蝶々結び 【長編ver.完結】
第10章 指導係と妬きもち
――一年後の、春。
春の日差しが温かい朝。
病院の中庭には淡い光が射し込み、風に乗って桜の花びらが静かに舞っていた。
花びらがアスファルトの上に落ちる音はしないのに、なぜか胸の奥がくすぐったい。
橘結衣はナースステーションの机に向かい、書類の山に囲まれながらため息をついた。
新しい年度の始まり。
そして今日から、結衣は「新人教育係」として、後輩を育てる立場になったのだ。
(まさか、自分が“先輩”って呼ばれる日がくるなんて……)
机の上には、新人教育マニュアルや技術チェックリストが並んでいる。
自分が新人だった頃――緊張しすぎて手が震え、注射針を落とした日のことを思い出す。
あの頃は、いつも陽向先生がさりげなくフォローしてくれた。
思えば、彼との距離が少しずつ近づいていったのも、あの時期だった。
そんなことを考えていた矢先――、
「橘せんぱぁいっ♡ 今日もよろしくお願いしますっ!」
耳がくすぐったくなるほどの明るい声が背後から響いた。
結衣が振り向くと、そこには小柄な新人ナース・佐々木桃(ササキ モモ)が立っていた。
春の日差しを反射して、ネームプレートがきらきらと光る。
ふわふわとした柔らかい茶髪、ピンク色のヘアピン、そしてぱっちりした目。
まるで絵本から飛び出してきた妖精のような子だった。
「佐々木さん、おはよう。……そのテンション、朝からすごいね。」
「えへへ、だって今日も橘先輩とお仕事できるからです~♡」
にこにこと笑うその顔が、春の陽射しのように眩しい。
結衣は思わず頬を引きつらせた。
(私……こ、こういうタイプ、正直ちょっと苦手かも…)
テンションが高く、可愛げがあるタイプ。
どこか守ってあげたくなるような雰囲気を持っている。
でも同時に、なぜだか放っておけない不思議な魅力もあった。
「佐々木さん、昨日の採血の練習はどうだった?」
「え、えっと……針、ちょっと変な角度で刺しちゃってぇ……患者さん、ちょっと泣いちゃいましたぁ……」
「えぇぇ……また?」
「す、すみませんっ!でも!橘先輩のアドバイス思い出して、すぐ謝って、次はうまくいきました!」
「……まぁ、それならよかったけど……」
結衣は苦笑しながらカルテを閉じる。
桃は自分の失敗を恥ずかしそうに笑いながらも、前向きだ。
その明るさに救われる瞬間もある。
そのやり取りを、ナースステーションの隅でそうろ見ていた柚希。
長い髪をポニーテールに束ね、コーヒー片手ににやにや笑っている。
「ふふ~ん。なんか最近、結衣ってば“佐々木さん命”だよねぇ?」
「ち、違うわよ!ただの指導係だから!」
「へぇ~?前は私と一緒に休憩してくれてたのにぃ。最近ぜんぜん構ってくれないんだもーん。」
「そんなこと……。」
「むぅ~、焼きもち妬いちゃう~!」
柚希は頬をぷくっと膨らませ、冗談めかして腕を組む。
結衣は思わず吹き出してしまった。
「もう柚希、子どもみたいなこと言わないでよ。」
「だってさ、結衣が他の子に懐かれてるの見ると、なんか落ち着かないんだもん~。」
その言葉に、結衣の胸がほんの少しだけ温かくなる。
柚希はいつも口が悪いが、根はとても優しい。
そして彼女だけは、結衣と陽向先生の“秘密”を知っている。
(柚希には、ほんと何でもお見通しなんだよね。)
そんな平和な朝だった。
――この時までは。
昼過ぎ。
外来の診察室前は、いつものように患者と医師で賑わっていた。
結衣がカルテをまとめていると、廊下の向こうで見慣れた後ろ姿を見つけた。
「佐々木さん?どうしたの?」
