蝶々結び 【長編ver.完結】
第7章 これからの結び方
数日後――。
日曜日の昼下がり。
街のざわめきは少しだけ柔らかく、行き交う人々の足取りものんびりとしていた。
大通り沿いのガラス張りのカフェでは、淡い陽射しが天井の木枠を透かして、テーブルの上にゆらゆらと光を落としている。
ミルクフォームの香り、焙煎した豆のあたたかい匂い、ガラス越しの穏やかな風。
日常の中の、少し特別な空気が漂っていた。
その窓際の席で――結衣は、カップの中のココアをじっと見つめていた。
カフェオレ色の液面が、ゆっくりと波打つ。
その動きを見ていると、なぜか心まで揺れてしまうような気がした。
(……なんで私、来ちゃったんだろう。)
心の中で呟いて、苦笑する。
約束をしたのは、ほんの数日前。
「日曜、少しだけ時間もらえる?」と軽く言われただけなのに。
気づいたら「はい」と答えていた。
――断る理由が、思いつかなかった。
視線を少し上げる。
目の前の席には、白シャツにグレーのジャケット姿の陽向先生。
いつも病院で見ている白衣姿とは違って、驚くほど柔らかい印象だった。
胸元のボタンを一つ外して、腕時計のベルトを指で直すその仕草すら、少し大人びて見える。
自然体なのに、絵になる人。
それが彼の厄介なところだ。
結衣は、ココアをひと口飲んでから、思わず小さく口を開いた。
「……っていうか、いつまで笑ってるんですか? 陽向先生。」
そう言って眉をひそめる。
照れ隠しのつもりだったが、思った以上に声が小さくなってしまった。
陽向先生は、テーブル越しに穏やかな笑みを浮かべ、軽く肩をすくめた。
「ごめんごめん。だって、いつもクールな橘さんがココア飲んでるの、なんか新鮮で。」
「べ、別にいいでしょ。コーヒー、苦くて飲めないんです。」
「ははっ、ブラック飲めないって、可愛いなって思って。」
さらっと言われたその一言に、結衣の手が止まった。
カップの縁に触れた指がぴくりと震える。
(……そういうこと、簡単に言うんだから。)
胸の奥が、熱い。
けれど、顔には出したくない。
それなのに、頬がじんわりと火照っていくのが自分でもわかった。
「……ほんと、そういうの簡単に言いますよね。」
「え? 事実だから。」
「もう、ほんとに……。」
ため息をつきながらも、結衣の声にはどこか柔らかさが混じっていた。
その小さな変化に気づいたのか、陽向先生は少しだけ表情を和らげ、カップを手に取る。
「でも……来てくれてありがとう。」
「え?」
「正直、断られると思ってた。」
その一言に、結衣は目を瞬いた。
意外そうに眉を上げ、慌てて首を振る。
「そ、そんな……別に断る理由なんて……。」
「だって実際、避けられてたこともあったし。」
「……。」
陽向先生は少し寂しげに笑った。
その微笑みが、あの夜の病棟で見せた真剣な表情を思い出させた。
「正直ね、しばらく僕とは話してくれないんじゃないかって思ったんだ。」
「そんなこと……ないです。あの時は、ちょっと……混乱してただけで。」
「混乱?」
「……はい。」
結衣は視線を落とし、カップの縁を指先でなぞった。
手の中に伝わる温もりが、少しだけ落ち着きをくれる。
「陽向先生が……いつもと違ってたから。みんなの前では優しいのに、私の前ではなんか……ずるいというか。」
「ずるい?」
「……人の気持ち、試すようなことするから。」
少しだけ拗ねたように言うその声には、ほんのかすかに震えが混じっていた。
陽向先生は目を瞬かせ、そして小さく笑う。
「あははっ、ごめんね。つい、意地悪したくなっちゃうんだよね。」
「……わかってます。」
「え?」
「陽向先生、そういう人だから。」
言ってしまってから、しまったと思った。
けれど、陽向先生はただ「うん」と微笑んだ。
「たぶん、そうかもね。でも橘さんには、もう少し本音で話したいな。」
「……本音、ですか?」
「うん。」
小さな沈黙が落ちる。
カフェの外を、風が通り抜けていった。
窓越しに差し込む光が、結衣の髪を柔らかく照らす。
陽向先生は、少しだけ視線を落としてから、ゆっくりと顔を上げた。
その目には、からかいの色がなく、真っ直ぐな光が宿っている。
「……橘さん。あの夜、僕が一番言いたかったのは、ただのからかいなんかじゃないんだ。」
その声は、静かで、優しくて――
どこか痛みを含んでいた。
結衣は息を呑み、顔を上げる。
彼の瞳がまっすぐにこちらを捉えていた。
冗談の影もなく、真剣そのものだった。
「本当は、ちゃんと話をしたかったんだけどね。
