蝶々結び 【長編ver.完結】

第10章 指導係と妬きもち

――一年後の、春。

 春の日差しが温かい朝。
 病院の中庭には淡い光が射し込み、風に乗って桜の花びらが静かに舞っていた。
 花びらがアスファルトの上に落ちる音はしないのに、なぜか胸の奥がくすぐったい。
 橘結衣はナースステーションの机に向かい、書類の山に囲まれながらため息をついた。

 新しい年度の始まり。
 そして今日から、結衣は「新人教育係」として、後輩を育てる立場になったのだ。

(まさか、自分が“先輩”って呼ばれる日がくるなんて……)

 机の上には、新人教育マニュアルや技術チェックリストが並んでいる。
 自分が新人だった頃――緊張しすぎて手が震え、注射針を落とした日のことを思い出す。
 あの頃は、いつも陽向先生がさりげなくフォローしてくれた。
 思えば、彼との距離が少しずつ近づいていったのも、あの時期だった。

 そんなことを考えていた矢先――、

「橘せんぱぁいっ♡ 今日もよろしくお願いしますっ!」

 耳がくすぐったくなるほどの明るい声が背後から響いた。
 結衣が振り向くと、そこには小柄な新人ナース・佐々木桃(ササキ モモ)が立っていた。
 春の日差しを反射して、ネームプレートがきらきらと光る。
 ふわふわとした柔らかい茶髪、ピンク色のヘアピン、そしてぱっちりした目。
 まるで絵本から飛び出してきた妖精のような子だった。

「佐々木さん、おはよう。……そのテンション、朝からすごいね。」

「えへへ、だって今日も橘先輩とお仕事できるからです~♡」

 にこにこと笑うその顔が、春の陽射しのように眩しい。
 結衣は思わず頬を引きつらせた。

(私……こ、こういうタイプ、正直ちょっと苦手かも…)

 テンションが高く、可愛げがあるタイプ。
 どこか守ってあげたくなるような雰囲気を持っている。
 でも同時に、なぜだか放っておけない不思議な魅力もあった。

「佐々木さん、昨日の採血の練習はどうだった?」

「え、えっと……針、ちょっと変な角度で刺しちゃってぇ……患者さん、ちょっと泣いちゃいましたぁ……」

「えぇぇ……また?」

「す、すみませんっ!でも!橘先輩のアドバイス思い出して、すぐ謝って、次はうまくいきました!」

「……まぁ、それならよかったけど……」

 結衣は苦笑しながらカルテを閉じる。
 桃は自分の失敗を恥ずかしそうに笑いながらも、前向きだ。
 その明るさに救われる瞬間もある。

 そのやり取りを、ナースステーションの隅でそうろ見ていた柚希。
 長い髪をポニーテールに束ね、コーヒー片手ににやにや笑っている。

「ふふ~ん。なんか最近、結衣ってば“佐々木さん命”だよねぇ?」

「ち、違うわよ!ただの指導係だから!」

「へぇ~?前は私と一緒に休憩してくれてたのにぃ。最近ぜんぜん構ってくれないんだもーん。」

「そんなこと……。」

「むぅ~、焼きもち妬いちゃう~!」

 柚希は頬をぷくっと膨らませ、冗談めかして腕を組む。
 結衣は思わず吹き出してしまった。

「もう柚希、子どもみたいなこと言わないでよ。」

「だってさ、結衣が他の子に懐かれてるの見ると、なんか落ち着かないんだもん~。」

 その言葉に、結衣の胸がほんの少しだけ温かくなる。
 柚希はいつも口が悪いが、根はとても優しい。
 そして彼女だけは、結衣と陽向先生の“秘密”を知っている。

(柚希には、ほんと何でもお見通しなんだよね。)

 そんな平和な朝だった。
 ――この時までは。

 

 

