蝶々結び 【長編ver.完結】
カフェを出たあと、二人は並んで歩き始めた。
 店のドアを閉めた瞬間、ベルの小さな音が背中を押すように響いた。

 空はすっかり茜色に染まり、西の空の端では太陽がゆっくりと沈みかけていた。
 風が少しひんやりしていて、昼間の暖かさが嘘みたいに遠のいていく。

 川沿いの並木道には、夕陽の光が長い影を作っていた。
 欅の葉が風に揺れ、歩道の石畳をカサカサと音を立てて転がる。
 川のせせらぎと風の音だけが、穏やかに耳をくすぐってくる。

 休日の夕方。
 行き交う人の姿はまばらで、時間の流れがどこかゆっくりとしたものに感じられた。

 隣を歩く陽向先生の横顔が、夕陽の光を受けて橙色に染まっている。
 ジャケットの襟が風で少しだけ揺れて、彼の柔らかい髪が頬にかかる。
 その一つひとつの動きに、なぜか胸がざわついた。

 ――このまま、ずっとこの時間が続けばいいのに。
 そんな思いが、ふと胸の奥で浮かんでは消える。

 けれど、口に出せるわけもなく。
 結衣はコートのポケットに手を入れ、視線を前に向けた。

 しばらく歩いたあと、静かに口を開く。

「……今日は、なんで誘ってくれたんですか?」

 少し迷いを含んだ声。
 けれど、それはずっと気になっていたことでもあった。

 陽向先生は足を止めることなく、ポケットに手を入れたまま、ちらりと結衣の方を見た。
 そして、どこか照れたように微笑んだ。

「ん? 橘さんのこと、もっと知りたくて。」

「……え?」

「前に、診察室でさ。橘さん、泣いてたことあったでしょ?」

「……っ」

 不意に呼吸が止まる。
 胸の奥をつかまれたように、言葉が出なかった。

 その時のことを覚えている――。
 あの夜、誰にも見せたくなかった涙。
 仕事中にも関わらず、感情が抑えきれずにこぼれてしまったあの瞬間。

 結衣の指先が、無意識にコートの裾をぎゅっと握りしめる。

 陽向先生は、そんな彼女の沈黙に気づきながらも、静かに続けた。

「あの時のこと、ずっと気になってたんだ。
 僕が悪かったのかもしれないけど……なんか、橘さんが誰か別の人に怒ってるように見えて。」

「……。」

 結衣は視線を落とした。
 川の流れを見つめる陽向先生の横顔が、夕陽の光でやさしく滲んで見える。
 風が吹き抜けて、結衣の髪をそっと揺らした。

(……見透かされてる。)

 心の奥まで、彼には届いてしまう。
 それが怖いのに、どこか安心している自分もいた。

 結衣は、深く息を吸い込んでから、ぽつりと口を開いた。

「私、小さい時……蝶々結びが苦手だったんです。」

「蝶々結び?」

 陽向先生が、少し驚いたように顔を向ける。

「はい。何度も練習したんですけど、すぐにほどけちゃって。
 母にもよく笑われてました。
 いつか大人になったら、きっと上手に結べるようになるんだって、そう思ってたんです。」

 淡い思い出をたどるように、結衣は遠くを見つめた。
 夕陽が沈む空の先、ゆらめく光が川面に反射して揺れている。

「……でも、大人になっても、上手に結べなかったのは“人との結び方”の方でした。」

「……。」

「前に付き合ってた人がいたんですけど……結婚間近で、浮気されてることを知って。
 それで、終わってしまいました。」

 声がかすかに震える。
 けれど涙はこぼさない。
 泣いてしまったら、本当に終わりになってしまう気がしたから。

 陽向先生の表情が、少しだけ曇る。
 言葉を探すように視線をさまよわせ、そっと口を開いた。

「……そうだったんだ。」

 その声は、責めるでも、慰めるでもなく。
 ただ、優しく寄り添うような響きだった。

 結衣は、再び川の方を向きながら続けた。

「そのとき、気づいたんです。
 私が本当に繋げたかった“蝶々結び”は、人と人とを結ぶ心の糸の方だったんだって。
 でも結局はほどけてしまって……悲しくて。
 もう一度結ぶのが怖くなって、逃げてしまったんです。」

