蝶々結び 【長編ver.完結】
――昼休み。

 病院の喧騒がひととき遠のき、休憩室には静けさが満ちていた。
 電子レンジの低い音と、どこかで響く談笑の声が微かに聞こえる。
 けれど結衣がいる隅のテーブルだけは、時間がゆるやかに止まったような穏やかさがあった。

 彼女は白衣の袖を少しまくり、膝の上で書類を丁寧に揃えていた。
 カルテの端に小さく書かれたメモを確認し、赤ペンで印をつける。
 仕事の延長のような昼休み――それが、結衣にとって落ち着く時間だった。

 そのとき。

 背後から、柔らかな声がした。

 「……静かだね。ここ、使ってる?」

 思わずペンを止めて振り返ると、そこには白衣の裾を揺らしながら立つ陽向先生の姿があった。
 片手には紙コップのコーヒー。
 いつもより少しラフに見えるその姿に、胸が小さく跳ねる。

 「いえ、大丈夫です。どうぞ。」

 結衣が少し慌てて笑うと、陽向先生は「じゃあ」と軽く頷き、彼女の向かい側の席に腰を下ろした。
 動作ひとつひとつが自然で、それでいて妙に絵になる。
 長い指がカップを包むたび、淡いコーヒーの香りが空気に混ざった。

 「真面目だね。休憩中まで仕事してるなんて。」

 「陽向先生が書類を溜めるからですよ。」

 「……う。耳が痛いなぁ。」

 苦笑しながら額に手をやる仕草が、なんだか少年のようで可笑しかった。
 結衣はふっと笑いをこぼしながら、ペンを置く。

 「でも、ちゃんと書類出してくださいね。看護師一同、待ってますから。」

 「うっ……その“看護師一同”って言葉が一番怖いな。」

 そんな軽い冗談を交わしながら、休憩室の中には二人だけの穏やかな空気が流れた。
 窓から差し込む昼の光が白衣の袖を照らし、彼の横顔の輪郭を柔らかく縁取る。
 その光景が、なぜだかとても遠い夢のように見えた。







 「ねえ、橘さん。」

 「はい?」

 「昨日さ、夕飯作りすぎちゃって。……よかったら、今夜うちで食べない?」

 唐突に放たれた誘いに、結衣の手がぴたりと止まった。
 ペン先から落ちかけたインクが、紙に小さな点を作る。

 「い、いいんですか?」

 「うん。どうせ二人分作ったし。」

 「……最初から、そうするつもりだったんじゃないですか?」

 陽向先生は肩をすくめて、いたずらっぽく笑った。
 その笑顔に、心の中があっという間に温かく染まっていく。

 「ははっ、バレてたか。」

 結衣は頬を赤らめながら、少しうつむき加減に言った。

 「じゃあ……お邪魔します。」

 その言葉を聞いた瞬間、陽向先生の瞳がふっと優しく細められた。
 それだけで、胸の奥がぎゅっと掴まれたように苦しいほどだった。







 その日の夜。

 陽向先生の初めての家。
玄関の前に立った結衣は、小さく息を吸ってノックした。
 カチリとドアが開くと、ふわりとカレーの香りが漂ってくる。
 スパイスの匂いと一緒に、どこか懐かしい家庭的なぬくもりが鼻をくすぐった。

 「いらっしゃい。」

 笑顔で迎えた陽向先生は、エプロン姿だった。
 普段の白衣姿とはまるで違う――でも、どちらも彼らしい。
 柔らかいライトの下で、その瞳が穏やかに光っていた。

 「陽向先生、料理できるんですね。」

 「失礼だな。こう見えて、一人暮らし長いから。」

 エプロンの裾を軽く整えながら笑う姿に、思わず頬が緩む。
 テーブルの上にはカレーとサラダ、そして湯気の立つ紅茶。
 特別な料理ではない。だけど、ひとつひとつが丁寧に作られているのが分かる。

 「なんか、こういうの……不思議です。」

 「何が?」

 「病院ではいつも“陽向先生”って感じなのに、今は……。」

 「今は?」

 「……ただの“碧さん”って感じで。」

 口に出した瞬間、顔が熱くなる。
 自分で言っておきながら、思わず視線を逸らした。
 陽向先生――いや、“碧”は少し照れたように笑った。

 「ははっ、そう呼ばれるの、嬉しい。」

 その笑顔があまりに自然で、心の奥がくすぐったくなる。
 碧はカレー皿を差し出しながら、何気なく言った。

 「ほら、食べよう。味、どうかな。」

 スプーンを手に取り、ひと口すくう。
 口に広がるのは、少し甘くて、それでいてスパイスがきいた優しい味。
 どこか彼らしい、温かいカレーだった。

 「……おいしいです。」

 「ほんと? 良かった。」

 「でも……なんか、病院の先生が作ったカレーとは思えません。」

 「それ、褒めてるの?」

 「ふふ、もちろんです。」

 二人の笑い声が小さく重なる。
 外の風の音が聞こえないくらい、静かで穏やかな時間だった。







 食後、二人はソファに並んで座り、テレビをつけた。
 音量は小さく、映像はニュースなのに、誰も見ていない。
 紅茶の香りが漂う部屋の中、ただ二人の距離だけがゆっくりと近づいていった。

 「橘さん、仕事のときと違ってよく笑うね。」

 「え?」

 「うん。その顔、ずっと独り占めしたい。」

 その言葉に、結衣の心臓が跳ねた。
 頬がじんわり熱を持ち、言葉が喉で止まる。

 「……もう、陽向先生、ずるいです。」

 彼は穏やかに笑って、そっと彼女の手を取った。
 指先が触れた瞬間、静電気みたいに小さな熱が走る。

 「あれ、名前で呼んでくれないの?」

 優しく問いかける声。
 その響きが、まるで心の奥に触れるようだった。

 結衣は一瞬、息を呑む。
 名前――そう呼ぶだけなのに、距離が一気に近づく気がした。
 それが怖くて、けれど嬉しくて、胸が苦しい。

 「えっと……、碧…さん。」

 言い慣れない響きが、空気の中に溶けていく。
 次の瞬間、碧が小さく笑って囁いた。

 「結衣。」

 たった一言なのに、心の奥が震えた。
 呼び慣れていないその音が、まるで優しい魔法のようだった。

 顔を真っ赤にした結衣を、碧は静かに見つめる。
 その瞳は、まるで「大丈夫」と言っているみたいに優しい。

 「……その呼び方、気に入った。」

 「私も……。」

 二人の間に流れる沈黙は、不思議と心地よかった。
 テレビの音が遠くに霞んで、時計の針の音だけが小さく響く。
 指先と指先が、まるで蝶々結びのようにそっと絡まった。







 結衣は思う。
 “手をつなぐ”という行為が、こんなにも安心するものだったなんて。
 過去の傷も不安も、少しずつ溶けていくように感じた。

 「ねぇ、碧、さん…。」

 「ん?」

 「こうやって、一緒にいる時間が、もっと増えたらいいなって……思います。」

 「増えるよ。これから、いくらでも。」

 碧の答えは、まっすぐで迷いがなかった。
 その確かさが、何よりも心強くて。
 結衣はそっと微笑んだ。

 「……じゃあ、ちゃんと信じますね。」

 「うん。信じて。」

 指と指が、きゅっと結び直される。
 その瞬間、結衣の胸の中に小さな灯がともった。
 それは、確かに彼と繋がっている証のようだった。
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