 昼過ぎ。
 外来の診察室前は、いつものように患者と医師で賑わっていた。
 結衣がカルテをまとめていると、廊下の向こうで見慣れた後ろ姿を見つけた。

「佐々木さん?どうしたの?」

「橘先輩!陽向先生に、カルテのことでちょっと質問があって……あっ!」

 桃の視線の先。
 白衣をなびかせながら歩いてくるのは、陽向碧先生。
 清潔感のある優しい笑顔。落ち着いた声。
 通り過ぎるだけで、まわりの空気が一段明るくなるような人。

 その姿を見つけた瞬間、桃の目がきらきらと輝いた。

「ひ、陽向先生っ♡ あの、これ、確認お願いしたくてっ!」

「ん?ああ、佐々木さんか。……いいよ、見せて。」

 陽向はいつもの柔らかい笑みを浮かべて、桃に近づいた。
 その距離が、やけに近い。
 桃は緊張で顔を真っ赤にしながら、カルテを差し出す。

「こ、これです!ここの数値がちょっと……。」

「うん、なるほど。ここはこの計算でいいと思うよ。よく気づいたね。」

「ほ、本当ですか!?やったぁ♡」

 その瞬間の桃の笑顔は、まるで満開の桜のようにぱっと咲いた。
 ――結衣は、少し離れた場所からその光景を見つめていた。

(ちょ、ちょっと……近くない? 何あれ!顔、近くない!?)
(っていうか陽向先生、なんでそんなニコニコ笑ってんのよっ……!)

 胸の奥がじわじわと熱くなる。
 それが“焼きもち”だと認めたくなくて、ただ無言で書類に目を落とした。
 だけど、ペン先が震えて文字がうまく書けない。

「……橘さん?大丈夫?」
 陽向先生の声が耳に届く。
 咄嗟に顔を上げると、彼が不思議そうに首をかしげていた。

「な、なんでもないですっ。」

 つい語気が強くなってしまい、彼は少し目を丸くする。
 桃はそんな二人を見て、「仲良しですねぇ~♡」と微笑んでいた。

(……なんか、複雑なんですけど。)

 そう思いながら、結衣は心の中で深くため息をついた。

 

 

 その日の夜。
 更衣室で制服を畳んでいると、柚希がまたにやにやと話しかけてきた。

「ねぇ結衣。佐々木さんさぁ、陽向先生のこと、ひょっとして好きなんじゃない?」

「えっ!?そ、そんなわけ……!」

「わかりやすいよ~。だって、陽向先生の話するときの顔、完全に恋する乙女だもん。」

「や、やめてよ、そんな大げさな……!」

「で、結衣はどう思ってるの?」

「どうって……別に、指導に支障が出なければなんだけど……。」

「ほんとに~?なんか声が震えてるけど?」

「…もう、…うるさい。」

 柚希がクスクス笑う。
 図星すぎて、結衣は反論できなかった。

(ダメだ、私……完全に子どもみたいになってるじゃない。)

 ――そう思いながら、夜風に混じる桜の香りを吸い込んだ。
 春は、恋も不安も、静かに芽吹かせる季節なのだ。






春の午後――。
 外来の廊下に差し込む陽光は、ガラス窓越しに柔らかく反射し、白い床に淡く光の帯を描いていた。

 昼下がり特有の眠気と静けさ。
 そんな中、橘結衣はステーションに戻る途中、足を止めてしまった。

 ――視界の先。
 診察室の前で、佐々木桃がまた陽向先生に声をかけている。

「陽向先生っ♡ あの、これ、確認お願いしたくてっ!」

 小さな声なのに、なぜか耳に響く。
 その響きは、まるで心の奥に落ちる小石の音のように、静かに波紋を広げていった。

(……また、あの距離感。)

 見ていると胸の奥がざわざわする。
 桃の頬は真っ赤で、瞳はきらきら。
 陽向先生はいつもと同じ穏やかな微笑み――けれど、それがやけに優しく見える。

「ん?ああ、佐々木さん。……いいよ、309号室の患者さんだよね。見せて。」

 彼の低い声。
 すぐそばで響くその音を、結衣は覚えている。
 夜勤明けの廊下で、ふたりきりで交わした小さな言葉たち。
 眠気まじりの"お疲れさま"が、どんなに優しく響いたかを。

 ――それなのに、今、その声は別の人に向いている。

(って、顔近くない?……あの距離、近いんだってば……!)

