蝶々結び 【長編ver.完結】
病棟の照明は落とされ、淡い非常灯だけが廊下をぼんやりと照らしていた。
夜の病院特有の静けさ。昼間のざわめきが嘘のように消え、聞こえるのはモニターの電子音と、時折どこかで鳴るナースコールの小さな音だけだった。
カツン、カツン――。
ナースシューズの音が長い廊下に響く。
懐中電灯の小さな光が、白い壁をなぞるように揺れながら進んでいく。
夜勤の巡回を終えた結衣は、ナースステーションへ戻る途中で立ち止まった。
手に持つカルテを見ながら、静かに息を吐く。
「よかった……。今日は、みんな安定してるみたい。」
安堵の吐息が漏れた。
緊張が少しだけ緩み、心がふっと軽くなる。
夜勤の静寂は、時に心を落ち着かせてくれる――けれど、今日は違った。
胸の奥がざわざわして、落ち着かない。
理由は、言うまでもない。
(……陽向先生。)
昼間、屋上で柚希と話したときの言葉がまだ頭の中に残っていた。
柚希の「飛び込んでいいんじゃない?」という言葉。
あのときは曖昧に笑ってごまかしたけれど、本当は――怖かった。
好きかもしれない。でも、それを認めたら戻れなくなる気がして。
そんな考えを抱えたまま、時計の針は深夜0時を回っていた。
そのときだった。
――コツ、コツ、と遠くから足音が聞こえた。
結衣は首を傾げ、懐中電灯の光をそちらに向けた。
(患者さんかな? トイレか、部屋を間違えたのかも……。)
そんなことを思いながら、静かに足を進める。
だが、暗がりに浮かび上がったのは――白衣の影だった。
「……陽向先生?」
思わず声が漏れる。
非常灯の光に照らされ、柔らかく微笑む彼の姿があった。
「橘さん。ラウンド中? お疲れさま。」
「……あっ、お疲れさまです。」
心臓がどくりと大きく跳ねた。
夜勤中に彼と会うなんて思ってもみなかった。
昼間よりも静かな空間で見る白衣の姿は、どこか違って見える。
その穏やかな声が、やけに近く、胸の奥をくすぐった。
「実は急遽、当直の香川先生と交代になってね。風邪ひいたらしくて。」
軽く笑う陽向先生。
彼の喉仏が動くたびに、非常灯の光がほのかに肌を照らす。
何気ない言葉なのに、その声を聞いているだけで体温が上がっていく気がした。
「あ、そうだったんですね。じゃあ、今晩よろしくお願いします。」
結衣は努めて平静を装った。だが、心の中では(聞いてませんけど……!)と大混乱だった。
陽向先生はクスッと笑い、軽く首を傾げる。
その仕草さえ、夜の静寂の中では妙に色っぽく見えた。
「そうだ、橘さん。308号室の田中さんの件で少し相談したいんだけど、ちょっといい?」
「308号室……?」
結衣は首をかしげた。
(あれ? あの部屋、今は空室のはずだけど……。)
「わかりました。」
そう答えながらも、胸の奥では小さな違和感がくすぶっていた。
彼の言葉を信じて、ついていくしかない――そんな気持ちで歩き出す。
人気のない廊下。
空調の低い音と、足音だけが響く。
緊張と静寂が入り混じった空間で、結衣の指先は無意識にカルテの端を強く握っていた。
やがて、308号室の前に着く。
陽向先生が静かにドアを開けた。
「どうぞ。」
中は誰もいない個室だった。
カーテンも引かれていない。白いベッドシーツが、月明かりに照らされて淡く光っている。
結衣は首をかしげながら入室し、振り返る。
その瞬間――
カチリと音を立ててドアが閉まった。
シン、とした静寂が二人を包む。
まるで時間が止まったように感じた。
「……あの、陽向先生。308号室って、今どなたも入ってないですよね?」
結衣は不思議そうに問いかけた。
陽向先生は答えず、静かに彼女の方へ歩み寄った。
その足音がひとつ響くたび、結衣の鼓動が速くなっていく。
そして――
目の前まで来ると、壁際に立つ結衣の顔の横に手をつき、彼女を囲い込んだ。
トン――。
その小さな音がやけに大きく響いた。
距離は一瞬でゼロに近づく。
空気が、甘く張り詰めた。
