蝶々結び 【長編ver.完結】
「結衣!ちょっと、どういうこと!?」
処置室から出た結衣がナースステーションに戻ると、待ってましたと言わんばかりに柚希が両腕をばっと広げた。
昼の忙しい時間帯だというのに、彼女のテンションだけは常にフルスロットルだ。
「何あれ!?あの外科の新しい先生、めっちゃイケメンじゃない!?茶髪ふわふわ、あれ反則でしょ!? ……ていうか、まさかとは思うけど、結衣、また知り合いとか言わないよね!?」
「え、えぇと……」
「ちょっと、まさかの“知り合い”!? 詳しく聞かせてもらうからねっ!」
柚希は勢いのまま、結衣の両肩を掴んだ。
その目は完全に獲物を狙うハンターのそれだ。
結衣は思わず苦笑しながら、柚希の肩を軽く押して間を取った。
「わかった、わかったから……お昼に話すから。ね?柚希、仕事中だよ?」
「……絶対だよ!逃げないでよ!?」
「逃げないから……。」
そう言いながらも、心の奥ではどくどくと鼓動が早まっていた。
処置室での動揺がまだ抜けきらない。
あの“早瀬先生”――かつての恋人が、この病院にいる。
それだけで胸の奥がざわついて仕方がなかった。
昼休みの休憩室――。
柚希は待ちきれない様子でお弁当の箸も動かさず、結衣の前に身を乗り出した。
「で!どういうこと!?まさかほんとに元カレとかじゃないよね!?」
結衣は小さくため息をつき、目を伏せた。
「……実はね。前にちょっと話したことあったでしょ?前の病院で一緒に働いてた人のこと。」
柚希の動きがぴたりと止まった。
「……まさか、その“元恋人”って、あの早瀬先生だったの!?」
こくり、と結衣はうなずいた。
「なにそれぇぇ!!ちょっと、待って!?月9!?月9どころじゃないんだけど!? “元恋人が同じ病院に赴任してくる”って、ドラマ超えてるんですけど!」
柚希はお箸を放り投げて両手で顔を覆った。
「しかも相手、あのルックス!あれで元カレとか……もう現実味なさすぎ!で?で?今の結衣は陽向先生と、でしょ?つまり――三角関係!?え、どうなるのそれ!?どっちにするの!?」
「ちょ、ちょっと待って!そんな話じゃないから!」
「いや、そういう話でしょ!?令和の東◯ラブストーリー開幕じゃん!」
キャーキャーとはしゃぐ柚希を、結衣は両手を振って制した。
「もう……柚希、落ち着いてよ。
外科病棟だからあんまり関わることもないと思うし、別に何もないから。
それに……もう終わったこだよ。」
最後の言葉を言いながら、結衣は小さく目を伏せた。
“終わった”――そう自分に言い聞かせるように。
柚希は唇を尖らせてから、柔らかく笑った。
「……ま、でもさ。まさかこのタイミングで再会するなんてね。
運命ってほんと、意地悪だよねー…。」
その言葉に、結衣は胸の奥が少しだけちくりとした。
日勤終了後の病院の玄関――。
西日がガラス越しに差し込む廊下。
勤務を終えて帰ろうとした結衣は、玄関の自動ドアの前で誰かに名前を呼ばれた。
「――結衣。」
足が止まる。
その声を、耳が覚えていた。
振り向くと、そこには白衣を脱ぎ、スーツ姿の早瀬隼人が立っていた。
陽光が彼の横顔を柔らかく照らしている。
かつて恋をしていた頃と、何も変わらない笑み。
「……早瀬先生。」
できるだけ感情を抑えて、冷静に返す。
けれど声の奥が震えていた。
「ごめん。こんなところで。
どうしても、結衣と話したかったんだ。少しだけ時間、もらえないかな。」
真っ直ぐな目。
逃げ場をなくすような静かなまなざしに、結衣は息をのんだ。
心のどこかで――向き合わなければいけないと、わかっていた。
「……わかりました。」
早瀬先生と結衣は喫茶店に来ていた。
カップの中で氷が静かに音を立てる。
店内は少し薄暗く、窓から射す夕日が、テーブルに淡い橙色を落としていた。
重い沈黙を破ったのは、早瀬先生だった。
「結衣。……俺、あの日のこと、ずっと謝りたかったんだ。」
その声は、昔よりも落ち着いて聞こえた。
「俺、あのとき自分の行動に責任を持てていなかった。
