蝶々結び 【長編ver.完結】
第6章 忘れられない温もり
翌朝。
目を覚ました瞬間、まぶたがやけに重かった。
部屋のカーテンの隙間から、淡い光が差し込んでいる。
寝起きのぼんやりした視界に、昨日の記憶がうっすらと浮かんでくる。
胸の奥が、静かにざわついた。
シーツを握る指先に、かすかな温もりの感覚が残っている気がした。
昨夜――あの診察室で、陽向先生の腕の中にいた。
思い出した途端、心臓が一気に跳ねる。
そして、次の瞬間、ため息がこぼれた。
「……夢、じゃないんだよね。」
ゆっくりと起き上がり、鏡の前へ向かう。
鏡に映った自分の顔は、いつもより少し疲れて見えた。
恐る恐る近づいて、目の下に指を当てる。
「……うわ、やっぱり腫れてる。」
泣きすぎた証拠。
目の下にはうっすらと赤みが残っていて、化粧でも隠せるか怪しい。
鏡越しの自分が、なんだか他人のように見えた。
感情を押し込めようとして、結局押し込められなかった顔。
それでも、いつものように整えなきゃいけない。
結衣はコンシーラーを手に取り、念入りにポンポンと叩き込む。
その手つきは、まるで自分を守るための儀式のようだった。
重ねてファンデーションをのばし、血色をチークで誤魔化していく。
鏡の中の表情は少しずつ“いつもの橘結衣”に戻っていった。
仕事用の笑顔。誰にも見せない心の奥を、丁寧に隠す仮面。
(……大丈夫。いつも通りにできる。)
深呼吸をして、鏡の中の自分に向かってにっこりと笑う。
「よし、完璧!」
声に出して気合を入れた。
けれど、その笑顔はどこかぎこちない。
心の奥のもやもやは、まだ霧のように残っていた。
――昨日のことが、何度も頭をよぎる。
診察室での抱擁。
陽向先生の腕の温かさ。
耳元で囁かれた低い声。
それが記憶というより、まだ身体に残る感覚のようにリアルで。
「……っ」
思い出した瞬間、頬が一気に熱を帯びた。
胸の奥で心臓が跳ね、言葉にならない震えが広がる。
(陽向先生って……つまり、私のこと、ずっと好きだったってこと?)
頭では理解しても、心が追いつかない。
その答えにたどり着くたびに、鼓動がドクンと跳ねた。
でも同時に、不安が胸をかすめる。
(でも……本気なの? それとも、あのときの勢いで……?)
昨日の彼の眼差しは、確かに優しくて真っ直ぐで。
だけど、あまりにも突然で、夢みたいで。
信じたいのに、信じきれない。
鏡の中の自分と視線がぶつかり、結衣は小さく息を吐いた。
「どうしよう……今日、どんな顔して会えばいいの……。」
呟いた声が、部屋の中で寂しく反響した。
バッグを掴み、勢いよく家を飛び出す。
冷たい朝の空気が頬に当たって、少しだけ目が覚めた。
病院に着くと、朝の廊下はすでに人で賑わっていた。
ナースシューズの音が忙しなく響き、消毒液の匂いが漂う。
看護師たちの明るい声、患者さんの笑い声、電子音。
いつもの朝。けれど、結衣の胸の中だけが落ち着かない。
カルテを抱えてステーションを通り過ぎたとき、視界の端に白衣の背中が映った。
――陽向先生。
白衣の袖をまくり、小学生くらいの男の子に膝をついて話しかけている。
「じゃあ、退院したらちゃんと宿題やるんだよ?」
「はーい!」
少年の元気な返事に、陽向先生が優しく笑った。
その笑顔に周囲の空気が一瞬ふわりと和らぐ。
近くの看護師たちもくすっと笑い、自然と場が明るくなる。
結衣の胸の中にも、知らず小さな温かさが灯った。
(……いつも通り。いつもの、陽向先生。)
その優しさに、どうしようもなく惹かれていってしまっているのを、
昨日、痛いほど知ってしまったのだ。
「今日も陽向先生、爽やかイケメンだよねぇ~!」
隣から聞こえる明るい声。柚希だ。
相変わらず朝からテンションが高い。
彼女はカルテを抱えながら、目を輝かせて続けた。
「ねぇ結衣、あの笑顔ずるくない? 患者さんも看護師もみんな落ちてるよ?」
「……はぁー。」
結衣はため息をつき、カルテを整理するふりをして視線を落とす。
カルテを整理しながらぼそっと呟いた。
「別に……そんなに爽やかでもないけどね。」
「え?」と柚希が顔を向ける。
結衣は視線を泳がせた。
柚希が不思議そうに眉を上げた。
けれど、結衣の頭の中には別の“笑顔”が浮かんでいた。
(昨日の陽向先生、全然“爽やか”じゃなかったもん……。)
あの時の彼は、優しさの奥に熱を秘めていた。
冷静じゃなくて、少しだけ意地悪で、でも真剣な眼差しで抱きしめてきた陽向先生の姿。
