。紺、黒、紺、黒。全て無地で上品。父が「企画職とはいえ、保守的であるべき」と言ったから、春菜は本当は好きな色合いを諦めた。赤とか、青とか、そういう色。でも、今はそんなことを考えてはいけない。
紺のスーツに身を包む。ストッキングは肌色。ヒールは3センチ。大人っぽいが、きつすぎない。全てが「完璧な娘」というイメージを作り上げるための小道具。
出社前、実家に送るメッセージを作文する。「おはようございます。今日も頑張ります」。絵文字は使わない。敬語で統一。親友の由美なら、こんなメッセージを送ったら笑われるだろう。でも、春菜の親への接し方は、そういうものだった。
オフィスに到着。同僚の江藤が「春菜、朝早いね」と声をかける。「仕事が残っていたので」と春菜は答える。実際には、朝早く来ることで、仕事の出来ない印象を払拭したかったのだ。完璧なプロフェッショナルでありたい。親が期待する通りに。
午前10時。営業部から結婚の報告があった。30歳の女性社員。「この度、結婚することになりました」という公式なアナウンス。オフィスは拍手に包まれる。春菜も拍手する。その時、ふと思う。「自分も、いつかそういう日が来るんだろうな。親が望む相手と。そういう人生なんだ、自分は」。その思いが、春菜の心を微かに重くした。
昼休み。春菜は、同僚と一緒に食堂に向かう。会話は仕事の話が中心。政治的な発言は避ける。個人的な悩みを打ち明けることなんて、もってのほか。完璧な社会人として、距離感を保つ。
帰宅は午後8時。一人暮らしのアパート。6畳のワンルーム。会社の給料なら、もっと広い部屋も借りられたが、「地に足をつけた生活をすべき」という父の指導に従った。
夜、実家に電話をする。父が電話に出た。「今日の仕事は?」という定型的な質問。「順調です」という定型的な返答。父の機嫌を伺いながら、春菜は返事をしている。父の声が少し疲れていたから、今夜は早く電話を切ることにした。「ではおやすみなさい」と言って、電話を切る。
一人の部屋に戻った春菜は、ベッドに横になる。天井をじっと見つめる。朝と同じ、その天井。毎日、同じ天井。毎日、同じ生活。毎日、完璧を演じる。
そのとき、ふと思う。鏡に映る自分の顔。完璧に整えられた髪。完璧な化粧。完璧なスーツ。その全てが、「本当の自分」ではないように感じた。本当の自分は、どこにいるのだろう。何を望んでいるのだろう。
春菜はその問いの答えを、知らなかった。
日下部春菜は天井を見つめたまま、ベッドの上で何秒か身動きしない。枕の下には、スマートフォンが放置してある。
春菜は起き上がり、寝ぼけた顔のまま鏡に向かった。鏡に映る28歳の自分。睡眠不足の影響で、目の下に薄い浮腫みがある。これではいけない。父が好む髪型は、顔にかかるボブ。柔らかい印象を与える。春菜は細い指で髪を梳かし、形を整える。その手つきは、何度も繰り返した儀式のように自動的だった。
化粧は控えめに。父は濃いメイクを好まない。「女らしさは、引き算だ」。その言葉は、春菜の脳に刻み込まれている。ベージュ系のアイシャドウ。リップは薄いピンク。チークも微かに。完璧なまでに計算された化粧。
クローゼットを開ける。仕事用のスーツが整然と並んでいる。紺、黒、紺、黒。全て無地で上品。父が「企画職とはいえ、保守的であるべき」と言ったから、春菜は本当は好きな色合いを諦めた。赤とか、青とか、そういう色。でも、今はそんなことを考えてはいけない。
紺のスーツに身を包む。ストッキングは肌色。ヒールは3センチ。大人っぽいが、きつすぎない。全てが「完璧な娘」というイメージを作り上げるための小道具。
出社前、実家に送るメッセージを作文する。「おはようございます。今日も頑張ります」。絵文字は使わない。敬語で統一。親友の由美なら、こんなメッセージを送ったら笑われるだろう。でも、春菜の親への接し方は、そういうものだった。
オフィスに到着。同僚の江藤が「春菜、朝早いね」と声をかける。「仕事が残っていたので」と春菜は答える。実際には、朝早く来ることで、仕事の出来ない印象を払拭したかったのだ。完璧なプロフェッショナルでありたい。親が期待する通りに。
午前10時。営業部から結婚の報告があった。30歳の女性社員。「この度、結婚することになりました」という公式なアナウンス。オフィスは拍手に包まれる。春菜も拍手する。その時、ふと思う。「自分も、いつかそういう日が来るんだろうな。親が望む相手と。そういう人生なんだ、自分は」。その思いが、春菜の心を微かに重くした。
昼休み。春菜は、同僚と一緒に食堂に向かう。会話は仕事の話が中心。政治的な発言は避ける。個人的な悩みを打ち明けることなんて、もってのほか。完璧な社会人として、距離感を保つ。
帰宅は午後8時。一人暮らしのアパート。6畳のワンルーム。会社の給料なら、もっと広い部屋も借りられたが、「地に足をつけた生活をすべき」という父の指導に従った。
夜、実家に電話をする。父が電話に出た。「今日の仕事は?」という定型的な質問。「順調です」という定型的な返答。父の機嫌を伺いながら、春菜は返事をしている。父の声が少し疲れていたから、今夜は早く電話を切ることにした。「ではおやすみなさい」と言って、電話を切る。
一人の部屋に戻った春菜は、ベッドに横になる。天井をじっと見つめる。朝と同じ、その天井。毎日、同じ天井。毎日、同じ生活。毎日、完璧を演じる。
そのとき、ふと思う。鏡に映る自分の顔。完璧に整えられた髪。完璧な化粧。完璧なスーツ。その全てが、「本当の自分」ではないように感じた。本当の自分は、どこにいるのだろう。何を望んでいるのだろう。
春菜はその問いの答えを、知らなかった。
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