「橘先輩!陽向先生に、カルテのことでちょっと質問があって……あっ!」
桃の視線の先。
白衣をなびかせながら歩いてくるのは、陽向碧先生。
清潔感のある優しい笑顔。落ち着いた声。
通り過ぎるだけで、まわりの空気が一段明るくなるような人。
その姿を見つけた瞬間、桃の目がきらきらと輝いた。
「ひ、陽向先生っ♡ あの、これ、確認お願いしたくてっ!」
「ん?ああ、佐々木さんか。……いいよ、見せて。」
陽向はいつもの柔らかい笑みを浮かべて、桃に近づいた。
その距離が、やけに近い。
桃は緊張で顔を真っ赤にしながら、カルテを差し出す。
「こ、これです!ここの数値がちょっと……。」
「うん、なるほど。ここはこの計算でいいと思うよ。よく気づいたね。」
「ほ、本当ですか!?やったぁ♡」
その瞬間の桃の笑顔は、まるで満開の桜のようにぱっと咲いた。
――結衣は、少し離れた場所からその光景を見つめていた。
(ちょ、ちょっと……近くない? 何あれ!顔、近くない!?)
(っていうか陽向先生、なんでそんなニコニコ笑ってんのよっ……!)
胸の奥がじわじわと熱くなる。
それが“焼きもち”だと認めたくなくて、ただ無言で書類に目を落とした。
だけど、ペン先が震えて文字がうまく書けない。
「……橘さん?大丈夫?」
陽向先生の声が耳に届く。
咄嗟に顔を上げると、彼が不思議そうに首をかしげていた。
「な、なんでもないですっ。」
つい語気が強くなってしまい、彼は少し目を丸くする。
桃はそんな二人を見て、「仲良しですねぇ~♡」と微笑んでいた。
(……なんか、複雑なんですけど。)
そう思いながら、結衣は心の中で深くため息をついた。
その日の夜。
更衣室で制服を畳んでいると、柚希がまたにやにやと話しかけてきた。
「ねぇ結衣。佐々木さんさぁ、陽向先生のこと、ひょっとして好きなんじゃない?」
「えっ!?そ、そんなわけ……!」
「わかりやすいよ~。だって、陽向先生の話するときの顔、完全に恋する乙女だもん。」
「や、やめてよ、そんな大げさな……!」
「で、結衣はどう思ってるの?」
「どうって……別に、指導に支障が出なければなんだけど……。」
「ほんとに~?なんか声が震えてるけど?」
「…もう、…うるさい。」
柚希がクスクス笑う。
図星すぎて、結衣は反論できなかった。
(ダメだ、私……完全に子どもみたいになってるじゃない。)
――そう思いながら、夜風に混じる桜の香りを吸い込んだ。
春は、恋も不安も、静かに芽吹かせる季節なのだ。
春の午後――。
外来の廊下に差し込む陽光は、ガラス窓越しに柔らかく反射し、白い床に淡く光の帯を描いていた。
昼下がり特有の眠気と静けさ。
そんな中、橘結衣はステーションに戻る途中、足を止めてしまった。
――視界の先。
診察室の前で、佐々木桃がまた陽向先生に声をかけている。
「陽向先生っ♡ あの、これ、確認お願いしたくてっ!」
小さな声なのに、なぜか耳に響く。
その響きは、まるで心の奥に落ちる小石の音のように、静かに波紋を広げていった。
(……また、あの距離感。)
見ていると胸の奥がざわざわする。
桃の頬は真っ赤で、瞳はきらきら。
陽向先生はいつもと同じ穏やかな微笑み――けれど、それがやけに優しく見える。
「ん?ああ、佐々木さん。……いいよ、309号室の患者さんだよね。見せて。」
彼の低い声。
すぐそばで響くその音を、結衣は覚えている。
夜勤明けの廊下で、ふたりきりで交わした小さな言葉たち。
眠気まじりの"お疲れさま"が、どんなに優しく響いたかを。
――それなのに、今、その声は別の人に向いている。
(って、顔近くない?……あの距離、近いんだってば……!)