仕事の忙しさとか、人間関係とか……色んな言い訳をして、結果的に結衣を傷つけてしまった。
若い看護師に揺らいだのも事実だ。
あんなの、本当の恋じゃなかった。
ただ逃げてたんだ。……本当に、ごめん。」
誠意のこもった声だった。
嘘もごまかしもない、真っ直ぐな謝罪。
結衣はしばらく黙っていた。
心の奥に、当時の痛みがふわりと浮かび上がる。
夜勤明けの病棟で、彼の背中を見送ったときのあの虚しさ。
“好き”という言葉が、まるで消耗品みたいに軽く聞こえたあの瞬間。
でも――今の彼の表情は違っていた。
少し皺が増え、目の奥に穏やかな影を宿していた。
「早瀬先生……。」
口を開こうとしても、言葉が続かない。
胸の奥で、絡まっていた糸がほどけていくような感覚。
それは悲しみでも憎しみでもなく、ただ静かな“終わり”の予感。
「けど…、あのときは本当に、結衣が好きだったよ。」
早瀬先生は苦笑いを浮かべながら言った。
「こんなこと言っても信じてもらえないと思うけど……
今もって聞かれたら、まあ…、実際そうなんだけどさ。
もう一度君に伝える権利は、僕にはもうないってわかってる。
だけど――」
「……ごめんなさい。」
結衣の言葉が、その告白をやわらかく遮った。
早瀬先生の目が、驚きに少しだけ見開かれる。
「今の早瀬先生の気持ちには、答えられません。
でも……私も。あの頃は、本当に早瀬先生が好きでしたよ。」
静かに、でも確かに。
その言葉を口にした瞬間、結衣の表情にふわりと微笑みが浮かんだ。
窓から差し込む夕日が、結衣の髪を淡く照らし、
その光の中で彼女の笑顔はどこまでも優しく見えた。
「……そっか。」
早瀬先生は少しうつむいて、微笑んだ。
「結衣、変わったね。
あ、いい意味で、だけど。」
「ありがとうございます。」
その短い会話の中で、確かにひとつの季節が終わった。
もう戻らない、でも確かにあった二人の時間。
蝶々結びのように結ばれていた想いは、
いま、静かにほどけて――ふわりと風に溶けていく。
店の外には、夜の気配が少しずつ広がっていた。
処置室から出た結衣がナースステーションに戻ると、待ってましたと言わんばかりに柚希が両腕をばっと広げた。
昼の忙しい時間帯だというのに、彼女のテンションだけは常にフルスロットルだ。
「何あれ!?あの外科の新しい先生、めっちゃイケメンじゃない!?茶髪ふわふわ、あれ反則でしょ!? ……ていうか、まさかとは思うけど、結衣、また知り合いとか言わないよね!?」
「え、えぇと……」
「ちょっと、まさかの“知り合い”!? 詳しく聞かせてもらうからねっ!」
柚希は勢いのまま、結衣の両肩を掴んだ。
その目は完全に獲物を狙うハンターのそれだ。
結衣は思わず苦笑しながら、柚希の肩を軽く押して間を取った。
「わかった、わかったから……お昼に話すから。ね?柚希、仕事中だよ?」
「……絶対だよ!逃げないでよ!?」
「逃げないから……。」
そう言いながらも、心の奥ではどくどくと鼓動が早まっていた。
処置室での動揺がまだ抜けきらない。
あの“早瀬先生”――かつての恋人が、この病院にいる。
それだけで胸の奥がざわついて仕方がなかった。
昼休みの休憩室――。
柚希は待ちきれない様子でお弁当の箸も動かさず、結衣の前に身を乗り出した。
「で!どういうこと!?まさかほんとに元カレとかじゃないよね!?」
結衣は小さくため息をつき、目を伏せた。
「……実はね。前にちょっと話したことあったでしょ?前の病院で一緒に働いてた人のこと。」
柚希の動きがぴたりと止まった。
「……まさか、その“元恋人”って、あの早瀬先生だったの!?」
こくり、と結衣はうなずいた。
「なにそれぇぇ!!ちょっと、待って!?月9!?月9どころじゃないんだけど!? “元恋人が同じ病院に赴任してくる”って、ドラマ超えてるんですけど!」
柚希はお箸を放り投げて両手で顔を覆った。
「しかも相手、あのルックス!あれで元カレとか……もう現実味なさすぎ!で?で?今の結衣は陽向先生と、でしょ?つまり――三角関係!?え、どうなるのそれ!?どっちにするの!?」
