蝶々結び 【長編ver.完結】
第11章 切れた指先
梅雨が明けたばかりの病院は、むっとする熱気に包まれていた。
外の空は白く霞み、照りつける陽射しがアスファルトを歪ませている。
建物の中でも、エアコンの風が追いつかないほどの湿度。
白衣の下のブラウスが背中に張りつき、額に滲む汗を指先で拭うたび、橘結衣は夏の訪れを実感していた。
(今年の夏も、暑くなりそうね……)
ナースステーションでは、点滴の交換や電子カルテの入力に追われる看護師たちの声が絶えない。
モニターの青白い光と、無機質な機械音。
その中に混じる笑い声や患者との会話が、この病棟の日常を形づくっていた。
結衣はいつものようにナースキャップを整え、スケジュール表を確認する。
新しい外科医が今日から赴任してくると聞いてはいた。
だが、それがどんな人物なのか、詳しい情報は知らない。
(……どんな先生なんだろう。陽向先生みたいに優しい人だといいけど)
ふと頭に浮かんだ彼――陽向碧。
その名を思い出すだけで、胸の奥がほんのり熱を帯びる。
昼休みのたびに何気ない会話を交わし、帰り際にはこっそり笑い合うような関係。
正式に“恋人”という言葉を交わしたのは、まだ最近のことだ。
けれど、この病院では公にしていない。
どちらかが忙しい日には、ただの“同僚”としてすれ違うだけ。
それでも十分に幸せだと思っていた。
――この夏が訪れるまでは。
その日の午前。
外科病棟では、新任医師の着任挨拶が行われていた。
「今日からこの病院の外科に赴任することになりました、早瀬隼人です。よろしくお願いします。」
その声はよく通る低音で、穏やかでありながらもどこか人を惹きつける響きを持っていた。
白衣の襟元からのぞく喉元が涼しげで、栗色の髪が柔らかく光を受けている。
少し長めの前髪が、優しげな目元を隠すように揺れた。
看護師たちは思わず顔を見合わせ、ざわりと小さなささやきが広がる。
「イケメンすぎない……?」
「ねぇ、外科の若手であんな先生入るのずるい……!」
「ちょっと俳優みたいだよね……!」
そんな中、彼――早瀬隼人は、にこやかに微笑んだ。
その笑顔は人懐っこく、それでいてどこか寂しげでもある。
それが、余計に周囲を惹きつけていた。
(……まさか、彼がここにいるなんて、この時は誰も知らなかった…)
午前の回診がひと段落したころ。
早瀬は、担当病棟を確認するため、ふとナースステーションの前を通りかかった。
カルテボードが壁にずらりと並び、その横には“担当ナース”の名前札。
整然と並ぶプレートの中に、ひとつの名前が目に入った瞬間――彼の足が止まった。
「……"橘 結衣"……?」
かすかに息を呑む。
胸の奥が、ぎゅうっと痛んだ。
まさか、同じ病院で再会するなんて――思ってもいなかった。
あの夜、彼女が去ってから二年。
互いに別々の道を歩くはずだった。
過去の記憶が、一瞬で鮮やかに蘇る。
泣きながら背を向けた彼女の後ろ姿。
何も言い返せず、ただその背を見送った自分。
(……神様って、意地が悪いな)
と、思わず口の端で笑う。
けれど、その笑みの裏に隠された感情は、誰にも見えない。
「あの、先生…?どうかされましたか?」
若い看護師が不思議そうに声をかける。
早瀬ははっと我に返り、微笑みを整えた。
「いや、何でもないよ。……あ、挨拶がまだだったね。」
そして柔らかな笑顔で言葉を続ける。
「今日から外科に配属になった早瀬 隼人です。よろしくね?」
その瞬間、周囲の空気が一気に華やいだ。
看護師たちの目が輝き、声が弾む。
「え、外科の新しく入った先生ってこの人だったの!? めっちゃ優しそう!」
「きゃー、あの笑顔反則……!」
まるで春の嵐のように、ナースステーションがざわめく。
だが、早瀬の心だけは静かだった。
表情の裏で、ある“名前”が何度もこだましている。
(結衣……。もしかしてこの病院に、いるのか?)
一方その頃、結衣は病室の片隅で、患者の点滴器具を外し、片付けをしていた。
終わったばかりの点滴スタンドを拭き、手元を確認する。
「よし、これで終わりっと。」
患者の枕元に置かれた小さな花瓶が目に留まった。
白いカスミソウと黄色いガーベラが、少し萎れている。
「あ……お花、替えないと。」
そうつぶやき、花瓶を持ち上げてナースステーションへ戻る。
ステーションに入る前、何人かでざわざわしている廊下の奥に立つ一人の医師の後ろ姿が目に入った。
(あれ? 見かけない先生ね。新しく入った先生かな?)