視線を逸らそうとしても、目が離せない。
気づけば、息まで浅くなっていた。
「ここはこの認識でいいよ。よく出来たね。」
「ほ、本当ですか!?やったぁ♡」
陽向先生が笑う。
桃が嬉しそうに両手を胸の前でぎゅっと握りしめる。
その瞬間――ふと、彼の頬がやわらかくほころんだように見えた。
(……そんな顔、ずるい。)
自分でも理由がわからない。
ただ胸の奥がちくりと痛んで、思わず踵を返していた。
ナースステーションに戻る途中、カートを押す手がいつもより強くなっているのに気づいて、結衣は小さく息をついた。
(……何やってるの、私。)
(別に、やましいことしてるわけじゃないのに……。)
だけど、その“別に”の裏には、言葉にならない感情がいくつも積み重なっていた。
翌日の昼休み。
休憩室の窓の外では、桜の花びらがもうすぐ散り終える頃。
薄いピンク色の風がカーテンを揺らしていた。
柚希はサンドイッチを片手に、いつもの調子で言う。
「結衣、最近、陽向先生に冷たくない?」
「そ、そんなことないわよ。」
言葉を返す声が、少し早口になる。
柚希はそれを逃さず、ニヤリと笑った。
「あるって~。だってこの前、先生が“お疲れさま”って声かけてたのに、聞こえないふりしてたでしょ?」
「……別に、聞こえなかっただけだもん。」
「はいはい、ツンデレさん。」
あっさり言い切られて、結衣は頬をふくらませる。
しかし、否定する言葉がすぐに出てこなかった。
(……確かに、あの時、聞こえてた。)
(でも、なんか……返すのが怖くて。)
もし自分がいつも通りに微笑んで返したら、
きっと“何も気にしてない”ふうに見えてしまう。
それが嫌だった。
気にしてることを、知られたくもあった。――そんな矛盾。
柚希は紅茶を一口飲みながら、首をかしげた。
「そんなに心配なら、最初から付き合ってること公表しちゃえばいいのに~。」
「む、無理よ!病院でそんなことしたら噂になるでしょ!」
「でも、陽向先生だって別に隠したがってる感じじゃない気がするけど?」
「そ、そんなこと……。」
図星。
胸の奥に小さく刺さるその言葉を、結衣は飲み込む。
柚希は、からかいながらも優しい目をしていた。
「ま、がんばれ恋するナースさん♡」
軽口のようでいて、励ましでもある。
その一言に、結衣は少しだけ笑った。
午後。
ナースステーションは、点滴の準備やカルテ整理で慌ただしくなっていた。
その中で、結衣はふと佐々木さんの姿を探してしまう。
彼女は真剣な表情でカルテを書き、他のスタッフに質問をしていた。
(……あの子、意外と真面目なんだよね。)
仕事を覚えようと必死で、失敗してもへこたれない。
だから、放っておけない。
……なのに、時々、あの屈託のない笑顔が胸をざわつかせる。
――そんな想いを抱えたまま、数日が過ぎた。
木曜日。
春の雨が静かに降り始めた昼下がり。
ナースステーションの空気は少し冷たく、外の灰色の光が窓を濡らしていた。
結衣は書類を整理していたが、妙な予感に眉を寄せた。
(……静かすぎる。)
すると、背後からバタバタと駆け足の音。
「橘っ、先輩っ!」
息を弾ませて現れたのは――やっぱり、佐々木桃だった。
「ど、どうしたの?そんな慌てて。」
「わ、私……決めました!」
「な、何を?」
「陽向先生に、告白しようと思いますっ!!」
「――――は?」
ペンが指から滑り落ち、机にカシャンと音を立てて転がる。
その音よりも先に、心臓の鼓動が響いた。
「佐々木さん?!い、いきなり何を言ってるの!?」
「だって、陽向先生すごく優しいし……患者さんにもスタッフにも丁寧で……素敵だなって思って……。」
「そ、それはわかるけどっ!」
必死に笑顔を作ろうとしたけれど、声が裏返った。
そして胸の奥に広がるのは、まるで春の嵐のような動揺。
「で、でもやめといた方がいいわよ?」