でもあの時は、言葉より先に……橘さんの顔見たら、冗談みたいにして誤魔化したくなっちゃって。」
「……陽向先生。」
心臓がまた、静かに鳴り出す。
今度はあの夜のように苦しい音ではなく――
胸の奥をあたたかく叩く、やさしい鼓動だった。
陽向先生は、コーヒーを見つめながら、少し照れたように笑う。
「こうして向かい合って話すのも、なんか新鮮だね。
病院だといつもバタバタしてるし、ゆっくりできないから。」
「……そうですね。」
「でも、橘さんといると不思議なんだ。
仕事の話してる時も、ふとした仕草ひとつで気持ちが和らぐっていうか。」
「私、そんな特別なことしてません。」
「うん、してない。だからいいんだよ。」
「え?」
「自然で、ちゃんと自分でいる。それが、橘さんのいいところ。」
その言葉が胸に落ちて、結衣は思わずココアを見つめた。
ゆらゆらと揺れる泡が、まるで心の中みたいだった。
「……陽向先生、ほんとにずるいです。」
「また言われちゃった。」
「そういう言葉、簡単に言うから。いちいち反応してしまうじゃないですか。」
陽向先生は笑いながら、片手で頬をかいた。
「でも、それが嬉しいんだ。橘さんの反応、全部。」
「……っ、もう。」
結衣は視線を逸らしたが、頬が熱いのは隠しきれなかった。
そのとき、カフェのスピーカーから穏やかなジャズが流れた。
外の風がカーテンをゆらし、陽光が二人の間に小さな影を作る。
何も言わない時間が続いた。
けれど、その沈黙が心地よかった。
ふと、陽向先生が言った。
「ねえ、橘さん。今、幸せ?」
「え?」
「なんとなく、そう聞きたくなって。」
「……どうでしょう。よくわかりません。でも――」
結衣は少し微笑んで続けた。
「今は、落ち着いてます。陽向先生と話してると、なんだか安心する気がするから。」
その言葉に、陽向先生は目を細めて笑った。
柔らかく、どこか切なげに。
「……ありがとう。それ、すごく嬉しい。」
二人の間に、コーヒーの香りがふわりと漂った。
昼下がりの陽射しが、テーブルの上で金色に輝く。
まるで時間がゆっくりと流れていくような穏やかさだった。
(あぁ……やっぱり、来てよかったのかもしれない。)
そう思った瞬間、結衣の心の奥で、静かに何かが溶けていくような感覚があった。
まだ「好き」とは言えない。
けれど――確かに、その言葉はもうすぐそこまで来ていた。
日曜日の昼下がり。
街のざわめきは少しだけ柔らかく、行き交う人々の足取りものんびりとしていた。
大通り沿いのガラス張りのカフェでは、淡い陽射しが天井の木枠を透かして、テーブルの上にゆらゆらと光を落としている。
ミルクフォームの香り、焙煎した豆のあたたかい匂い、ガラス越しの穏やかな風。
日常の中の、少し特別な空気が漂っていた。
その窓際の席で――結衣は、カップの中のココアをじっと見つめていた。
カフェオレ色の液面が、ゆっくりと波打つ。
その動きを見ていると、なぜか心まで揺れてしまうような気がした。
(……なんで私、来ちゃったんだろう。)
心の中で呟いて、苦笑する。
約束をしたのは、ほんの数日前。
「日曜、少しだけ時間もらえる?」と軽く言われただけなのに。
気づいたら「はい」と答えていた。
――断る理由が、思いつかなかった。
視線を少し上げる。
目の前の席には、白シャツにグレーのジャケット姿の陽向先生。
いつも病院で見ている白衣姿とは違って、驚くほど柔らかい印象だった。
胸元のボタンを一つ外して、腕時計のベルトを指で直すその仕草すら、少し大人びて見える。
自然体なのに、絵になる人。
それが彼の厄介なところだ。
結衣は、ココアをひと口飲んでから、思わず小さく口を開いた。
「……っていうか、いつまで笑ってるんですか? 陽向先生。」
そう言って眉をひそめる。
照れ隠しのつもりだったが、思った以上に声が小さくなってしまった。
陽向先生は、テーブル越しに穏やかな笑みを浮かべ、軽く肩をすくめた。
「ごめんごめん。だって、いつもクールな橘さんがココア飲んでるの、なんか新鮮で。」
「べ、別にいいでしょ。コーヒー、苦くて飲めないんです。」
「ははっ、ブラック飲めないって、可愛いなって思って。」
さらっと言われたその一言に、結衣の手が止まった。
カップの縁に触れた指がぴくりと震える。
(……そういうこと、簡単に言うんだから。)
胸の奥が、熱い。
けれど、顔には出したくない。
それなのに、頬がじんわりと火照っていくのが自分でもわかった。
「……ほんと、そういうの簡単に言いますよね。」
「え? 事実だから。」
「もう、ほんとに……。」
ため息をつきながらも、結衣の声にはどこか柔らかさが混じっていた。