白衣の背中。
少し茶色がかった髪が、蛍光灯の光に柔らかく反射している。
立ち姿が妙に懐かしく感じて、結衣は無意識に足を止めた。
そして、その医師がゆっくりと振り返る。
視線が合った――その瞬間。
時間が止まった。
「……っ!!!」
花瓶を持つ指が震える。
白衣の襟元、整った顔立ち、そして何よりも――その目。
かつて自分の名前を一番近くで呼んでくれた瞳。
「あ、やっぱりそうだ。"結衣"、久しぶりだね。」
静かに、しかし確かに響く声。
何年も前の、夏の日のままの声だった。
世界が揺れた。
頭の中で何かが弾け、記憶の欠片が一気に蘇る。
交わした言葉。交差した視線。
あの日の雨。
別れ際にさようならとしか言えなかった、色々伝えたかった言葉の数々を思い出した。
(……どうして、ここに……?)
思考が追いつかない。
次の瞬間――
ガシャン、と高い音。
手から花瓶が滑り落ち、床に砕け散った。
「あっ……!」
割れたガラス片と水が飛び散る。
結衣は慌ててしゃがみこみ、手を伸ばした。
けれど――
「痛っ……!」
細い指先に鋭い痛み。
見ると、ガラスの欠片が赤く染まり始めていた。
「結衣!触ったらだめだっ!」
鋭い声が響いた。
早瀬が一歩で距離を詰め、結衣の腕を掴む。
その瞬間、二人の間に流れたのは、時間ではなく“過去”だった。
息を呑む距離。
触れた指先。
懐かしさと痛みが入り混じった感情が、結衣の胸をぎゅっと締め付ける。
でも――何も言えない。
心臓が激しく脈を打ち、視界が滲んでいく。
頭の中が、真っ白だった。
そんな中、別の声が飛び込んできた。
「橘さん!?」
聞き慣れた、安心する低音。
振り返ると、そこには陽向先生が駆け寄ってきていた。
額にうっすら汗を浮かべ、真剣な表情で。
「どうしたの?怪我してるじゃないか!」
瞬間、結衣の肩が支えられた。
陽向先生の手が、自分を包み込む。
その温もりに、緊張していた心が少しだけほぐれる。
「だ、大丈夫です。……わたし、ちょっと、転んじゃって……」
「無理しないで。処置室に行こう。」
その声は、穏やかでいて、どこか焦りを含んでいた。
早瀬はそのやり取りを黙って見ていた。
手の中からすり抜ける結衣の腕の体温を、名残惜しそうに指先で感じながら。
「結衣……。」
低く絞り出したような声。
けれど結衣は、それに応えられなかった。
ただ小さく会釈して、陽向先生の腕に支えられながら処置室へ向かっていった。
背後で、早瀬は静かに息を吐いた。
まるで、過去が一気に戻ってきたことを受け止めるように。
外の空は白く霞み、照りつける陽射しがアスファルトを歪ませている。
建物の中でも、エアコンの風が追いつかないほどの湿度。
白衣の下のブラウスが背中に張りつき、額に滲む汗を指先で拭うたび、橘結衣は夏の訪れを実感していた。
(今年の夏も、暑くなりそうね……)
ナースステーションでは、点滴の交換や電子カルテの入力に追われる看護師たちの声が絶えない。
モニターの青白い光と、無機質な機械音。
その中に混じる笑い声や患者との会話が、この病棟の日常を形づくっていた。
結衣はいつものようにナースキャップを整え、スケジュール表を確認する。
新しい外科医が今日から赴任してくると聞いてはいた。
だが、それがどんな人物なのか、詳しい情報は知らない。
(……どんな先生なんだろう。陽向先生みたいに優しい人だといいけど)
ふと頭に浮かんだ彼――陽向碧。
その名を思い出すだけで、胸の奥がほんのり熱を帯びる。
昼休みのたびに何気ない会話を交わし、帰り際にはこっそり笑い合うような関係。
正式に“恋人”という言葉を交わしたのは、まだ最近のことだ。
けれど、この病院では公にしていない。
どちらかが忙しい日には、ただの“同僚”としてすれ違うだけ。
それでも十分に幸せだと思っていた。
――この夏が訪れるまでは。
その日の午前。
外科病棟では、新任医師の着任挨拶が行われていた。
「今日からこの病院の外科に赴任することになりました、早瀬隼人です。よろしくお願いします。」
その声はよく通る低音で、穏やかでありながらもどこか人を惹きつける響きを持っていた。
白衣の襟元からのぞく喉元が涼しげで、栗色の髪が柔らかく光を受けている。
少し長めの前髪が、優しげな目元を隠すように揺れた。
看護師たちは思わず顔を見合わせ、ざわりと小さなささやきが広がる。
「イケメンすぎない……?」
「ねぇ、外科の若手であんな先生入るのずるい……!」
「ちょっと俳優みたいだよね……!」
そんな中、彼――早瀬隼人は、にこやかに微笑んだ。
その笑顔は人懐っこく、それでいてどこか寂しげでもある。
それが、余計に周囲を惹きつけていた。
(……まさか、彼がここにいるなんて、この時は誰も知らなかった…)
