蝶々結び 【長編ver.完結】

第9章 秘密のキス

夜の病棟は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 廊下の照明は淡く、規則正しく並ぶ白い光が、床に長く影を落としている。
 聞こえるのは、点滴の落ちる音と、時折どこかの病室から漏れる寝息だけ。
 時計の秒針が「コツ、コツ」と響くたび、結衣はその静けさに包まれていた。

 ナースステーションの机の上には、整理し終えたカルテの山。
 ボールペンのキャップを閉め、深く息を吐いた結衣は、胸の奥でそっと呟く。

(今日も、やっと終わった……)

 疲れているはずなのに、不思議と心は穏やかだった。
 陽向先生と付き合い始めてから一週間。
 忙しい日々の中でも、彼の何気ないメッセージや、ふとした笑顔を思い出すだけで、胸の奥があたたかくなる。

 机に肘をつき、ぼんやりと窓の外を見ていたその時――

「橘さん。」

 振り向くと、陽向先生が立っていた。
 白衣の袖をまくり、いつもの爽やかな笑顔ではなく、
 少しだけ熱を帯びた眼差しだった。

「陽向先生……どうしたんですか?」

「ちょっと、相談があって。……時間ある?」

 そう言われ、結衣は頷いた。

 陽向先生に連れられ、二人は空き個室へと入った。

部屋に入ると、ほんのりと薬の匂いがした。
 夜の照明は柔らかく、二人の影が壁に寄り添うように映っていた。

「……患者さんのことですか?」

「ううん。」

 陽向先生は、静かに首を横に振った。
 そして、少し迷うように言葉を探していた。

「本当は、ただ会いたかっただけ。……結衣に。」

 結衣の胸が高鳴る。

 その声がやけに近く感じた。

「……陽向先生、ここ病院ですよ。」

「わかってる。」

 そう言いながら、彼は一歩近づいた。
 距離が、息一つ分まで縮まる。
 心臓の鼓動が早くなる。

「……でも、これだけは、我慢できなかった。」

 その言葉と同時に、陽向先生の手が
 結衣の頬にそっと触れた。

 指先が震えているのは、彼の方だった。

 結衣は何も言えなかった。

 ただ、その手の温かさに包まれて、
 呼吸をするのも忘れていた。

 そして――。

 唇が、静かに触れた。

 それはあまりにも優しいキスで、
 時間が止まったように感じた。

 消毒液の匂いと、陽向先生の体温。
 すべてが混ざって、世界が少しだけ甘く滲んだ。

 陽向先生が唇を離し、額を軽く合わせた。

「……結衣、ほんとに、可愛い。」

 結衣は顔を真っ赤にし、俯いた。

 心臓の音が、もう隠しようもなかった。

「もう、笑わないでください……。」

 小さな声でそう言うと、
 陽向先生は柔らかく笑いながら、彼女の髪を撫でた。

「ごめん。つい、意地悪したくなるんだ。
……でも、ちゃんと想ってるから。」

「……はい。」

 短く答える結衣の瞳には、
 もう不安よりも、確かな光が宿っていた。




しばらくしてナースステーションに戻ると、
 柚希が腕を組んで待っていた。

「結衣~、どこ行ってたの?全然戻ってこないから心配したんだけど!」

「あっ、ご、ごめん。ちょっと先生に呼ばれて……。」

「先生?……って、陽向先生?」

 柚希の目が鋭く光る。
 結衣は慌てて目を逸らした。

「えっ……ちょっと、まさか!」

「ち、違うよ?」

「顔、真っ赤じゃん!? もしかして……付き合ったの?」

「なっ、な、なに言ってんの柚希!」

 結衣は顔を覆って、思わず背を向けた。

「やっぱり~!当たりだ!」

 柚希は嬉しそうに笑って、結衣の背中を軽く叩いた。

「結衣、よかったね。やっと、素直になれたじゃん。てか、早く報告しなさいよね!」

 その言葉に、結衣は少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。

「……うん。ごめん、そのうちきちんと報告するつもりだったんだけど…。」

「なーんだ~そっかそっか!結衣、本当におめでとう!!」

「うん。ありがとう、柚希!」

二人は笑いあった。

 ナースステーションの窓の外には、
気づけば、空が少しずつ白み始めている。
 夜明け前の淡い光が、ナースステーションの机の上に差し込む。
 長い夜が終わり、静けさの中に新しい朝の気配が満ちていく。

 柚希がふとつぶやく。

「ねぇ結衣。……なんか、今日の朝、すごく綺麗だね。」

「うん……ほんと。」

 結衣は窓の外を見つめながら、小さく笑った。
 その瞳には、確かな光が宿っていた。
 もう、過去の痛みに縛られることはない。
 新しい朝を、誰かと迎えられる――
 それだけで、世界が少し違って見えた。

 夜の静寂を破るように、病棟の廊下で看護師たちの足音が響き始める。
 新しい一日の始まり。
 そして、結衣と陽向碧の、これからの物語がゆっくりと動き出していく。

< 20 / 28 >

この作品をシェア

pagetop