「え?なんでですか?」
桃の無垢な瞳。
それを見つめると、嘘なんてつけなかった――けれど。
あたふたとする結衣の口から、出てしまったのは思いがけない言葉だった。
「じ、実はね……陽向先生、恋愛とか興味ないみたいなの。それはそれは、たくさんの綺麗で、若くて、可愛い看護師さんを振ってて……。」
「えぇぇ!?そ、そんなぁ……。」
桃がショックを受け、今にも泣きそうな顔をする。
その瞬間、結衣の胸がズキッと痛んだ。
(なに言ってるの、私……。最低じゃない……。)
けれど、もう遅かった。
――背後から、低く落ち着いた声。
「僕がなんだって?橘さん?」
その声を聞いた瞬間、血の気が引いた。
「ひゃっ……!? 陽向先生!?」
いつの間にか、結衣のすぐ真後ろに。
陽向先生が腕を組み、穏やかに――けれど確実に“面白がっている”顔で立っていた。
「やだなぁ、橘さん。僕のことが"好き"だからって、佐々木さんにそんな、あることないこと吹き込んだらだめだよ?ねぇ、佐々木さん?」
「えぇぇ!?そ、そうだったんですか、橘先輩!?わ、私……なんてことを……!」
「ち、違うのよ!?これはその、誤解で――!!」
必死の弁解もむなしく、佐々木さんはすでに顔を真っ赤にしてキャッキャと大騒ぎだ。
「なーんだ、橘先輩っ、陽向先生とお似合いですよっ♡ ファイトです!」
両手でハートを作って、佐々木さんは全力疾走でナースステーションを飛び出していった。
残されたのは、気まずい沈黙と、控えめに笑う陽向先生。
「…………。」
「…………。」
沈黙を破ったのは、結衣の方だった。
「っていうか、陽向先生!よりにもよってなんで私が“片思い設定”なんですかっ!」
声が裏返るほどの勢いで言うと、陽向先生は軽く肩をすくめ、
――まるで子どもをあやすように微笑んだ。
「え?」と小さく首を傾げて。
「その方が、断然面白くない?」
「お、面白くないですっ!!」
ぷいっと顔を背ける結衣。
けれど、頬が熱い。耳まで真っ赤だ。
その様子を見て、彼は小さくため息をついた。
そして一歩、彼女の方へ近づく。
――距離が、近い。
陽向先生の指先がそっと触れる。
結衣の唇に、かすかな指先の温度が伝わった。
「だってさぁ、……僕に口きいてくれなかった結衣が悪いんだよ?」
「んなっ……!」
ドクン、と胸が高鳴る。
世界が一瞬止まったように感じた。
窓の外では、雨が上がり、光が差し込み始めている。
その光が、ふたりの影をやわらかく照らした。
「もう、陽向先生のばか……!」
そう言って胸を軽く叩くと、陽向先生はその手を優しく掴み、引き寄せる。
「はは、ほんとに可愛い。……結衣、大好き。」
耳元に落ちた声は、どんな春風よりもあたたかかった。
呼吸をするのも忘れるほど、近い距離。
頬を伝う熱が、静かに心の奥に染み込んでいく。
外では桜の花びらが雨に濡れ、静かに舞っていた。
まるで、ふたりの“やきもち”ごと包み込むように。
――その瞬間、結衣は思った。
好きになるって、こんなに不器用で、愛おしいことなんだ。
新しい春が、少しずつ色を変えていく。
恋の季節は、まだ終わらない。
春の日差しが温かい朝。
病院の中庭には淡い光が射し込み、風に乗って桜の花びらが静かに舞っていた。
花びらがアスファルトの上に落ちる音はしないのに、なぜか胸の奥がくすぐったい。
橘結衣はナースステーションの机に向かい、書類の山に囲まれながらため息をついた。
新しい年度の始まり。
そして今日から、結衣は「新人教育係」として、後輩を育てる立場になったのだ。
(まさか、自分が“先輩”って呼ばれる日がくるなんて……)
机の上には、新人教育マニュアルや技術チェックリストが並んでいる。
自分が新人だった頃――緊張しすぎて手が震え、注射針を落とした日のことを思い出す。