 視線を逸らそうとしても、目が離せない。
 気づけば、息まで浅くなっていた。

「ここはこの認識でいいよ。よく出来たね。」

「ほ、本当ですか!?やったぁ♡」

 陽向先生が笑う。
 桃が嬉しそうに両手を胸の前でぎゅっと握りしめる。
 その瞬間――ふと、彼の頬がやわらかくほころんだように見えた。

(……そんな顔、ずるい。)

 自分でも理由がわからない。
 ただ胸の奥がちくりと痛んで、思わず踵を返していた。

 ナースステーションに戻る途中、カートを押す手がいつもより強くなっているのに気づいて、結衣は小さく息をついた。

(……何やってるの、私。)
(別に、やましいことしてるわけじゃないのに……。)

 だけど、その“別に”の裏には、言葉にならない感情がいくつも積み重なっていた。







 翌日の昼休み。

 休憩室の窓の外では、桜の花びらがもうすぐ散り終える頃。
 薄いピンク色の風がカーテンを揺らしていた。

 柚希はサンドイッチを片手に、いつもの調子で言う。

「結衣、最近、陽向先生に冷たくない?」

「そ、そんなことないわよ。」

 言葉を返す声が、少し早口になる。
 柚希はそれを逃さず、ニヤリと笑った。

「あるって~。だってこの前、先生が“お疲れさま”って声かけてたのに、聞こえないふりしてたでしょ?」

「……別に、聞こえなかっただけだもん。」

「はいはい、ツンデレさん。」

 あっさり言い切られて、結衣は頬をふくらませる。
 しかし、否定する言葉がすぐに出てこなかった。

(……確かに、あの時、聞こえてた。)
(でも、なんか……返すのが怖くて。)

 もし自分がいつも通りに微笑んで返したら、
 きっと“何も気にしてない”ふうに見えてしまう。
 それが嫌だった。
 気にしてることを、知られたくもあった。――そんな矛盾。

 柚希は紅茶を一口飲みながら、首をかしげた。

「そんなに心配なら、最初から付き合ってること公表しちゃえばいいのに~。」

「む、無理よ!病院でそんなことしたら噂になるでしょ!」

「でも、陽向先生だって別に隠したがってる感じじゃない気がするけど?」

「そ、そんなこと……。」

 図星。
 胸の奥に小さく刺さるその言葉を、結衣は飲み込む。

 柚希は、からかいながらも優しい目をしていた。

「ま、がんばれ恋するナースさん♡」

 軽口のようでいて、励ましでもある。
 その一言に、結衣は少しだけ笑った。







 午後。
 ナースステーションは、点滴の準備やカルテ整理で慌ただしくなっていた。

 その中で、結衣はふと佐々木さんの姿を探してしまう。
 彼女は真剣な表情でカルテを書き、他のスタッフに質問をしていた。

(……あの子、意外と真面目なんだよね。)

 仕事を覚えようと必死で、失敗してもへこたれない。
 だから、放っておけない。
 ……なのに、時々、あの屈託のない笑顔が胸をざわつかせる。

 ――そんな想いを抱えたまま、数日が過ぎた。







 木曜日。
 春の雨が静かに降り始めた昼下がり。

 ナースステーションの空気は少し冷たく、外の灰色の光が窓を濡らしていた。
 結衣は書類を整理していたが、妙な予感に眉を寄せた。

(……静かすぎる。)

