蝶々結び 【長編ver.完結】
秋風がやさしく吹き抜ける屋上の片隅で、柚希と結衣は並んで腰を下ろしていた。

 昼下がりの屋上は、病棟の喧騒から離れていて静かだった。遠くで鳩が羽を鳴らす音と、時おり聞こえる風の唸りだけが、ふたりの間を通り抜けていく。
 眼下には病院の庭が見え、色づき始めたイチョウが、秋の深まりを静かに告げていた。

「……やっぱり、屋上は落ち着くね。」
 柚希が大きく伸びをしながら言った。
 結衣は、手に持った紙パックのカフェオレをくるくると回しながら、曖昧に笑った。

「うん……。なんか、風が気持ちいい。」

 そう言いながらも、結衣の声は少し沈んでいる。柚希は、すぐにその違和感を感じ取った。

「ねぇ結衣。どうしたの? なんか、元気ない。」

 結衣は少し間を置いて、小さく息を吐いた。
「……実はね、最近、陽向先生のことで……ちょっといろいろあって。」

 その言葉を聞いた瞬間、柚希の目がきらりと光る。
「えっ、やっぱり?! それ“ちょっと”じゃないでしょ! 詳しく!!」

「ちょ、ちょっと待ってよ。そんなに食いつかないで。」

 結衣は苦笑しながら、肩をすくめた。けれど、柚希の好奇心はもう止まらない。
「だって、あの陽向先生だよ? なにがあったの?」

 結衣は少し迷いながらも、ぽつぽつと話し始めた。
 外来での火傷のこと。
 診察室での噂の話。
 そして――あの、突然の抱擁。

 言葉にするたびに、あのときの鼓動や息の温度が蘇る。
 話し終えると、柚希はぽかんと口を開けたまま、しばらく固まっていた。

「……え、なにそれ? え、なにそれ?! それってもう――告白じゃん!!!」

 屋上に響くほどの声に、結衣はあわてて「しーっ!」と指を立てた。

「静かにしてってば!」
「だってさ! それ完全に陽向先生、結衣のこと好きでしょ!?
 “僕はずっと橘さんしか見てない”とか言われたんでしょ? 何そのセリフ、ドラマ超えてるんだけど!!」

「そ、そんな大げさな言い方しないでよ……」

 顔がじわじわと熱くなっていく。
 風が頬を撫でるたび、その熱が逃げていくようで、逆に切なかった。

「でも、ほんとに……そんな簡単な話じゃないんだよ。」

「なんで? だって結衣も……陽向先生のこと、好きなんでしょ?」

 その一言に、心臓がどくん、と跳ねた。
 カフェオレを持つ手が、ほんの少し震える。

(……好き、なのかな)

 思い出す。
 彼の優しい笑顔、あの低い声。
 視線が合うたびに胸が苦しくなって、でも嬉しくて。
 ――きっともう、自分でも気づいていた。

「うん……そう、かもしれない。」
 小さくそう呟いた声は、風に紛れて消えそうだった。

 柚希はにっこりと笑い、言葉を重ねた。
「だったら、飛び込んでみたら? 陽向先生、絶対に受け止めてくれると思うよ。」

「……飛び込むって、そんな簡単に言わないでよ。」
 結衣は苦笑しながら、視線を落とす。
 手の中の紙パックを軽く押すと、カフェオレがストローを伝って、ほんのり甘い香りが口に広がった。

 だけど、心の中の苦味は消えなかった。

「……でも、はっきり“好きだ”って言われたわけじゃないの。不安で。」

 柚希は黙って頷いた。
「それにね……昔付き合ってた人のこと、思い出すときがあるの。」

「え? 元カレ?!」
 柚希が目をまんまるにする。

「そんな話、初耳なんだけど!」

「うん……。」
 結衣は少し俯いて、遠くの空を見上げた。
 青空の下で雲が流れていく。まるで過去の記憶が風に乗って流れていくように。

「ここに来る前の病院でね、その病院にいた新人の医者だったの。
 最初は優しかったんだけど、仕事が忙しくなって、すれ違いが増えて……
 最後は、別れてしまったんだけど。
 実は彼が、……他の若い看護師と浮気しているのがわかってね。
 雨の中、ひとりで泣いた夜があったんだ…。」

 声が震えた。
 指先が、紙パックをぎゅっと握る。

「心がぐちゃぐちゃになったまま、帰り道で携帯を見て、今までの思い出の写真がいっぱい出てきて。
 これから先、ずっと続くと思ってたのにって。――今でも覚えてる。」

 柚希は黙って聞いていた。
 その表情には驚きと、そして深い優しさが混じっていた。

「……つらかったね。」
 静かな声でそう言うと、柚希は結衣の肩にそっと手を置いた。

「そんなことがあったら、恋が怖くなるのも無理ないよ。」

 結衣は少しうつむいて頷いた。

「……だから、陽向先生がどんな気持ちであの言葉を言ったのか、信じたいのに、怖いんだ。」

 風がふっと強く吹いて、二人の髪を揺らした。
 柚希はその風の音を聞きながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「でもね、私、陽向先生は違うと思う。」

「え……?」

「結衣を見てるときのあの目、全然違うもん。
 患者さんや同僚に向ける優しさと、結衣に向ける眼差しは……全然別のものだよ。
 本気で想ってる人の目だよ、あれ。」

 結衣の胸の奥に、温かいものが広がっていく。
 同時に、涙のような感情がこみ上げてきた。

「……柚希、ありがとう。
 なんか、聞いてもらえて少しスッキリした。」

「うん。」
 柚希はにっこり笑って、軽く肩を叩いた。

「でもね、もし陽向先生が結衣を泣かせたら――私、絶対にぶん殴るから。」

「ふふっ……柚希らしい。」

 二人は顔を見合わせて笑った。
 屋上に響く笑い声が、どこか懐かしく、あたたかかった。

 風が柔らかく吹いて、空の青がさらに深まる。
 遠くのビルの影が長く伸びていく午後。

 結衣はその青空を見上げながら、そっと心の中で呟いた。

(……もう一度だけ、ちゃんと向き合ってみよう。)

 それは決意というより、小さな祈りのような言葉だった。

「ありがとう、柚希。」

「いいって。私はいつでも結衣の味方だから。」

 その言葉に、結衣は静かに頷いた。
 その笑顔の奥に、ほんの少しだけ勇気が宿っていた。

 秋の風が、二人の間を優しく撫でていく。
 どこまでも澄みきった空が、結衣の新しい一歩をそっと後押ししてくれているようだった。
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