蝶々結び 【長編ver.完結】
処置室の中は、ひんやりとしていた。
 無影灯の白い光が静かに照らし出す中、
 金属トレーの上にはピンセットとガーゼ、消毒液の瓶が並んでいる。
 消毒用アルコールの匂いが、淡く鼻に届いた。

 橘結衣は、まだ少し震える指を見つめていた。
 さっきまでの出来事が、まるで幻のように遠く思える。
 けれど、心臓の鼓動はまだ早い。
 あの人――早瀬隼人の声が、耳の奥に残っていた。

 “結衣、久しぶりだね。”

 たったそれだけの言葉なのに、胸の奥に重く響いて、
 押し込めていた過去の記憶が一気に溢れ出した。
 手を伸ばしたら戻ってしまいそうなほど近くに、
 かつて愛した人がいた――その事実だけが、現実感を奪っていた。

「橘さん、こっちに座って。」

 低く落ち着いた声に現実へと引き戻される。
 陽向碧――彼の声は、まるで結衣を安心させる魔法のように柔らかかった。
 白衣の袖を軽くまくり、医療用グローブをはめる仕草。
 その一つひとつが、結衣の心を落ち着かせてくれる。

「ありがとうございます……」

「うん。とりあえず、指を見せて。」

 促されるまま、左手を差し出す。
 切り傷は小さいけれど、薄く血がにじんでいた。
 陽向先生は優しく結衣の手を取り、
 消毒綿をそっと当てた。

「ちょっとしみるよ。」

「……っ、はい。」

 じん、と染みた痛みが神経を刺激する。
 けれど、それ以上に感じるのは、
 彼の手のひらの温もりだった。
 包み込むようなその優しさに、
 さっきまでの混乱が少しずつほどけていく。

 消毒を終えた陽向先生は、絆創膏を貼りながら
 結衣の顔を覗き込んだ。

「橘さん、顔色悪いけど……大丈夫?」

 心配そうな声。
 その瞳が、まっすぐに結衣を映している。
 うっすらと滲む汗がこめかみを伝い、白衣の襟に落ちた。

「……だ、大丈夫です。すみません、驚かせちゃって。」

「驚いたのは僕の方だよ。
 ナースステーションの前で、ガラスの割れる音が聞こえて駆け付けたら…、
 本当に心臓止まるかと思った。」

「そんな……大げさですよ。」

「本気だよ。」

 陽向先生は微笑むが、その目の奥には確かな安堵があった。
 その笑顔を見て、結衣の胸に温かいものが広がる。

 けれど、陽向先生の声が少しだけトーンを変えた。

「……ねぇ、橘さん。」

「はい?」

「さっき一緒にいた先生――あの人、
 新しく入った外科の先生だよね?」

 その一言に、結衣の呼吸が一瞬止まる。
 やっぱり聞かれると思っていた。
 けれど、心の準備はまだできていなかった。

 陽向先生は、軽く椅子に腰かけながら、
 結衣の手を離さないまま続けた。

「変な空気だったけど……知り合い?」

 “知り合い”――その響きが胸に刺さる。
 結衣は唇を噛みしめ、ほんの少し視線を落とした。

 嘘をつけば簡単だ。
 「はい、前の病院の先生です」と言えば済む。
 でも――陽向先生の前では、それができない。
 彼の目は、いつも真っ直ぐで、優しくて、嘘を許さないほど透明だから。

 静かな沈黙が数秒続く。
 そして、結衣は小さく息を吸い込んだ。

「……実は……前に陽向先生に話していた、
 私が前の病院で一緒に働いていた“元恋人”なんです。」

 その言葉を口にした瞬間、
 空気が少しだけ重くなった気がした。
 陽向先生の手が一瞬止まり、
 そして――驚いたように目を見開く。

「えぇ!? あの人が、そうなの?!」

 思っていたより大きな声に、結衣は少し肩をすくめた。
 けれど、彼の反応はどこか素直で、少し可笑しかった。

「そ、そんなに驚かなくても……」

「いや、だってさ……あんな人だったなんて、想像してなかったよ!」

 陽向先生は、しばらく考えるように天井を見上げ、
 腕を組んでうなずいた。

「うーん……まあ、顔が良いのは認めるとして……。
 僕と全然タイプ似てないね!」

「え!? そっちですか!?」
 思わずツッコミを入れる結衣。
 真剣な空気になると思っていたから、
 肩の力が抜けて、拍子抜けしてしまった。

 陽向先生は、くすっと笑って顎に指を当て、
 まるで推理でもするように考え込んだ。

「そうかそうか……橘さんは、その時好きになった人がタイプなんだねぇ~。」

「な、何の分析ですか……!」

「いやぁ、勉強になるなって。」

「誰のですか……!」

 そんな軽妙なやり取りの中、
 いつの間にか結衣の頬に笑みが戻っていた。
 緊張がほどけ、処置室の空気が少し柔らかくなる。

 陽向先生はその笑顔を見て、静かに言った。

「――やっと笑った。」

「え?」

 結衣が首を傾げると、陽向先生は少し照れたように目を細めた。

「さっきから、元気なかったから。
 本当に心配したんだ。」

 その言葉に、胸がきゅっと締め付けられる。
 その優しさが、心の奥の不安を溶かしていく。
 彼の視線が、まっすぐで、優しくて。
 それだけで、涙が出そうになった。

「……すみません。心配かけて。」

「ううん。謝らなくていいよ。
 誰だって驚くよ、昔の恋人にいきなり再会したら。」

 柔らかな声。
 その包み込むような言葉に、結衣は少しだけ笑った。

「……陽向先生は、
 私が元恋人と鉢合わせしても……焼きもちとか、妬いたりしないんですか?」

 気づけば、口からぽろりと出ていた。
 自分でも驚くほど自然に。

 陽向先生は、ほんの少し目を丸くしてから、
 口の端を上げた。

「んー……?」

 わざと考えるように顎に手を当て、
 結衣をちらりと見つめる。

「まぁ、状況によるけど――
 僕に見せてくれる結衣の表情は、いつも“大好き”って伝わってるから。
 今は妬かないかな。」

 さらりと、当たり前のように言ってのけた。
 結衣の心臓が跳ねる。
 耳まで熱くなって、顔が一気に赤く染まる。

「そ、そんなこと……!」

「ほんとだよ。」
 陽向先生は、少しだけいたずらっぽく笑う。
 その笑顔が、あまりにも優しくて、
 結衣は視線を逸らせなかった。

 外では、夏の蝉が鳴いている。
 処置室の中、冷たい風と二人の息が混ざり合う。

 ほんの短い沈黙のあと、
 陽向先生が静かに言った。

「橘さん。」

「……はい。」

「大丈夫。過去は過去だよ。
 僕は、今の結衣が好きだから。」

 その言葉に、胸の奥で何かがほどけていく。
 不安も、後ろめたさも、すべてを包み込むような優しさ。
 彼の声が、まるで穏やかな夏の風のように心に吹き抜けた。

 結衣は小さくうなずき、微笑んだ。
 その笑顔を見て、陽向先生もまた、ほっと息をついた。

 ――その瞬間。
 ドアの外を通る足音がした。
 聞き覚えのある、規則的な足音。
 結衣の心が一瞬だけ強く脈打つ。

(……早瀬先生……?)

 けれど、結衣はそっと息を吐いて、
 陽向先生の方へ視線を戻した。

 いまは、目の前の温もりを感じていたかった。
 あの日置いてきた過去よりも、
 いま隣にいる“現在”の彼の優しさを。


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