完璧な嘘、本当の愛
恋の始まりと関係の深化
「また会いませんか?」。遠島のその言葉が、春菜の毎日を変えた。
最初の個別の打ち合わせは、緊張に満ちていた。春菜は、いつも以上に完璧であろうとした。資料も、話し方も、姿勢も。しかし、遠島と向き合う中で、その緊張は不思議な快感へと変わった。彼は春菜の言葉を真摯に受け止め、深い質問を投げかける。春菜もまた、彼の質問に対して、本当に考えて答えるようになった。
数ヶ月が経った。打ち合わせは、いつしか食事に変わっていた。
麻布十番のフレンチレストラン。窓際のテーブル。夜景を背景に、春菜と遠島は向かい合って食事をしていた。
「時計は、時間を刻む機械じゃないんです」と遠島が言う。その声は穏やか。「人生に深さを与えるんだ。毎秒、毎分、毎時間に意味を込める装置として」。
春菜はワインを口に運びながら、彼の言葉に耳を傾ける。遠島の話し方は、知識だけではなく、何か深い思想を底に持っているように感じられた。それが春菜を引き寄せていた。
「色彩についても、そうですね」と春菜が返す。「色も、単なる光の波長じゃなくて、人間の心に訴えかけるものだと思います」。
遠島は微かに笑う。その笑顔は、完璧に仕立てられた社会人の笑顔ではなく、何か本物の喜びが込められているように感じられた。
数ヶ月の交際の中で、春菜は遠島の完璧さに惹かれていた。彼はデザイナーとしての知識も豊富だし、社会的な振る舞いも洗練されている。だが、その完璧さの奥に、何か見えない部分があることに気づき始めていた。
遠島は親のことを話さない。友人のことも、ほぼ話さない。職場の人間関係も、ほぼ明かさない。その沈黙が、春菜の好奇心を刺激した。なぜなら、彼女自身も、多くのことを隠しているから。親の期待、本当の気持ち、本当の夢。遠島もまた何かを隠しているのではないかという予感。
「遠島さんって、本当に謎ですね」と春菜が言ったことがある。
遠島は、その時、一瞬目を伏せた。「謎?」と返す。「そうですね。みんな、何かしら隠しているのではないでしょうか」。
その返答が、春菜の心に引っかかった。みんな、何かしら隠している。その言葉の重さ。遠島もまた、何かを隠しているのだという確信が、その瞬間生まれた。
ある夜。遠島のマンションで目を覚ました春菜。
高層階の窓から、東京の夜景が見える。遠島のマンションは、渋谷の一等地。高級感に満ちている。インテリアは全て、センス良く整えられている。完璧だ。
遠島は出勤前に、春菜にキスをした。額に。その習慣は、数ヶ月の交際の中で生まれた。彼が毎朝、春菜の額にキスをする。その時の表情は、何か深い愛おしさを持っていた。
「仕事頑張ってね」と遠島が言う。
春菜が一人、マンションに残される。彼が出勤した後、春菜は部屋を見渡す。
家族写真。一枚もない。本棚には専門書が並んでいるが、個人的な思い出は見当たらない。その空白感が、春菜の心を揺さぶる。
遠島は、どこから来たのだろう。親はいるのだろうか。兄弟は。友人は。そういった基本的な情報が、彼女は何も知らないのだ。
春菜は、彼のデスクを見つめた。パソコンが置いてある。引き出しがいくつかある。でも、彼女は何も開かない。探ろうとは思わない。その尊重が、この関係を支えていた。
でも、その尊重の裏側には、好奇心と不安が共存していた。
数ヶ月の交際の中で、春菜は気づいていた。遠島は、どこか距離感を保っている。完璧な恋人ではあるが、心の全てを開いている訳ではないこと。その距離感が、春菜をより引き寄せていた。
なぜなら、春菜自身も、心の全てを開いていなかったから。
親に話していない。仕事仲間にも話していない。遠島との交際を、誰にも言わない。秘密の恋愛。その秘密性が、この関係を一層濃密にしていた。
昼休み。会社のビルの屋上。春菜は一人、昼食を食べていた。
スマートフォンが鳴る。遠島からのメール。「今夜、会えますか?」
春菜は返信する。「はい」。
その日の仕事は、上の空で終わった。夜8時。いつもの場所で、二人は会う。
遠島は春菜の手を握った。その手の温度。その握力。全てが、春菜に安心感を与えた。
でも、完璧さの奥に隠されたものは、まだ見えていない。春菜が知らないことが、遠島の中に、山ほどあるのだ。