それを思い出した瞬間、また頬が熱を帯びる。
手の中のカルテが少し震えた。
「……結衣?」
柚希が覗き込む。
「な、なに?」
「ちょっとー!顔、赤くない?!」
にやにやしながら一歩近づいてくる。
「え、まさか!陽向先生と進展あったの?!」
「な、なんにもないよっ!」
あわてて手を振る。
けれど、声がわずかに上ずってしまい、逆に怪しい。
柚希の目が鋭く光った。
「ほんとぉ~? だってその反応、絶対なんかあったやつじゃん!」
「ち、違うってば! 昨日は……ただ……っ!」
そこまで言いかけたとき、ふと前方の気配に気づいた。
廊下の向こう――
陽向先生がちょうどこちらを振り向いていた。
目が、合った。
ほんの一瞬。
けれど、心臓が止まりそうになるほど長く感じた。
その瞬間、周囲の音が遠のく。
ナースステーションのざわめきも、電子音も、全部消えた。
ただ、二人の間に流れる静寂だけが残る。
彼はふっと目を細めて、あの“完璧な笑顔”を浮かべた。
柔らかく、穏やかで、まるで何事もなかったかのような微笑み。
けれど――その奥に、一瞬だけ“昨日の眼差し”が覗いた。
あの真っ直ぐで、逃げ場のない光。
結衣の心臓が跳ね上がる。
「……っ!」
彼女はとっさに視線をそらし、カルテに顔を埋めた。
頬の熱を隠すように、唇を噛む。
「きゃぁぁぁぁ!!今の何?!今の見た!?目、合ったよね?!
しかもあの笑顔、完全に特別待遇じゃん!!」
柚希が興奮気味に肩を揺さぶる。
「ちょ、やめてってば!ほんとに違うからっ!」
焦って言い返すが、声が震えているのを自分でも感じた。
耳の奥まで真っ赤になっていく。
柚希は面白がってさらに追及しようとしたが、
結衣は顔を背けて仕事に戻るふりをした。
(……やっぱり、いつもの顔なんてできない。)
昨日の温もり。
今日の笑顔。
どちらも陽向先生。
でも、どちらの彼も、私の心を揺らしてくる。
心臓の鼓動を落ち着かせようと、胸に手を当てた。
それでも、鼓動は速くなるばかりだった。
――そして、ほんの少しだけ。
その“揺れ”が心地いいと感じている自分に気づいて、
結衣はまた、そっと視線を逸らした。
窓の外では、灰色だった昨日の空が少しずつ青に戻り始めていた。
けれど彼女の胸の中では、まだ新しい嵐が静かに渦を巻いていた。
目を覚ました瞬間、まぶたがやけに重かった。
部屋のカーテンの隙間から、淡い光が差し込んでいる。
寝起きのぼんやりした視界に、昨日の記憶がうっすらと浮かんでくる。
胸の奥が、静かにざわついた。
シーツを握る指先に、かすかな温もりの感覚が残っている気がした。
昨夜――あの診察室で、陽向先生の腕の中にいた。
思い出した途端、心臓が一気に跳ねる。
そして、次の瞬間、ため息がこぼれた。
「……夢、じゃないんだよね。」
ゆっくりと起き上がり、鏡の前へ向かう。
鏡に映った自分の顔は、いつもより少し疲れて見えた。
恐る恐る近づいて、目の下に指を当てる。
「……うわ、やっぱり腫れてる。」
泣きすぎた証拠。
目の下にはうっすらと赤みが残っていて、化粧でも隠せるか怪しい。
鏡越しの自分が、なんだか他人のように見えた。
感情を押し込めようとして、結局押し込められなかった顔。
それでも、いつものように整えなきゃいけない。
結衣はコンシーラーを手に取り、念入りにポンポンと叩き込む。
その手つきは、まるで自分を守るための儀式のようだった。
重ねてファンデーションをのばし、血色をチークで誤魔化していく。
鏡の中の表情は少しずつ“いつもの橘結衣”に戻っていった。
仕事用の笑顔。誰にも見せない心の奥を、丁寧に隠す仮面。
(……大丈夫。いつも通りにできる。)
深呼吸をして、鏡の中の自分に向かってにっこりと笑う。
「よし、完璧!」
声に出して気合を入れた。
けれど、その笑顔はどこかぎこちない。
心の奥のもやもやは、まだ霧のように残っていた。
――昨日のことが、何度も頭をよぎる。
診察室での抱擁。
陽向先生の腕の温かさ。
耳元で囁かれた低い声。
それが記憶というより、まだ身体に残る感覚のようにリアルで。
「……っ」
思い出した瞬間、頬が一気に熱を帯びた。
胸の奥で心臓が跳ね、言葉にならない震えが広がる。
(陽向先生って……つまり、私のこと、ずっと好きだったってこと?)
頭では理解しても、心が追いつかない。
その答えにたどり着くたびに、鼓動がドクンと跳ねた。
でも同時に、不安が胸をかすめる。
(でも……本気なの? それとも、あのときの勢いで……?)
