完璧な嘘、本当の愛

親友との会話と心の揺らぎ

金曜日の夜。築地のイタリア料理店。春菜と親友の由美が向かい合って座っていた。
「ねえ、春菜。実はね、最近さ」と由美は赤ワインのグラスを口に運びながら言った。「佐々木君と同棲することにした」。
春菜の手が一瞬、止まった。フォークをナイフに替える動作が遅れた。
「同棲?」
「そう。来月から」と由美は明るく続ける。「彼が『一緒に住もう』って言ってくれてさ。最初は躊躇したけど、やっぱり一緒にいたいなって思ってさ」。
春菜は「そう……なんだ」と返す。その返答が、自分の声とは思えないほど他人事のように聞こえた。
「親には反対されてるけどね」と由美は笑う。「『結婚もしないのに同棲なんて』ってさ。でも自分の人生だし。親の人生じゃなくてさ」。
その言葉が春菜の心に突き刺さった。「自分の人生」。由美はそれを当たり前のように口にする。その自然さが、春菜には羨ましくも映り、同時に異質なものに感じられた。
由美が春菜を見つめる。「ねえ、春菜は? 最近聞かないけど、彼氏とかいるの?」
春菜は食事に視線を落とす。パスタを一口、口に入れる。もぐもぐと咀嚼しながら時間を稼ぐ。その間、春菜は何と返すべきか考えていた。正直に「別にいません」と言うべきか。それとも、「仕事が忙しくて」と定番の返答で済ますべきか。
「仕事が忙しくて」と春菜は言った。その返答は、スマートで、親からも許容されそうな答え。でも、真実ではなかった。仕事が忙しいのは事実だが、本当の理由は違う。
由美の瞳がじっと春菜を見つめた。何か見透かしているような視線。その沈黙が数秒続く。
「春菜さ」と由美は声を低くした。「本当のことを言ってよ。君、本当に幸せ?」
その問いが、春菜の心に落ちた。ぽとり、と石が沼に落ちるように。波紋が広がる。
春菜は返答できなかった。目をそらし、ワインのグラスに手を伸ばす。その手が微かに震えていることに、自分で気づく。
「幸せか、幸せじゃないか……」と春菜は呟く。その言葉は、自分へ向けた問いのようだった。「幸せなんだと思ってた。だけど……」。
言葉は途切れた。伝えるべき何かが、のどの奥で引っかかっている。
由美は何も言わず、春菜の返答を待つ。その待ち方が優しかった。押しつけがましくない。
「すごいね、由美は」と春菜は別の角度から言葉を発した。「自分の人生を、ちゃんと歩んでるんだ」。その言葉は、褒めではなく、むしろ羨望と自分への失望の混合物だった。
由美は春菜の手に自分の手を置いた。「春菜も、できるよ。自分の人生、歩むことできるよ」。
その瞬間、春菜の目に涙が溜まった。でも、流さない。完璧な娘は、公共の場で泣かない。涙を瞬きで堪える。
食事の後半は、二人で沈黙することが多くなった。由美は春菜が何か大事な問題を抱えていることに気づいているようだった。でも、強く問いただすことはしなかった。ただ、時々春菜を気遣う視線を向けるだけ。
帰りの駅。由美が「何かあったら言ってね。いつでも聞くから」と言った。春菜は頷く。でも、何も話さない。話す勇気がなかった。
アパートに帰った春菜は、ベッドに身を投げた。天井を見つめる。その同じ天井。でも、何かが変わった。由美の「本当に幸せ?」という問いが、春菜の心に住み着いた。
その夜、春菜は眠れなかった。目を閉じても、心が動いていた。親の期待。仕事の完璧さ。そして、自分が何を望んでいるのか、その答え。
朝の4時。春菜は起き上がり、鏡の前に立つ。完璧に整えられた髪。完璧な肌。でも、その奥にいる本当の自分は、どこにいるのだろう。
春菜は、鏡の中の自分の目を見つめた。そこにいるのは、完璧な娘ではなく、どこか迷いを抱えた一人の女性だった。
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