あの頃は、いつも陽向先生がさりげなくフォローしてくれた。
思えば、彼との距離が少しずつ近づいていったのも、あの時期だった。
そんなことを考えていた矢先――、
「橘せんぱぁいっ♡ 今日もよろしくお願いしますっ!」
耳がくすぐったくなるほどの明るい声が背後から響いた。
結衣が振り向くと、そこには小柄な新人ナース・佐々木桃(ササキ モモ)が立っていた。
春の日差しを反射して、ネームプレートがきらきらと光る。
ふわふわとした柔らかい茶髪、ピンク色のヘアピン、そしてぱっちりした目。
まるで絵本から飛び出してきた妖精のような子だった。
「佐々木さん、おはよう。……そのテンション、朝からすごいね。」
「えへへ、だって今日も橘先輩とお仕事できるからです~♡」
にこにこと笑うその顔が、春の陽射しのように眩しい。
結衣は思わず頬を引きつらせた。
(私……こ、こういうタイプ、正直ちょっと苦手かも…)
テンションが高く、可愛げがあるタイプ。
どこか守ってあげたくなるような雰囲気を持っている。
でも同時に、なぜだか放っておけない不思議な魅力もあった。
「佐々木さん、昨日の採血の練習はどうだった?」
「え、えっと……針、ちょっと変な角度で刺しちゃってぇ……患者さん、ちょっと泣いちゃいましたぁ……」
「えぇぇ……また?」
「す、すみませんっ!でも!橘先輩のアドバイス思い出して、すぐ謝って、次はうまくいきました!」
「……まぁ、それならよかったけど……」
結衣は苦笑しながらカルテを閉じる。
桃は自分の失敗を恥ずかしそうに笑いながらも、前向きだ。
その明るさに救われる瞬間もある。
そのやり取りを、ナースステーションの隅でそうろ見ていた柚希。
長い髪をポニーテールに束ね、コーヒー片手ににやにや笑っている。
「ふふ~ん。なんか最近、結衣ってば“佐々木さん命”だよねぇ?」
「ち、違うわよ!ただの指導係だから!」
「へぇ~?前は私と一緒に休憩してくれてたのにぃ。最近ぜんぜん構ってくれないんだもーん。」
「そんなこと……。」
「むぅ~、焼きもち妬いちゃう~!」
柚希は頬をぷくっと膨らませ、冗談めかして腕を組む。
結衣は思わず吹き出してしまった。
「もう柚希、子どもみたいなこと言わないでよ。」
「だってさ、結衣が他の子に懐かれてるの見ると、なんか落ち着かないんだもん~。」
その言葉に、結衣の胸がほんの少しだけ温かくなる。
柚希はいつも口が悪いが、根はとても優しい。
そして彼女だけは、結衣と陽向先生の“秘密”を知っている。
(柚希には、ほんと何でもお見通しなんだよね。)
そんな平和な朝だった。
――この時までは。
昼過ぎ。
外来の診察室前は、いつものように患者と医師で賑わっていた。
結衣がカルテをまとめていると、廊下の向こうで見慣れた後ろ姿を見つけた。
「佐々木さん?どうしたの?」
「橘先輩!陽向先生に、カルテのことでちょっと質問があって……あっ!」
桃の視線の先。
白衣をなびかせながら歩いてくるのは、陽向碧先生。
清潔感のある優しい笑顔。落ち着いた声。
通り過ぎるだけで、まわりの空気が一段明るくなるような人。
その姿を見つけた瞬間、桃の目がきらきらと輝いた。
「ひ、陽向先生っ♡ あの、これ、確認お願いしたくてっ!」
「ん?ああ、佐々木さんか。……いいよ、見せて。」
陽向はいつもの柔らかい笑みを浮かべて、桃に近づいた。
その距離が、やけに近い。
桃は緊張で顔を真っ赤にしながら、カルテを差し出す。
「こ、これです!ここの数値がちょっと……。」
「うん、なるほど。ここはこの計算でいいと思うよ。よく気づいたね。」
「ほ、本当ですか!?やったぁ♡」
その瞬間の桃の笑顔は、まるで満開の桜のようにぱっと咲いた。
――結衣は、少し離れた場所からその光景を見つめていた。
(ちょ、ちょっと……近くない? 何あれ!顔、近くない!?)
