蝶々結び 【長編ver.完結】
第8章 冬、穏やかな朝
――あの日の告白から、一週間が経った。
季節はゆっくりと冬へ向かい、朝の空気が頬をかすめるたびに、少しだけ身を縮めたくなるような冷たさを帯びていた。
結衣はいつものように、まだ少し眠そうな顔で洗面所の鏡を覗き込む。
「……よし。」
軽く頬を叩いて気合を入れ、髪を後ろでまとめる。少し伸びた前髪が頬に触れ、その感触にふっと笑みがこぼれた。
(まだ……信じられないな。私、本当に陽向先生と“付き合ってる”んだ……)
そう思うたびに胸がくすぐったくなる。
ほんの一週間なのに、世界の色が少し変わって見える。
窓の外の朝焼けでさえ、前よりも柔らかく優しく見えた。
テーブルの上に置いた携帯が小さく振動する。画面には、"陽向 碧"の名前。
「おはよう。今日の朝ごはん、ちゃんと食べた?」
その短いメッセージだけで、心の奥がじんわり温まる。
たったそれだけの言葉なのに、まるで「おはよう」の声がすぐ隣で聞こえるようだった。
結衣は口元を押さえながら、小さく笑う。
そして指先で画面をなぞり、返信を打ち込む。
「もちろんです。陽向先生こそ、朝ごはん抜きじゃないですよね?」
送信して数秒後、すぐに“既読”がついた。
彼の性格からして、きっとベッドの端で髪をかきあげながら打っているのだろう。
そんな姿まで頭に浮かんで、自然と頬が熱くなる。
そして返ってきた返信。
「あ。……バレたか。じゃあ橘さんに怒られそうだから、今から食べます。」
――まるで子どもみたい。
思わず、声が出そうになるのをこらえて笑う。
その軽いやり取りが、彼との“日常”になっていることが、なんだか信じられなくて愛おしかった。
出勤のために白いカーディガンを羽織り、コートを肩にかける。
外に出ると、吐く息が白く揺れた。
街の並木道には落ち葉が舞い、空気の中に冬の匂いが混じっている。
冷たいけれど、どこか心地いい――そんな朝だった。
病院に着くと、いつものようにざわめきが広がっていた。
ナースステーションの奥からは看護師たちの声、廊下の先ではカルテを抱えた医師たちの足音が響く。
結衣はその流れの中に自然と身を溶かし込みながら、淡い笑みを浮かべた。
「おはようございます。」
同僚たちに声をかけながら、ナース服の袖を直す。
その時、ふと視線の先に――彼の姿があった。
長い白衣を翻しながら、陽向先生がカルテを片手にこちらへ歩いてくる。
白衣の裾がふわりと揺れ、その一歩ごとに周囲の空気が少し変わる気がする。
廊下を歩くだけで絵になる人だと、改めて思う。
(やっぱり、ちょっと反則ですよね……)
心臓が軽く跳ねた。
だけど、ここは病院。
二人の関係はまだ“秘密”――どんなに嬉しくても、仕事中はプロとしての距離を保たなければならない。
結衣は深呼吸をして、いつも通りの声を出した。
「おはようございます、陽向先生。」
その声に気づいた彼が、ゆっくりと顔を上げる。
柔らかな笑みを浮かべ、ほんの少しだけ――ほんの一瞬だけ、目が合った。
「おはよう、橘さん。」
たったそれだけのやり取り。
でも、結衣には十分すぎるほどの“合図”だった。
誰にも気づかれないように交わす、二人だけの秘密の朝の挨拶。
その一瞬の目の輝きが、どんな言葉よりも甘く胸に残る。
午前の外来はいつもより混み合っていた。
結衣は患者の案内や処置で忙しく動き回りながらも、時折、彼の姿を無意識に探してしまう。
ナースステーションの向こうで、真剣な顔で診察をしている横顔。
指先でカルテをめくる仕草。
そんな何気ない瞬間が、以前よりずっと近くに感じられた。
けれど、近くにいればいるほど、触れられない距離が少し切なくもなる。
“恋人”という言葉が現実になっても、職場ではまだ“看護師と医師”。