「……っ!」
息が詰まる。
視線を上げると、すぐ目の前に彼の瞳があった。
夜の光を映したように、深く澄んでいて、逃げ場がない。
陽向先生は、少し意地悪そうに唇の端を上げた。
「橘さん、大丈夫? 僕だったからいいけど、こうやって簡単に男の人について行ったらダメだよ?」
冗談めかしているのに、声は低くて優しくて、耳の奥を震わせる。
胸がぎゅっと締めつけられるように苦しいのに、不思議と嫌じゃない。
「な、なに言ってるんですか……っ、仕事中ですよ!」
結衣は小声で抗議しながらも、彼の白衣の袖を思わず掴んでいた。
その手が微かに震えているのを、彼は気づいているだろうか。
陽向先生は目を細め、楽しそうに微笑んだ。
「だって、あれから橘さん、僕のことまた避けてたでしょ? 話しかけてもすぐ逃げるし。」
「そ、そんなこと……っ」
「ちょっと寂しいなぁ。」
柔らかい声で言いながら、指先で結衣の髪の一房をそっとすくう。
さらりとした髪が指の間を滑り落ち、結衣の肩に触れた。
「や、やめてください……っ。」
声が震える。
けれどその“やめて”には、本気の拒絶ではなく、戸惑いと羞恥が混ざっていた。
陽向先生は、少しだけ唇を近づけながら囁いた。
「ん~? 橘さんを堪能したいだけなんだけどな。」
「ほ、ほんとに何言ってるんですか……!」
顔が一気に熱くなる。
心臓の音が、病室の静寂を破りそうなほど響いていた。
彼の瞳がすぐそこにある。
真っ直ぐで、優しいのにどこか挑発的な光を宿している。
息が触れる距離。
どちらが先に動くのか、時間がゆっくり流れていく。
「橘さん。」
低く、掠れた声。
耳元に近づき、言葉が落ちてくる。
「……あれから、僕のこと、ちゃんと意識してくれた?」
「そ、それはっ……。」
答えられない。
けれど沈黙が、何よりも雄弁に気持ちを語ってしまっていた。
彼の息がかかるほど近くに感じた瞬間――
ブルブルブルッ、と陽向先生の胸ポケットが震えた。
当直当番用の電話だ。
二人の間の空気が、一瞬で現実に引き戻される。
夜の病院特有の静けさ。昼間のざわめきが嘘のように消え、聞こえるのはモニターの電子音と、時折どこかで鳴るナースコールの小さな音だけだった。
カツン、カツン――。
ナースシューズの音が長い廊下に響く。
懐中電灯の小さな光が、白い壁をなぞるように揺れながら進んでいく。
夜勤の巡回を終えた結衣は、ナースステーションへ戻る途中で立ち止まった。
手に持つカルテを見ながら、静かに息を吐く。
「よかった……。今日は、みんな安定してるみたい。」
安堵の吐息が漏れた。
緊張が少しだけ緩み、心がふっと軽くなる。
夜勤の静寂は、時に心を落ち着かせてくれる――けれど、今日は違った。
胸の奥がざわざわして、落ち着かない。
理由は、言うまでもない。
(……陽向先生。)
昼間、屋上で柚希と話したときの言葉がまだ頭の中に残っていた。
柚希の「飛び込んでいいんじゃない?」という言葉。
あのときは曖昧に笑ってごまかしたけれど、本当は――怖かった。
好きかもしれない。でも、それを認めたら戻れなくなる気がして。
そんな考えを抱えたまま、時計の針は深夜0時を回っていた。
そのときだった。
――コツ、コツ、と遠くから足音が聞こえた。
結衣は首を傾げ、懐中電灯の光をそちらに向けた。
(患者さんかな? トイレか、部屋を間違えたのかも……。)
そんなことを思いながら、静かに足を進める。
だが、暗がりに浮かび上がったのは――白衣の影だった。
「……陽向先生?」
思わず声が漏れる。
非常灯の光に照らされ、柔らかく微笑む彼の姿があった。
「橘さん。ラウンド中? お疲れさま。」
「……あっ、お疲れさまです。」
心臓がどくりと大きく跳ねた。
夜勤中に彼と会うなんて思ってもみなかった。
昼間よりも静かな空間で見る白衣の姿は、どこか違って見える。
その穏やかな声が、やけに近く、胸の奥をくすぐった。
「実は急遽、当直の香川先生と交代になってね。風邪ひいたらしくて。」