(っていうか陽向先生、なんでそんなニコニコ笑ってんのよっ……!)
胸の奥がじわじわと熱くなる。
それが“焼きもち”だと認めたくなくて、ただ無言で書類に目を落とした。
だけど、ペン先が震えて文字がうまく書けない。
「……橘さん?大丈夫?」
陽向先生の声が耳に届く。
咄嗟に顔を上げると、彼が不思議そうに首をかしげていた。
「な、なんでもないですっ。」
つい語気が強くなってしまい、彼は少し目を丸くする。
桃はそんな二人を見て、「仲良しですねぇ~♡」と微笑んでいた。
(……なんか、複雑なんですけど。)
そう思いながら、結衣は心の中で深くため息をついた。
その日の夜。
更衣室で制服を畳んでいると、柚希がまたにやにやと話しかけてきた。
「ねぇ結衣。佐々木さんさぁ、陽向先生のこと、ひょっとして好きなんじゃない?」
「えっ!?そ、そんなわけ……!」
「わかりやすいよ~。だって、陽向先生の話するときの顔、完全に恋する乙女だもん。」
「や、やめてよ、そんな大げさな……!」
「で、結衣はどう思ってるの?」
「どうって……別に、指導に支障が出なければなんだけど……。」
「ほんとに~?なんか声が震えてるけど?」
「…もう、…うるさい。」
柚希がクスクス笑う。
図星すぎて、結衣は反論できなかった。
(ダメだ、私……完全に子どもみたいになってるじゃない。)
――そう思いながら、夜風に混じる桜の香りを吸い込んだ。
春は、恋も不安も、静かに芽吹かせる季節なのだ。
春の午後――。
外来の廊下に差し込む陽光は、ガラス窓越しに柔らかく反射し、白い床に淡く光の帯を描いていた。
昼下がり特有の眠気と静けさ。
そんな中、橘結衣はステーションに戻る途中、足を止めてしまった。
――視界の先。
診察室の前で、佐々木桃がまた陽向先生に声をかけている。
「陽向先生っ♡ あの、これ、確認お願いしたくてっ!」
小さな声なのに、なぜか耳に響く。
その響きは、まるで心の奥に落ちる小石の音のように、静かに波紋を広げていった。
(……また、あの距離感。)
見ていると胸の奥がざわざわする。
桃の頬は真っ赤で、瞳はきらきら。
陽向先生はいつもと同じ穏やかな微笑み――けれど、それがやけに優しく見える。
「ん?ああ、佐々木さん。……いいよ、309号室の患者さんだよね。見せて。」
彼の低い声。
すぐそばで響くその音を、結衣は覚えている。
夜勤明けの廊下で、ふたりきりで交わした小さな言葉たち。
眠気まじりの"お疲れさま"が、どんなに優しく響いたかを。
――それなのに、今、その声は別の人に向いている。
(って、顔近くない?……あの距離、近いんだってば……!)