「ちょ、ちょっと待って!そんな話じゃないから!」
「いや、そういう話でしょ!?令和の東◯ラブストーリー開幕じゃん!」
キャーキャーとはしゃぐ柚希を、結衣は両手を振って制した。
「もう……柚希、落ち着いてよ。
外科病棟だからあんまり関わることもないと思うし、別に何もないから。
それに……もう終わったこだよ。」
最後の言葉を言いながら、結衣は小さく目を伏せた。
“終わった”――そう自分に言い聞かせるように。
柚希は唇を尖らせてから、柔らかく笑った。
「……ま、でもさ。まさかこのタイミングで再会するなんてね。
運命ってほんと、意地悪だよねー…。」
その言葉に、結衣は胸の奥が少しだけちくりとした。
日勤終了後の病院の玄関――。
西日がガラス越しに差し込む廊下。
勤務を終えて帰ろうとした結衣は、玄関の自動ドアの前で誰かに名前を呼ばれた。
「――結衣。」
足が止まる。
その声を、耳が覚えていた。
振り向くと、そこには白衣を脱ぎ、スーツ姿の早瀬隼人が立っていた。
陽光が彼の横顔を柔らかく照らしている。
かつて恋をしていた頃と、何も変わらない笑み。
「……早瀬先生。」
できるだけ感情を抑えて、冷静に返す。
けれど声の奥が震えていた。
「ごめん。こんなところで。
どうしても、結衣と話したかったんだ。少しだけ時間、もらえないかな。」
真っ直ぐな目。
逃げ場をなくすような静かなまなざしに、結衣は息をのんだ。
心のどこかで――向き合わなければいけないと、わかっていた。
「……わかりました。」
早瀬先生と結衣は喫茶店に来ていた。
カップの中で氷が静かに音を立てる。
店内は少し薄暗く、窓から射す夕日が、テーブルに淡い橙色を落としていた。
重い沈黙を破ったのは、早瀬先生だった。
「結衣。……俺、あの日のこと、ずっと謝りたかったんだ。」
その声は、昔よりも落ち着いて聞こえた。
「俺、あのとき自分の行動に責任を持てていなかった。
仕事の忙しさとか、人間関係とか……色んな言い訳をして、結果的に結衣を傷つけてしまった。
若い看護師に揺らいだのも事実だ。
あんなの、本当の恋じゃなかった。
ただ逃げてたんだ。……本当に、ごめん。」
誠意のこもった声だった。
嘘もごまかしもない、真っ直ぐな謝罪。
結衣はしばらく黙っていた。
心の奥に、当時の痛みがふわりと浮かび上がる。
夜勤明けの病棟で、彼の背中を見送ったときのあの虚しさ。
“好き”という言葉が、まるで消耗品みたいに軽く聞こえたあの瞬間。
でも――今の彼の表情は違っていた。
少し皺が増え、目の奥に穏やかな影を宿していた。
「早瀬先生……。」
口を開こうとしても、言葉が続かない。
胸の奥で、絡まっていた糸がほどけていくような感覚。
それは悲しみでも憎しみでもなく、ただ静かな“終わり”の予感。
「けど…、あのときは本当に、結衣が好きだったよ。」
早瀬先生は苦笑いを浮かべながら言った。
「こんなこと言っても信じてもらえないと思うけど……
今もって聞かれたら、まあ…、実際そうなんだけどさ。
もう一度君に伝える権利は、僕にはもうないってわかってる。
だけど――」
「……ごめんなさい。」
結衣の言葉が、その告白をやわらかく遮った。
早瀬先生の目が、驚きに少しだけ見開かれる。
「今の早瀬先生の気持ちには、答えられません。
でも……私も。あの頃は、本当に早瀬先生が好きでしたよ。」
静かに、でも確かに。
その言葉を口にした瞬間、結衣の表情にふわりと微笑みが浮かんだ。
窓から差し込む夕日が、結衣の髪を淡く照らし、
その光の中で彼女の笑顔はどこまでも優しく見えた。
「……そっか。」
早瀬先生は少しうつむいて、微笑んだ。
「結衣、変わったね。
あ、いい意味で、だけど。」
「ありがとうございます。」
その短い会話の中で、確かにひとつの季節が終わった。
もう戻らない、でも確かにあった二人の時間。
蝶々結びのように結ばれていた想いは、
いま、静かにほどけて――ふわりと風に溶けていく。
店の外には、夜の気配が少しずつ広がっていた。