それが、やがて、大きな波紋を呼ぶことになるとは……春菜は、まだ知らなかった。
最初の個別の打ち合わせは、緊張に満ちていた。春菜は、いつも以上に完璧であろうとした。資料も、話し方も、姿勢も。しかし、遠島と向き合う中で、その緊張は不思議な快感へと変わった。彼は春菜の言葉を真摯に受け止め、深い質問を投げかける。春菜もまた、彼の質問に対して、本当に考えて答えるようになった。
数ヶ月が経った。打ち合わせは、いつしか食事に変わっていた。
麻布十番のフレンチレストラン。窓際のテーブル。夜景を背景に、春菜と遠島は向かい合って食事をしていた。
「時計は、時間を刻む機械じゃないんです」と遠島が言う。その声は穏やか。「人生に深さを与えるんだ。毎秒、毎分、毎時間に意味を込める装置として」。
春菜はワインを口に運びながら、彼の言葉に耳を傾ける。遠島の話し方は、知識だけではなく、何か深い思想を底に持っているように感じられた。それが春菜を引き寄せていた。
「色彩についても、そうですね」と春菜が返す。「色も、単なる光の波長じゃなくて、人間の心に訴えかけるものだと思います」。
遠島は微かに笑う。その笑顔は、完璧に仕立てられた社会人の笑顔ではなく、何か本物の喜びが込められているように感じられた。
数ヶ月の交際の中で、春菜は遠島の完璧さに惹かれていた。彼はデザイナーとしての知識も豊富だし、社会的な振る舞いも洗練されている。だが、その完璧さの奥に、何か見えない部分があることに気づき始めていた。
遠島は親のことを話さない。友人のことも、ほぼ話さない。職場の人間関係も、ほぼ明かさない。その沈黙が、春菜の好奇心を刺激した。なぜなら、彼女自身も、多くのことを隠しているから。親の期待、本当の気持ち、本当の夢。遠島もまた何かを隠しているのではないかという予感。
「遠島さんって、本当に謎ですね」と春菜が言ったことがある。
遠島は、その時、一瞬目を伏せた。「謎?」と返す。「そうですね。みんな、何かしら隠しているのではないでしょうか」。
その返答が、春菜の心に引っかかった。みんな、何かしら隠している。その言葉の重さ。遠島もまた、何かを隠しているのだという確信が、その瞬間生まれた。
ある夜。遠島のマンションで目を覚ました春菜。
高層階の窓から、東京の夜景が見える。遠島のマンションは、渋谷の一等地。高級感に満ちている。インテリアは全て、センス良く整えられている。完璧だ。
遠島は出勤前に、春菜にキスをした。額に。その習慣は、数ヶ月の交際の中で生まれた。彼が毎朝、春菜の額にキスをする。その時の表情は、何か深い愛おしさを持っていた。
「仕事頑張ってね」と遠島が言う。
春菜が一人、マンションに残される。彼が出勤した後、春菜は部屋を見渡す。
家族写真。一枚もない。本棚には専門書が並んでいるが、個人的な思い出は見当たらない。その空白感が、春菜の心を揺さぶる。
遠島は、どこから来たのだろう。親はいるのだろうか。兄弟は。友人は。そういった基本的な情報が、彼女は何も知らないのだ。
春菜は、彼のデスクを見つめた。パソコンが置いてある。引き出しがいくつかある。でも、彼女は何も開かない。探ろうとは思わない。その尊重が、この関係を支えていた。
でも、その尊重の裏側には、好奇心と不安が共存していた。
数ヶ月の交際の中で、春菜は気づいていた。遠島は、どこか距離感を保っている。完璧な恋人ではあるが、心の全てを開いている訳ではないこと。その距離感が、春菜をより引き寄せていた。
なぜなら、春菜自身も、心の全てを開いていなかったから。
親に話していない。仕事仲間にも話していない。遠島との交際を、誰にも言わない。秘密の恋愛。その秘密性が、この関係を一層濃密にしていた。
昼休み。会社のビルの屋上。春菜は一人、昼食を食べていた。
スマートフォンが鳴る。遠島からのメール。「今夜、会えますか?」
春菜は返信する。「はい」。
その日の仕事は、上の空で終わった。夜8時。いつもの場所で、二人は会う。
遠島は春菜の手を握った。その手の温度。その握力。全てが、春菜に安心感を与えた。
でも、完璧さの奥に隠されたものは、まだ見えていない。春菜が知らないことが、遠島の中に、山ほどあるのだ。
それが、やがて、大きな波紋を呼ぶことになるとは……春菜は、まだ知らなかった。