午前の回診がひと段落したころ。
早瀬は、担当病棟を確認するため、ふとナースステーションの前を通りかかった。
カルテボードが壁にずらりと並び、その横には“担当ナース”の名前札。
整然と並ぶプレートの中に、ひとつの名前が目に入った瞬間――彼の足が止まった。
「……"橘 結衣"……?」
かすかに息を呑む。
胸の奥が、ぎゅうっと痛んだ。
まさか、同じ病院で再会するなんて――思ってもいなかった。
あの夜、彼女が去ってから二年。
互いに別々の道を歩くはずだった。
過去の記憶が、一瞬で鮮やかに蘇る。
泣きながら背を向けた彼女の後ろ姿。
何も言い返せず、ただその背を見送った自分。
(……神様って、意地が悪いな)
と、思わず口の端で笑う。
けれど、その笑みの裏に隠された感情は、誰にも見えない。
「あの、先生…?どうかされましたか?」
若い看護師が不思議そうに声をかける。
早瀬ははっと我に返り、微笑みを整えた。
「いや、何でもないよ。……あ、挨拶がまだだったね。」
そして柔らかな笑顔で言葉を続ける。
「今日から外科に配属になった早瀬 隼人です。よろしくね?」
その瞬間、周囲の空気が一気に華やいだ。
看護師たちの目が輝き、声が弾む。
「え、外科の新しく入った先生ってこの人だったの!? めっちゃ優しそう!」
「きゃー、あの笑顔反則……!」
まるで春の嵐のように、ナースステーションがざわめく。
だが、早瀬の心だけは静かだった。
表情の裏で、ある“名前”が何度もこだましている。
(結衣……。もしかしてこの病院に、いるのか?)
一方その頃、結衣は病室の片隅で、患者の点滴器具を外し、片付けをしていた。
終わったばかりの点滴スタンドを拭き、手元を確認する。
「よし、これで終わりっと。」
患者の枕元に置かれた小さな花瓶が目に留まった。
白いカスミソウと黄色いガーベラが、少し萎れている。
「あ……お花、替えないと。」
そうつぶやき、花瓶を持ち上げてナースステーションへ戻る。
ステーションに入る前、何人かでざわざわしている廊下の奥に立つ一人の医師の後ろ姿が目に入った。
(あれ? 見かけない先生ね。新しく入った先生かな?)
白衣の背中。
少し茶色がかった髪が、蛍光灯の光に柔らかく反射している。
立ち姿が妙に懐かしく感じて、結衣は無意識に足を止めた。
そして、その医師がゆっくりと振り返る。
視線が合った――その瞬間。
時間が止まった。
「……っ!!!」
花瓶を持つ指が震える。
白衣の襟元、整った顔立ち、そして何よりも――その目。
かつて自分の名前を一番近くで呼んでくれた瞳。
「あ、やっぱりそうだ。"結衣"、久しぶりだね。」
静かに、しかし確かに響く声。
何年も前の、夏の日のままの声だった。
世界が揺れた。
頭の中で何かが弾け、記憶の欠片が一気に蘇る。
交わした言葉。交差した視線。
あの日の雨。
別れ際にさようならとしか言えなかった、色々伝えたかった言葉の数々を思い出した。
(……どうして、ここに……?)
思考が追いつかない。
次の瞬間――
ガシャン、と高い音。
手から花瓶が滑り落ち、床に砕け散った。
「あっ……!」
割れたガラス片と水が飛び散る。
結衣は慌ててしゃがみこみ、手を伸ばした。
けれど――
「痛っ……!」
細い指先に鋭い痛み。
見ると、ガラスの欠片が赤く染まり始めていた。
「結衣!触ったらだめだっ!」
鋭い声が響いた。
早瀬が一歩で距離を詰め、結衣の腕を掴む。
その瞬間、二人の間に流れたのは、時間ではなく“過去”だった。
息を呑む距離。
触れた指先。
懐かしさと痛みが入り混じった感情が、結衣の胸をぎゅっと締め付ける。
でも――何も言えない。
心臓が激しく脈を打ち、視界が滲んでいく。
頭の中が、真っ白だった。
そんな中、別の声が飛び込んできた。
「橘さん!?」
聞き慣れた、安心する低音。
振り返ると、そこには陽向先生が駆け寄ってきていた。
額にうっすら汗を浮かべ、真剣な表情で。
「どうしたの?怪我してるじゃないか!」
瞬間、結衣の肩が支えられた。
陽向先生の手が、自分を包み込む。
その温もりに、緊張していた心が少しだけほぐれる。
「だ、大丈夫です。……わたし、ちょっと、転んじゃって……」
「無理しないで。処置室に行こう。」
その声は、穏やかでいて、どこか焦りを含んでいた。
早瀬はそのやり取りを黙って見ていた。
手の中からすり抜ける結衣の腕の体温を、名残惜しそうに指先で感じながら。
「結衣……。」
低く絞り出したような声。
けれど結衣は、それに応えられなかった。
ただ小さく会釈して、陽向先生の腕に支えられながら処置室へ向かっていった。
背後で、早瀬は静かに息を吐いた。
まるで、過去が一気に戻ってきたことを受け止めるように。