昨日の彼の眼差しは、確かに優しくて真っ直ぐで。
だけど、あまりにも突然で、夢みたいで。
信じたいのに、信じきれない。
鏡の中の自分と視線がぶつかり、結衣は小さく息を吐いた。
「どうしよう……今日、どんな顔して会えばいいの……。」
呟いた声が、部屋の中で寂しく反響した。
バッグを掴み、勢いよく家を飛び出す。
冷たい朝の空気が頬に当たって、少しだけ目が覚めた。
病院に着くと、朝の廊下はすでに人で賑わっていた。
ナースシューズの音が忙しなく響き、消毒液の匂いが漂う。
看護師たちの明るい声、患者さんの笑い声、電子音。
いつもの朝。けれど、結衣の胸の中だけが落ち着かない。
カルテを抱えてステーションを通り過ぎたとき、視界の端に白衣の背中が映った。
――陽向先生。
白衣の袖をまくり、小学生くらいの男の子に膝をついて話しかけている。
「じゃあ、退院したらちゃんと宿題やるんだよ?」
「はーい!」
少年の元気な返事に、陽向先生が優しく笑った。
その笑顔に周囲の空気が一瞬ふわりと和らぐ。
近くの看護師たちもくすっと笑い、自然と場が明るくなる。
結衣の胸の中にも、知らず小さな温かさが灯った。
(……いつも通り。いつもの、陽向先生。)
その優しさに、どうしようもなく惹かれていってしまっているのを、
昨日、痛いほど知ってしまったのだ。
「今日も陽向先生、爽やかイケメンだよねぇ~!」
隣から聞こえる明るい声。柚希だ。
相変わらず朝からテンションが高い。
彼女はカルテを抱えながら、目を輝かせて続けた。
「ねぇ結衣、あの笑顔ずるくない? 患者さんも看護師もみんな落ちてるよ?」
「……はぁー。」
結衣はため息をつき、カルテを整理するふりをして視線を落とす。
カルテを整理しながらぼそっと呟いた。
「別に……そんなに爽やかでもないけどね。」
「え?」と柚希が顔を向ける。
結衣は視線を泳がせた。
柚希が不思議そうに眉を上げた。
けれど、結衣の頭の中には別の“笑顔”が浮かんでいた。
(昨日の陽向先生、全然“爽やか”じゃなかったもん……。)
あの時の彼は、優しさの奥に熱を秘めていた。
冷静じゃなくて、少しだけ意地悪で、でも真剣な眼差しで抱きしめてきた陽向先生の姿。
それを思い出した瞬間、また頬が熱を帯びる。
手の中のカルテが少し震えた。
「……結衣?」
柚希が覗き込む。
「な、なに?」
「ちょっとー!顔、赤くない?!」
にやにやしながら一歩近づいてくる。
「え、まさか!陽向先生と進展あったの?!」
「な、なんにもないよっ!」
あわてて手を振る。
けれど、声がわずかに上ずってしまい、逆に怪しい。
柚希の目が鋭く光った。
「ほんとぉ~? だってその反応、絶対なんかあったやつじゃん!」
「ち、違うってば! 昨日は……ただ……っ!」
そこまで言いかけたとき、ふと前方の気配に気づいた。
廊下の向こう――
陽向先生がちょうどこちらを振り向いていた。
目が、合った。
ほんの一瞬。
けれど、心臓が止まりそうになるほど長く感じた。
その瞬間、周囲の音が遠のく。
ナースステーションのざわめきも、電子音も、全部消えた。
ただ、二人の間に流れる静寂だけが残る。
彼はふっと目を細めて、あの“完璧な笑顔”を浮かべた。
柔らかく、穏やかで、まるで何事もなかったかのような微笑み。
けれど――その奥に、一瞬だけ“昨日の眼差し”が覗いた。
あの真っ直ぐで、逃げ場のない光。
結衣の心臓が跳ね上がる。
「……っ!」
彼女はとっさに視線をそらし、カルテに顔を埋めた。
頬の熱を隠すように、唇を噛む。
「きゃぁぁぁぁ!!今の何?!今の見た!?目、合ったよね?!
しかもあの笑顔、完全に特別待遇じゃん!!」
柚希が興奮気味に肩を揺さぶる。
「ちょ、やめてってば!ほんとに違うからっ!」
焦って言い返すが、声が震えているのを自分でも感じた。
耳の奥まで真っ赤になっていく。
柚希は面白がってさらに追及しようとしたが、
結衣は顔を背けて仕事に戻るふりをした。
(……やっぱり、いつもの顔なんてできない。)
昨日の温もり。
今日の笑顔。
どちらも陽向先生。
でも、どちらの彼も、私の心を揺らしてくる。
心臓の鼓動を落ち着かせようと、胸に手を当てた。
それでも、鼓動は速くなるばかりだった。
――そして、ほんの少しだけ。
その“揺れ”が心地いいと感じている自分に気づいて、
結衣はまた、そっと視線を逸らした。
窓の外では、灰色だった昨日の空が少しずつ青に戻り始めていた。
けれど彼女の胸の中では、まだ新しい嵐が静かに渦を巻いていた。