視線を逸らそうとしても、目が離せない。
気づけば、息まで浅くなっていた。
「ここはこの認識でいいよ。よく出来たね。」
「ほ、本当ですか!?やったぁ♡」
陽向先生が笑う。
桃が嬉しそうに両手を胸の前でぎゅっと握りしめる。
その瞬間――ふと、彼の頬がやわらかくほころんだように見えた。
(……そんな顔、ずるい。)
自分でも理由がわからない。
ただ胸の奥がちくりと痛んで、思わず踵を返していた。
ナースステーションに戻る途中、カートを押す手がいつもより強くなっているのに気づいて、結衣は小さく息をついた。
(……何やってるの、私。)
(別に、やましいことしてるわけじゃないのに……。)
だけど、その“別に”の裏には、言葉にならない感情がいくつも積み重なっていた。
翌日の昼休み。
休憩室の窓の外では、桜の花びらがもうすぐ散り終える頃。
薄いピンク色の風がカーテンを揺らしていた。
柚希はサンドイッチを片手に、いつもの調子で言う。
「結衣、最近、陽向先生に冷たくない?」
「そ、そんなことないわよ。」
言葉を返す声が、少し早口になる。
柚希はそれを逃さず、ニヤリと笑った。
「あるって~。だってこの前、先生が“お疲れさま”って声かけてたのに、聞こえないふりしてたでしょ?」
「……別に、聞こえなかっただけだもん。」
「はいはい、ツンデレさん。」
あっさり言い切られて、結衣は頬をふくらませる。
しかし、否定する言葉がすぐに出てこなかった。
(……確かに、あの時、聞こえてた。)
(でも、なんか……返すのが怖くて。)
もし自分がいつも通りに微笑んで返したら、
きっと“何も気にしてない”ふうに見えてしまう。
それが嫌だった。
気にしてることを、知られたくもあった。――そんな矛盾。
柚希は紅茶を一口飲みながら、首をかしげた。
「そんなに心配なら、最初から付き合ってること公表しちゃえばいいのに~。」
「む、無理よ!病院でそんなことしたら噂になるでしょ!」
「でも、陽向先生だって別に隠したがってる感じじゃない気がするけど?」
「そ、そんなこと……。」
図星。
胸の奥に小さく刺さるその言葉を、結衣は飲み込む。
柚希は、からかいながらも優しい目をしていた。
「ま、がんばれ恋するナースさん♡」
軽口のようでいて、励ましでもある。
その一言に、結衣は少しだけ笑った。
午後。
ナースステーションは、点滴の準備やカルテ整理で慌ただしくなっていた。
その中で、結衣はふと佐々木さんの姿を探してしまう。
彼女は真剣な表情でカルテを書き、他のスタッフに質問をしていた。
(……あの子、意外と真面目なんだよね。)
仕事を覚えようと必死で、失敗してもへこたれない。
だから、放っておけない。
……なのに、時々、あの屈託のない笑顔が胸をざわつかせる。
――そんな想いを抱えたまま、数日が過ぎた。
木曜日。
春の雨が静かに降り始めた昼下がり。
ナースステーションの空気は少し冷たく、外の灰色の光が窓を濡らしていた。
結衣は書類を整理していたが、妙な予感に眉を寄せた。
(……静かすぎる。)
すると、背後からバタバタと駆け足の音。
「橘っ、先輩っ!」
息を弾ませて現れたのは――やっぱり、佐々木桃だった。
「ど、どうしたの?そんな慌てて。」
「わ、私……決めました!」
「な、何を?」
「陽向先生に、告白しようと思いますっ!!」
「――――は?」
ペンが指から滑り落ち、机にカシャンと音を立てて転がる。
その音よりも先に、心臓の鼓動が響いた。