 すると、背後からバタバタと駆け足の音。

「橘っ、先輩っ!」

 息を弾ませて現れたのは――やっぱり、佐々木桃だった。

「ど、どうしたの?そんな慌てて。」

「わ、私……決めました!」

「な、何を?」

「陽向先生に、告白しようと思いますっ!!」

「――――は?」

 ペンが指から滑り落ち、机にカシャンと音を立てて転がる。

 その音よりも先に、心臓の鼓動が響いた。

「佐々木さん?!い、いきなり何を言ってるの!?」

「だって、陽向先生すごく優しいし……患者さんにもスタッフにも丁寧で……素敵だなって思って……。」

「そ、それはわかるけどっ!」

 必死に笑顔を作ろうとしたけれど、声が裏返った。
 そして胸の奥に広がるのは、まるで春の嵐のような動揺。

「で、でもやめといた方がいいわよ?」

「え?なんでですか?」

 桃の無垢な瞳。
 それを見つめると、嘘なんてつけなかった――けれど。

 あたふたとする結衣の口から、出てしまったのは思いがけない言葉だった。

「じ、実はね……陽向先生、恋愛とか興味ないみたいなの。それはそれは、たくさんの綺麗で、若くて、可愛い看護師さんを振ってて……。」

「えぇぇ!?そ、そんなぁ……。」

 桃がショックを受け、今にも泣きそうな顔をする。
 その瞬間、結衣の胸がズキッと痛んだ。
 (なに言ってるの、私……。最低じゃない……。)

 けれど、もう遅かった。

 ――背後から、低く落ち着いた声。

「僕がなんだって?橘さん?」

 その声を聞いた瞬間、血の気が引いた。

「ひゃっ……!? 陽向先生!?」

 いつの間にか、結衣のすぐ真後ろに。
 陽向先生が腕を組み、穏やかに――けれど確実に“面白がっている”顔で立っていた。

「やだなぁ、橘さん。僕のことが"好き"だからって、佐々木さんにそんな、あることないこと吹き込んだらだめだよ?ねぇ、佐々木さん?」

「えぇぇ!?そ、そうだったんですか、橘先輩!?わ、私……なんてことを……!」

「ち、違うのよ!?これはその、誤解で――!!」

 必死の弁解もむなしく、佐々木さんはすでに顔を真っ赤にしてキャッキャと大騒ぎだ。

「なーんだ、橘先輩っ、陽向先生とお似合いですよっ♡ ファイトです!」

 両手でハートを作って、佐々木さんは全力疾走でナースステーションを飛び出していった。

 残されたのは、気まずい沈黙と、控えめに笑う陽向先生。

「…………。」

「…………。」

 沈黙を破ったのは、結衣の方だった。

「っていうか、陽向先生!よりにもよってなんで私が“片思い設定”なんですかっ!」

 声が裏返るほどの勢いで言うと、陽向先生は軽く肩をすくめ、
 ――まるで子どもをあやすように微笑んだ。

「え?」と小さく首を傾げて。
「その方が、断然面白くない?」

「お、面白くないですっ!!」

 ぷいっと顔を背ける結衣。
 けれど、頬が熱い。耳まで真っ赤だ。

 その様子を見て、彼は小さくため息をついた。
 そして一歩、彼女の方へ近づく。

 ――距離が、近い。

 陽向先生の指先がそっと触れる。
 結衣の唇に、かすかな指先の温度が伝わった。

「だってさぁ、……僕に口きいてくれなかった結衣が悪いんだよ?」

「んなっ……!」

 ドクン、と胸が高鳴る。
 世界が一瞬止まったように感じた。

 窓の外では、雨が上がり、光が差し込み始めている。
 その光が、ふたりの影をやわらかく照らした。

「もう、陽向先生のばか……!」

 そう言って胸を軽く叩くと、陽向先生はその手を優しく掴み、引き寄せる。

「はは、ほんとに可愛い。……結衣、大好き。」

 耳元に落ちた声は、どんな春風よりもあたたかかった。
 呼吸をするのも忘れるほど、近い距離。
 頬を伝う熱が、静かに心の奥に染み込んでいく。

 外では桜の花びらが雨に濡れ、静かに舞っていた。
 まるで、ふたりの“やきもち”ごと包み込むように。

 ――その瞬間、結衣は思った。
 好きになるって、こんなに不器用で、愛おしいことなんだ。

 新しい春が、少しずつ色を変えていく。
 恋の季節は、まだ終わらない。
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