蝶々結び 【長編ver.完結】
春の風が、やさしく頬を撫でた。

 病院の庭では、桜が満開の枝を揺らしている。
 淡く薄紅色の花びらが空へ舞い上がり、光の中をゆらゆらと漂っていた。
 花びらが散るたびに、世界が少しずつ柔らかく染まっていく。

 午後の昼休み。
誰もいないのを確認し、
 結衣はベンチに腰を下ろした。白衣の袖を軽くまくる。
 膝の上には、小さな弁当箱。
 朝、少し早起きして作った卵焼きと鮭のおにぎりが並んでいる。
 春の日差しに照らされながら、彼女は静かに深呼吸をした。

 病院の喧騒から離れたこの中庭は、いつの間にか二人のお気に入りの場所になっていた。
 ここで季節が移ろうたびに、少しずつ心の距離も近づいていった――。

「相変わらず、手作りなんだ。」

 声の方へ顔を向けると、白衣のポケットに手を入れた陽向先生が立っていた。
 柔らかな風が、彼の髪をふわりと揺らしている。

「ええ。陽向先生が最近コンビニのおにぎりばかりだから、今日は余分に作ってきました。」

「……バレてたか。」

 少し照れたように笑いながら、彼は隣に腰を下ろした。
 自然と肩が触れそうな距離。
 でも、その近さがもう怖くはなかった。

「陽向先生、野菜も食べてくださいね。栄養バランス、崩れてますよ。」

「うっ……耳が痛いなあ。まるで健康診断の問診みたいだ。」

「じゃあ、患者さんに言われる前に、まずは自分から実践しないと。」

「うん。ごもっともでございます、クールな看護師の結衣さん。」

「もう、からかわないでください。」

 二人の笑い声が、春風の中で溶けていく。
 木の枝が揺れるたび、桜の花びらが舞い降りた。
 一枚の花びらが、結衣の肩にそっと落ちる。

 陽向先生はその花びらを指先で拾い、結衣の髪にそっと留めた。

「……綺麗だね。」

「ほんと。今年の桜も綺麗ですね。」

「違うよ、橘さんが。」

「……っ。」

 不意に心臓が跳ねる。
 けれど、もうあの頃のように俯いて逃げ出したくはならなかった。
 どんなに恥ずかしくても、この人の隣で笑っていたい。
 そう思える自分が、確かにここにいる。

 春の光が二人を包み、まるで世界が祝福しているようだった。







 しばらく無言で弁当を食べていると、陽向先生が箸を止め、空を見上げた。
 青空の中に、花びらがひらひらと舞っている。

「もうすぐ、新しい年度だね。」

「はい。新人さんたちも来ますね。」

「橘さんが教える姿、ちょっと想像つかないな。」

「え、どういう意味ですか。」

「だって優しいからさ。怒れなさそう。」

「ちゃんと叱りますよ。必要な時は。」

「ふふ、そうやって言うところが優しいんだよ。」

「もう……陽向先生。」

 結衣は頬をふくらませながら笑う。
 その笑顔を見て、陽向先生の目元も自然と緩んだ。

「……ねぇ、結衣。」

「はい?」

「もし、これから先、忙しくなったり、うまくいかないことがあってもさ。
 そのときは、ここに来よう。」

「ここ……ですか?」

「うん。あの日、初めて君と会話したときを思い出して。
 春でも冬でも、桜が咲いてなくても。
 ここに来たら、また初心に戻れる気がするんだ。」

 結衣は小さく頷いた。
 確かにこの場所には、何か特別な空気が流れている。
 最初に出会ったころの不器用な自分も、過去の痛みも――全部、春風がそっと包んでくれるような。

「じゃあ、約束ですね。」

「うん。約束。」








 ふと、結衣は膝の上に置いた小さなリボンに目を留めた。
 昼休みに、入院している子どもが落としていった髪飾りだ。
 ほどけたままになっている蝶々結びを、指先で直そうとする。

「うまく……できないな。」

「貸して。」

 陽向先生が優しく手を伸ばす。
 その手が結衣の手に触れ、わずかな温度が伝わった。

「一緒に、結ぼうか。」

「……はい。」

 二人の指が重なり合い、ゆっくりと紐を引いていく。
 小さく、でも確かに、結び目が形になっていった。
 柔らかく光を受けたそのリボンは、風に揺れて小さくきらめく。

「……できましたね。」

「うん。ほら、ほどけそうに見えて、意外と強い。」

「まるで……私たちみたい。」

 結衣が微笑むと、陽向先生も柔らかく笑った。

「そうだね。たまに緩むかもしれないけど、何度でも結び直せばいい。」

「……ええ。
 その度に、ちゃんと隣にいてくださいね。」

「もちろん。どんな時でも。」

 その返事は迷いがなく、まっすぐで温かかった。
 結衣は少しだけ目を伏せ、笑みをこぼした。

 次の瞬間――
 陽向先生が、そっと結衣の頬に唇を寄せた。

「……っ!もう、陽向先生!」

「ははっ、ついね。春のせいかな。」

「春のせいって……もう。」

 呆れたように言いながらも、結衣の頬はほんのり赤い。
 そんな彼女を見て、陽向先生はさらに優しく笑った。

「……なに、笑ってるんですか。」

「だってさ。結衣、幸せそうだから。」

「……そう見えますか?」

「うん。僕も、同じくらい幸せ。」

 その言葉に、結衣の胸の奥がじんわりとあたたかくなった。
 風がふたりの間を通り抜け、桜の花びらが結ばれたリボンの上にひとひら、そっと舞い落ちた。







 あの日、ほどけてしまった蝶々結び。
 もう一度、結び直せる日が来るなんて思ってもみなかった。

 けれど今、結衣は知っている。
 ――蝶々結びとは、支え合う心そのものなのだと。

 どちらかが緩んでも、もう片方がそっと引き寄せれば、また結ばれる。
 その形は不器用でも、真っ直ぐで、優しい。

 結衣は桜を見上げながら、隣の陽向先生の手を握った。
 彼もまた、静かにその手を握り返す。
 その温もりが、春の光と溶け合ってゆく。

「……陽向先生。」

「ん?」

「あの日の答えなんですけど…私、今がいちばん幸せです。」

「僕もだよ。……でも、これからもっと幸せにするから。」

「ふふ、……期待してます。」

 ふたりの笑顔が重なった瞬間、風が再び吹いた。
 花びらが舞い上がり、世界が淡い光で満たされる。
 その中で、二人の影が寄り添うように重なっていった。







 桜の花びらが舞い散る庭で、結衣は静かに目を閉じた。
 春の風が頬を撫でる。
 あの日から何度も結び直してきた心の糸――
 そのすべてが、今、ひとつの形になったような気がした。

 これからも、きっと何度も緩むだろう。
 喧嘩をして、すれ違って、涙を流す日もあるかもしれない。
 けれどその度に、こうして手を取り合い、また結べばいい。
 それが"ふたりで生きていく"ということだから。

 桜の枝が、優しく揺れた。
 空は限りなく青く、風は穏やかだった。

 結衣の髪に留まった花びらを、陽向先生がそっと指先で払う。

「……ねぇ結衣。」

「はい?」

「来年の春も、また一緒に見よう。」

「もちろんです。……その時も、お弁当作っていきますね。」

「じゃあ僕は、ココアも淹れて持ってくるよ。」

「ふふっ、楽しみにしてます。」

 桜の下、二人の笑顔が柔らかく重なる。
 花びらが風に舞い、まるで祝福のように降り注いだ。


 
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