その小さな変化に気づいたのか、陽向先生は少しだけ表情を和らげ、カップを手に取る。
「でも……来てくれてありがとう。」
「え?」
「正直、断られると思ってた。」
その一言に、結衣は目を瞬いた。
意外そうに眉を上げ、慌てて首を振る。
「そ、そんな……別に断る理由なんて……。」
「だって実際、避けられてたこともあったし。」
「……。」
陽向先生は少し寂しげに笑った。
その微笑みが、あの夜の病棟で見せた真剣な表情を思い出させた。
「正直ね、しばらく僕とは話してくれないんじゃないかって思ったんだ。」
「そんなこと……ないです。あの時は、ちょっと……混乱してただけで。」
「混乱?」
「……はい。」
結衣は視線を落とし、カップの縁を指先でなぞった。
手の中に伝わる温もりが、少しだけ落ち着きをくれる。
「陽向先生が……いつもと違ってたから。みんなの前では優しいのに、私の前ではなんか……ずるいというか。」
「ずるい?」
「……人の気持ち、試すようなことするから。」
少しだけ拗ねたように言うその声には、ほんのかすかに震えが混じっていた。
陽向先生は目を瞬かせ、そして小さく笑う。
「あははっ、ごめんね。つい、意地悪したくなっちゃうんだよね。」
「……わかってます。」
「え?」
「陽向先生、そういう人だから。」
言ってしまってから、しまったと思った。
けれど、陽向先生はただ「うん」と微笑んだ。
「たぶん、そうかもね。でも橘さんには、もう少し本音で話したいな。」
「……本音、ですか?」
「うん。」
小さな沈黙が落ちる。
カフェの外を、風が通り抜けていった。
窓越しに差し込む光が、結衣の髪を柔らかく照らす。
陽向先生は、少しだけ視線を落としてから、ゆっくりと顔を上げた。
その目には、からかいの色がなく、真っ直ぐな光が宿っている。
「……橘さん。あの夜、僕が一番言いたかったのは、ただのからかいなんかじゃないんだ。」
その声は、静かで、優しくて――
どこか痛みを含んでいた。
結衣は息を呑み、顔を上げる。
彼の瞳がまっすぐにこちらを捉えていた。
冗談の影もなく、真剣そのものだった。
「本当は、ちゃんと話をしたかったんだけどね。
でもあの時は、言葉より先に……橘さんの顔見たら、冗談みたいにして誤魔化したくなっちゃって。」
「……陽向先生。」
心臓がまた、静かに鳴り出す。
今度はあの夜のように苦しい音ではなく――
胸の奥をあたたかく叩く、やさしい鼓動だった。
陽向先生は、コーヒーを見つめながら、少し照れたように笑う。
「こうして向かい合って話すのも、なんか新鮮だね。
病院だといつもバタバタしてるし、ゆっくりできないから。」
「……そうですね。」
「でも、橘さんといると不思議なんだ。
仕事の話してる時も、ふとした仕草ひとつで気持ちが和らぐっていうか。」
「私、そんな特別なことしてません。」
「うん、してない。だからいいんだよ。」
「え?」
「自然で、ちゃんと自分でいる。それが、橘さんのいいところ。」
その言葉が胸に落ちて、結衣は思わずココアを見つめた。
ゆらゆらと揺れる泡が、まるで心の中みたいだった。
「……陽向先生、ほんとにずるいです。」
「また言われちゃった。」
「そういう言葉、簡単に言うから。いちいち反応してしまうじゃないですか。」
陽向先生は笑いながら、片手で頬をかいた。
「でも、それが嬉しいんだ。橘さんの反応、全部。」
「……っ、もう。」
結衣は視線を逸らしたが、頬が熱いのは隠しきれなかった。
そのとき、カフェのスピーカーから穏やかなジャズが流れた。
外の風がカーテンをゆらし、陽光が二人の間に小さな影を作る。
何も言わない時間が続いた。
けれど、その沈黙が心地よかった。
ふと、陽向先生が言った。
「ねえ、橘さん。今、幸せ?」
「え?」
「なんとなく、そう聞きたくなって。」
「……どうでしょう。よくわかりません。でも――」
結衣は少し微笑んで続けた。
「今は、落ち着いてます。陽向先生と話してると、なんだか安心する気がするから。」
その言葉に、陽向先生は目を細めて笑った。
柔らかく、どこか切なげに。
「……ありがとう。それ、すごく嬉しい。」
二人の間に、コーヒーの香りがふわりと漂った。
昼下がりの陽射しが、テーブルの上で金色に輝く。
まるで時間がゆっくりと流れていくような穏やかさだった。
(あぁ……やっぱり、来てよかったのかもしれない。)
そう思った瞬間、結衣の心の奥で、静かに何かが溶けていくような感覚があった。
まだ「好き」とは言えない。
けれど――確かに、その言葉はもうすぐそこまで来ていた。