軽く笑う陽向先生。
彼の喉仏が動くたびに、非常灯の光がほのかに肌を照らす。
何気ない言葉なのに、その声を聞いているだけで体温が上がっていく気がした。
「あ、そうだったんですね。じゃあ、今晩よろしくお願いします。」
結衣は努めて平静を装った。だが、心の中では(聞いてませんけど……!)と大混乱だった。
陽向先生はクスッと笑い、軽く首を傾げる。
その仕草さえ、夜の静寂の中では妙に色っぽく見えた。
「そうだ、橘さん。308号室の田中さんの件で少し相談したいんだけど、ちょっといい?」
「308号室……?」
結衣は首をかしげた。
(あれ? あの部屋、今は空室のはずだけど……。)
「わかりました。」
そう答えながらも、胸の奥では小さな違和感がくすぶっていた。
彼の言葉を信じて、ついていくしかない――そんな気持ちで歩き出す。
人気のない廊下。
空調の低い音と、足音だけが響く。
緊張と静寂が入り混じった空間で、結衣の指先は無意識にカルテの端を強く握っていた。
やがて、308号室の前に着く。
陽向先生が静かにドアを開けた。
「どうぞ。」
中は誰もいない個室だった。
カーテンも引かれていない。白いベッドシーツが、月明かりに照らされて淡く光っている。
結衣は首をかしげながら入室し、振り返る。
その瞬間――
カチリと音を立ててドアが閉まった。
シン、とした静寂が二人を包む。
まるで時間が止まったように感じた。
「……あの、陽向先生。308号室って、今どなたも入ってないですよね?」
結衣は不思議そうに問いかけた。
陽向先生は答えず、静かに彼女の方へ歩み寄った。
その足音がひとつ響くたび、結衣の鼓動が速くなっていく。
そして――
目の前まで来ると、壁際に立つ結衣の顔の横に手をつき、彼女を囲い込んだ。
トン――。
その小さな音がやけに大きく響いた。
距離は一瞬でゼロに近づく。
空気が、甘く張り詰めた。
「……っ!」
息が詰まる。
視線を上げると、すぐ目の前に彼の瞳があった。
夜の光を映したように、深く澄んでいて、逃げ場がない。
陽向先生は、少し意地悪そうに唇の端を上げた。
「橘さん、大丈夫? 僕だったからいいけど、こうやって簡単に男の人について行ったらダメだよ?」
冗談めかしているのに、声は低くて優しくて、耳の奥を震わせる。
胸がぎゅっと締めつけられるように苦しいのに、不思議と嫌じゃない。
「な、なに言ってるんですか……っ、仕事中ですよ!」
結衣は小声で抗議しながらも、彼の白衣の袖を思わず掴んでいた。
その手が微かに震えているのを、彼は気づいているだろうか。
陽向先生は目を細め、楽しそうに微笑んだ。
「だって、あれから橘さん、僕のことまた避けてたでしょ? 話しかけてもすぐ逃げるし。」
「そ、そんなこと……っ」
「ちょっと寂しいなぁ。」
柔らかい声で言いながら、指先で結衣の髪の一房をそっとすくう。
さらりとした髪が指の間を滑り落ち、結衣の肩に触れた。
「や、やめてください……っ。」
声が震える。
けれどその“やめて”には、本気の拒絶ではなく、戸惑いと羞恥が混ざっていた。
陽向先生は、少しだけ唇を近づけながら囁いた。
「ん~? 橘さんを堪能したいだけなんだけどな。」
「ほ、ほんとに何言ってるんですか……!」
顔が一気に熱くなる。
心臓の音が、病室の静寂を破りそうなほど響いていた。
彼の瞳がすぐそこにある。
真っ直ぐで、優しいのにどこか挑発的な光を宿している。
息が触れる距離。
どちらが先に動くのか、時間がゆっくり流れていく。
「橘さん。」
低く、掠れた声。
耳元に近づき、言葉が落ちてくる。
「……あれから、僕のこと、ちゃんと意識してくれた?」
「そ、それはっ……。」
答えられない。
けれど沈黙が、何よりも雄弁に気持ちを語ってしまっていた。
彼の息がかかるほど近くに感じた瞬間――
ブルブルブルッ、と陽向先生の胸ポケットが震えた。
当直当番用の電話だ。
二人の間の空気が、一瞬で現実に引き戻される。