 風がふっと吹いて、二人の間に沈黙が落ちた。
 ただ川の音と、遠くで響く電車のブレーキ音だけが聞こえる。

 その静寂を破ったのは、陽向先生の低く優しい声だった。

「……橘さん。」

 結衣はうつむいたまま、小さく呟く。

「私は……陽向先生のことを、確かに好きになっていると思います。
 でも、怖いんです。
 このままだったら、また逃げてしまう。
 こんな私じゃ、きっと陽向先生に釣り合わないです。」

 唇が震える。
 それは彼女がずっと胸の奥で押し殺していた本音だった。

 その瞬間、陽向先生は目を見開いた。
 そして、ふっと穏やかに笑った。

「――逃げてもいいよ。」

「えっ……?」

 思わず顔を上げる。
 陽向先生は、川面を見つめながら静かに続けた。

「橘さんが、もし過去のことをまだ引きずってて、
 心の中で間違った結び方をしているなら……。
 緩くなるまで、僕は待ちたいと思う。」

「……。」

「でもね。」

 そこで彼は一度立ち止まり、結衣の方を振り返った。
 その瞳にはまっすぐな光が宿っていた。

「僕はやっぱり、待てない方だからさ。」

 その笑顔は、いつもの爽やかさとは違っていた。
 どこか切なくて、けれど確かに温かい。
 夕陽が水面で反射し、彼の髪をきらきらと照らす。

 結衣の胸がまた、強く鳴った。
 鼓動が耳の奥まで響いてくる。

 陽向先生は一歩、ゆっくりと近づいた。
 彼の声はもう、すぐ隣で聞こえる距離だった。

「橘さん。
 例えるなら……僕は、これからも一緒に歩み寄って、ちゃんと向き合って、
 “正しい結び方”を君に伝えたいんだ。」

「正しい……結び方?」

「あぁ。
 もし緩くなりそうなら、もう片方の糸を支えられるように、僕が引っ張る。
 たとえ君の言う“蝶々結び”がどんな形でも、
 二人で支え合って結べば、きっとほどけない。」

 その言葉が、静かに風に溶けていく。
 まるで川のせせらぎと混ざり合い、世界の音が優しく変わっていくようだった。

 陽向先生は少し照れたように笑い、頬をかいた。

「まぁ……要するに、僕はずっと、ずっと橘さんが好きって言いたいんだけど…!!」

「……っ!」

 その真っすぐな告白に、結衣の心が一瞬で熱くなる。
 視界が滲み、頬を伝う涙が止まらなかった。

「陽向先生……。そんなふうに言われたら、私はっ……。」

 陽向先生は一歩、また一歩と近づき、
 そっと結衣の頬に手を伸ばした。
 その手のひらは、驚くほど温かかった。

「泣かないで。……橘さんの涙、綺麗だから困る。」

 優しい指先が頬をなぞる。
 その瞬間、結衣の中にあった“硬く結ばれた糸”が、静かにほどけていくのを感じた。

 呼吸が合う。
 風の音も、川のせせらぎも、二人を包み込むように優しくなった。

 結衣は、小さく笑いながら涙を拭った。

「……私も、あなたが好きっ。」

 その言葉は震えながらも、確かに空気を震わせた。
 陽向先生は、少し笑って、柔らかく答える。

「知ってる。」

 次の瞬間、陽向先生はそっと彼女を抱き寄せた。
 温かい腕の中で、結衣はただ目を閉じる。

 夕陽の残光が、二人を金色に包み込む。
 遠くで電車の音が鳴り、街の灯がひとつ、またひとつと灯り始める。

 ――その瞬間、結衣は思った。

(あぁ、やっと……ちゃんと結べた。)

 心の蝶々結びが、ようやく一つ。
 強く、優しく、確かに結ばれた気がした。

 そして、沈みゆく夕陽の中で、
 二人の影が静かに重なっていった。


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