蝶々結び 【長編ver.完結】
陽向先生の携帯が震えた瞬間、
 結衣の身体はびくりと強張った。

 狭い個室の中で響く小さな振動音が、やけに大きく感じる。
 胸の奥までその音が伝わって、鼓動のリズムを乱していく。

 壁に追い詰められたまま、結衣は息を詰めた。
 陽向先生は、そんな彼女を見下ろしたまま――
 まるで何事もないように、ゆっくりと携帯を取り出す。

 その動作が、あまりにも自然で、静かで、余裕に満ちていた。
 白衣の袖が揺れ、彼の指先が微かに光を反射する。

(……どうしてそんなに落ち着いていられるの……?)

 心臓がばくばくとうるさく鳴る。
 結衣は身動きが取れず、ただその姿を見つめていた。

 陽向先生は軽く息を吸い、耳に携帯をあてた。

「はい、当直医の陽向です。……あぁ、熱発ですか。」

 さっきまでのいたずらっぽい笑みが嘘のように消える。
 声のトーンが一気に落ち着き、低く、柔らかく響いた。

「他のバイタル、症状は? ……うん、了解しました。すぐに行きますね。
 点滴の準備をしておいてください。では。」

 淡々と、けれど確実に。
 その口調には、迷いも遊びも一切なかった。
 プロとしての表情――それは、昼間外来で見慣れた“医師・陽向碧”そのものだった。

 通話を終えると、陽向先生は携帯を静かにポケットへ戻した。
 そして、ふっと息を吐く。
 少しだけ肩の力を抜いたように見えた。

 その一連の仕草を、結衣は目を瞬かせながら見つめていた。
 つい数秒前までの、胸を焦がすような距離感が夢のように感じられる。

(切り替えが早すぎる……。この人、ほんとにずるい……。)

 そんなことを思った瞬間――
 陽向先生が、ふと視線を戻した。

 目が合った。
 そして、彼は口元を緩めて、クスクスと笑い出した。

「……もう、笑わないでください。」

 結衣は反射的に顔を背けた。
 耳まで真っ赤になっているのが、自分でもわかる。
 頬をふくらませ、俯いたまま小さく呟いた。

 陽向先生は、楽しそうに目を細めた。

「はは、ごめんね。……だって橘さんが可愛くて。
 ついつい意地悪したくなっちゃうんだよね。」

「……そんなこと、言わなくていいです。」

 ぷいっと顔をそむけたまま、結衣は小さく反論する。
 けれど声の震えが、まるで本音を隠しきれていない。

 陽向先生は一歩引いて、腕を軽く組んだ。
 どこか安心したように、穏やかな笑みを浮かべる。

「……ほんとに、橘さんって正直だよね。」

「え?」

「顔に出るタイプ。思ったこと、すぐわかる。」

「で、でも、そんなの……仕方ないじゃないですか。」

「うん。そこがまた魅力的だよね。」

「――っ!?」

 その一言に、息が止まった。
 思考が一瞬真っ白になる。

 彼は照れもなく言い切って、ほんの少し口角を上げる。
 からかうような笑みではない。
 だけど、冗談とも言い切れない。
 その中間のような微妙なトーンに、結衣の心臓が跳ねた。

(“魅力的”……?今、確かにそう言った……よね?)

 けれど、次の瞬間。
 陽向先生は手をひらひらと振って、いつもの軽い笑顔に戻った。

「残念、時間切れだ。」

「え……?」

 結衣が呆然とする間もなく、陽向先生は背を向ける。
 白衣の裾がひらりと揺れて、非常灯の淡い光を掠めた。

「患者さん、待ってるから。また後で。」

 そう言い残し、軽く片手を上げて去っていった。

 ドアが静かに閉まる音。
 それがやけに遠くに感じられた。

 ――残された結衣は、その場でしばらく動けなかった。

 部屋の中は再び静寂に包まれる。
 機械の電子音すら聞こえない。
 聞こえるのは、自分の鼓動だけ。

(な、なに今の……。結局からかわれただけ……?)

 頬が熱い。
 まるで火がついたように。
 息をするたびに胸の奥がきゅっと締めつけられる。

 何度も瞬きをして、深呼吸をするけれど、熱はまったく引かない。

「……もう、ほんとに……。」

 小さく呟いて、胸の上に手を当てた。
 ドキドキと鳴る音が、指のひらを震わせる。
 抑えようとしても、ますます速くなるばかりだった。

(どうしよう……。私、ほんとに……。)

 そこまで考えた瞬間、頭の中に陽向先生の声が蘇る。

――「だって橘さんが可愛くて。」
――「そこが魅力的だよね。」

 耳の奥に残る声が離れない。
 柔らかくて、あたたかくて、でも少し意地悪で。
 その全部が、彼そのもののように思えた。

 結衣は顔を両手で覆った。
 頬の熱が指先にまで伝わる。
 心臓がまだ早鐘のように鳴っている。

「……ダメだ、落ち着け、私……。」

 そう自分に言い聞かせながらも、心の奥底ではもうわかっていた。

 もう、自分に嘘はつけない。
 どんなに仕事中であっても、
 どんなに“看護師と医師”という距離があっても――
 心は、確かに彼の方を向いている。

 そして、怖いくらいにその事実を実感していた。

(私……陽向先生のこと、好きになってしまってる…。)

 呟いた瞬間、胸の奥に小さな痛みと温もりが混じる。
 切なくて、でも少しだけ嬉しいような感情。
 それがじんわりと体を満たしていった。

 窓の外では、夜の風が病棟の壁をかすかに揺らしていた。
 遠くから救急車のサイレンが聞こえる。
 世界はいつも通り動いているのに、
 結衣の心だけが、静かに、確実に変わっていた。

 しばらくして、結衣はそっと立ち上がった。
 白衣の裾を整え、深呼吸を一つ。
 ナースステーションへ戻る足取りは、少しだけ軽かった。

 ――それでも胸の奥で、陽向先生の言葉が何度も何度も反響していた。

 たった些細な会話での言葉。
 でもそれは、夜勤の静けさの中で、
 確かに結衣の世界を変えるほどの音を立てて、心に響いていた。
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