そう思いながらも、視線が合うたびに心が跳ねるのを止められなかった。
季節はゆっくりと冬へ向かい、朝の空気が頬をかすめるたびに、少しだけ身を縮めたくなるような冷たさを帯びていた。
結衣はいつものように、まだ少し眠そうな顔で洗面所の鏡を覗き込む。
「……よし。」
軽く頬を叩いて気合を入れ、髪を後ろでまとめる。少し伸びた前髪が頬に触れ、その感触にふっと笑みがこぼれた。
(まだ……信じられないな。私、本当に陽向先生と“付き合ってる”んだ……)
そう思うたびに胸がくすぐったくなる。
ほんの一週間なのに、世界の色が少し変わって見える。
窓の外の朝焼けでさえ、前よりも柔らかく優しく見えた。
テーブルの上に置いた携帯が小さく振動する。画面には、"陽向 碧"の名前。
「おはよう。今日の朝ごはん、ちゃんと食べた?」
その短いメッセージだけで、心の奥がじんわり温まる。
たったそれだけの言葉なのに、まるで「おはよう」の声がすぐ隣で聞こえるようだった。
結衣は口元を押さえながら、小さく笑う。
そして指先で画面をなぞり、返信を打ち込む。
「もちろんです。陽向先生こそ、朝ごはん抜きじゃないですよね?」
送信して数秒後、すぐに“既読”がついた。
彼の性格からして、きっとベッドの端で髪をかきあげながら打っているのだろう。
そんな姿まで頭に浮かんで、自然と頬が熱くなる。
そして返ってきた返信。
「あ。……バレたか。じゃあ橘さんに怒られそうだから、今から食べます。」
――まるで子どもみたい。
思わず、声が出そうになるのをこらえて笑う。
その軽いやり取りが、彼との“日常”になっていることが、なんだか信じられなくて愛おしかった。
出勤のために白いカーディガンを羽織り、コートを肩にかける。
外に出ると、吐く息が白く揺れた。
街の並木道には落ち葉が舞い、空気の中に冬の匂いが混じっている。
冷たいけれど、どこか心地いい――そんな朝だった。
病院に着くと、いつものようにざわめきが広がっていた。
ナースステーションの奥からは看護師たちの声、廊下の先ではカルテを抱えた医師たちの足音が響く。
結衣はその流れの中に自然と身を溶かし込みながら、淡い笑みを浮かべた。
「おはようございます。」
同僚たちに声をかけながら、ナース服の袖を直す。
その時、ふと視線の先に――彼の姿があった。
長い白衣を翻しながら、陽向先生がカルテを片手にこちらへ歩いてくる。
白衣の裾がふわりと揺れ、その一歩ごとに周囲の空気が少し変わる気がする。
廊下を歩くだけで絵になる人だと、改めて思う。
(やっぱり、ちょっと反則ですよね……)
心臓が軽く跳ねた。
だけど、ここは病院。
二人の関係はまだ“秘密”――どんなに嬉しくても、仕事中はプロとしての距離を保たなければならない。
結衣は深呼吸をして、いつも通りの声を出した。
「おはようございます、陽向先生。」
その声に気づいた彼が、ゆっくりと顔を上げる。
柔らかな笑みを浮かべ、ほんの少しだけ――ほんの一瞬だけ、目が合った。
「おはよう、橘さん。」
たったそれだけのやり取り。
でも、結衣には十分すぎるほどの“合図”だった。
誰にも気づかれないように交わす、二人だけの秘密の朝の挨拶。
その一瞬の目の輝きが、どんな言葉よりも甘く胸に残る。
午前の外来はいつもより混み合っていた。
結衣は患者の案内や処置で忙しく動き回りながらも、時折、彼の姿を無意識に探してしまう。
ナースステーションの向こうで、真剣な顔で診察をしている横顔。
指先でカルテをめくる仕草。
そんな何気ない瞬間が、以前よりずっと近くに感じられた。
けれど、近くにいればいるほど、触れられない距離が少し切なくもなる。
“恋人”という言葉が現実になっても、職場ではまだ“看護師と医師”。
そう思いながらも、視線が合うたびに心が跳ねるのを止められなかった。