「佐々木さん?!い、いきなり何を言ってるの!?」
「だって、陽向先生すごく優しいし……患者さんにもスタッフにも丁寧で……素敵だなって思って……。」
「そ、それはわかるけどっ!」
必死に笑顔を作ろうとしたけれど、声が裏返った。
そして胸の奥に広がるのは、まるで春の嵐のような動揺。
「で、でもやめといた方がいいわよ?」
「え?なんでですか?」
桃の無垢な瞳。
それを見つめると、嘘なんてつけなかった――けれど。
あたふたとする結衣の口から、出てしまったのは思いがけない言葉だった。
「じ、実はね……陽向先生、恋愛とか興味ないみたいなの。それはそれは、たくさんの綺麗で、若くて、可愛い看護師さんを振ってて……。」
「えぇぇ!?そ、そんなぁ……。」
桃がショックを受け、今にも泣きそうな顔をする。
その瞬間、結衣の胸がズキッと痛んだ。
(なに言ってるの、私……。最低じゃない……。)
けれど、もう遅かった。
――背後から、低く落ち着いた声。
「僕がなんだって?橘さん?」
その声を聞いた瞬間、血の気が引いた。
「ひゃっ……!? 陽向先生!?」
いつの間にか、結衣のすぐ真後ろに。
陽向先生が腕を組み、穏やかに――けれど確実に“面白がっている”顔で立っていた。
「やだなぁ、橘さん。僕のことが"好き"だからって、佐々木さんにそんな、あることないこと吹き込んだらだめだよ?ねぇ、佐々木さん?」
「えぇぇ!?そ、そうだったんですか、橘先輩!?わ、私……なんてことを……!」
「ち、違うのよ!?これはその、誤解で――!!」
必死の弁解もむなしく、佐々木さんはすでに顔を真っ赤にしてキャッキャと大騒ぎだ。
「なーんだ、橘先輩っ、陽向先生とお似合いですよっ♡ ファイトです!」
両手でハートを作って、佐々木さんは全力疾走でナースステーションを飛び出していった。
残されたのは、気まずい沈黙と、控えめに笑う陽向先生。
「…………。」
「…………。」
沈黙を破ったのは、結衣の方だった。
「っていうか、陽向先生!よりにもよってなんで私が“片思い設定”なんですかっ!」
声が裏返るほどの勢いで言うと、陽向先生は軽く肩をすくめ、
――まるで子どもをあやすように微笑んだ。
「え?」と小さく首を傾げて。
「その方が、断然面白くない?」
「お、面白くないですっ!!」
ぷいっと顔を背ける結衣。
けれど、頬が熱い。耳まで真っ赤だ。
その様子を見て、彼は小さくため息をついた。
そして一歩、彼女の方へ近づく。
――距離が、近い。
陽向先生の指先がそっと触れる。
結衣の唇に、かすかな指先の温度が伝わった。
「だってさぁ、……僕に口きいてくれなかった結衣が悪いんだよ?」
「んなっ……!」
ドクン、と胸が高鳴る。
世界が一瞬止まったように感じた。
窓の外では、雨が上がり、光が差し込み始めている。
その光が、ふたりの影をやわらかく照らした。
「もう、陽向先生のばか……!」
そう言って胸を軽く叩くと、陽向先生はその手を優しく掴み、引き寄せる。
「はは、ほんとに可愛い。……結衣、大好き。」
耳元に落ちた声は、どんな春風よりもあたたかかった。
呼吸をするのも忘れるほど、近い距離。
頬を伝う熱が、静かに心の奥に染み込んでいく。
外では桜の花びらが雨に濡れ、静かに舞っていた。
まるで、ふたりの“やきもち”ごと包み込むように。
――その瞬間、結衣は思った。
好きになるって、こんなに不器用で、愛おしいことなんだ。
新しい春が、少しずつ色を変えていく。
恋の季節は、まだ終わらない。