蝶々結び 【長編ver.完結】

外の街路樹が風に揺れ、午後の陽射しがカーテン越しにテーブルの上をなでていた。
小さな喫茶店の中は、穏やかなジャズが流れている。
カップの中のココアからは、やさしい甘さが立ちのぼっていた。

結衣は、手元のマグを両手で包みながら、先ほどまでの会話の余韻を感じていた。
早瀬先生との“過去の清算”。
それは、悲しみでも怒りでもなく――どこか、懐かしさと安堵が混ざった穏やかな時間だった。

けれど、その穏やかさは――次の一言であっさりと破られた。

「そういえば、結衣。」
早瀬先生がふいにカップをテーブルに置き、軽い調子で言った。

「……あの内科医の陽向先生と、付き合ってるんだろ?」

「――っ!?」

結衣の口の中にあったココアが、危うく噴き出しそうになる。
慌てて口を押さえたが、結局「けほっ、けほっ!」とむせてしまった。

「ちょっ……!な、何をいきなり……!」

「ははっ、ごめんごめん!」
早瀬先生はおかしそうに笑いながら、ハンカチを差し出した。
「やっぱりそうなんだね。」

「な、なにが“やっぱり”なんですか!?」

「いや~反応が、まんま“図星”のやつでさ。」

「そ、そんなこと……!」

必死に否定しようとする結衣の頬は、耳の先まで真っ赤だった。
その様子を見て、早瀬先生は肩をすくめる。

「いやいや、もうバレてるから。」

「バレてるって……!っていうか、なんでそのこと知ってるんですか!?」

鋭い目で問い詰める結衣に、早瀬先生は「あー」と小さく声を漏らした。

「実はさ……更衣室で、たまたまね。」

「更衣室……?」

「うん。俺がちょうど着替えようとしてたら、陽向先生が入ってきて。
一応、新しく入ったから挨拶でもと思って声かけよくとしたんだけどさ。
そしたら――」

早瀬先生は一瞬、言葉を切った。
そして、コーヒーをひと口飲み、苦笑いを浮かべた。

「……まぁ、びっくりしたよ。あの人、最初から全開で突っ込んできてさ。」

「突っ込んできた?どういう意味ですか?」

「そのまんまの意味。俺、あんな圧のある“爽やかスマイルイケメン?”初めて見た。」

「え、えぇ……?」

「聞きたい?……いや、聞かない方がいいかもな。怖がると思うし。」

「……逆に気になります。」

「だよね。」
早瀬先生は、少し肩を竦めてから、低く静かに語り出した。




回想、更衣室での出来事――。

白衣をハンガーにかけていたその瞬間。
背後で“ガチャリ”とロッカーのドアが閉まる音がした。

「――“早瀬先生”、でしたっけ?」

声の主は、陽向碧。
柔らかな笑みを浮かべながらも、その瞳の奥は氷のように冷たかった。

「で?こんな所まで来て、一体何しに来たんです?」
笑いながら言うその声音に、圧があった。

「は……?」

「まさか今更、結衣のこと苦しめて楽しんでるわけじゃないですよね?」
陽向先生は一歩近づく。

ロッカーの影に早瀬先生の背中が追い詰められる。
“ドン”――と壁際に手がつかれた。
距離、わずか十数センチ。

「っ……お、おい……?」

「結衣は、今まであなたとの過去でたくさん傷ついたんですよ?」
陽向先生の声は、穏やかに見えて、芯があった。
「また前みたいに傷つけるおつもりですか?……そんなこと、僕が許さない。」

張り詰めた空気が、部屋を満たす。
早瀬先生の心臓が、どくんと跳ねた。

「……許さない、って。」

「えぇ。」
陽向先生の笑みは、変わらない。
けれど、その目は真剣だった。




「僕は、結衣の笑った顔が大好きなんですよ。
ふとした瞬間、花が咲くみたいに笑うんです。
僕の言葉ひとつで一喜一憂して、照れたり、恥ずかしがったりして――
その全部が、たまらなく愛しいんです。僕の方が結衣を、君よりずっと愛してる。」

「……。」

ごくり。早瀬先生の額に汗が滲む。

「彼女の涙も、心の綺麗さも、全部知ってる。
だから、あなたがまた彼女を傷つけるなら……僕は…」

静かな声が、ずしりと胸に響いた。
まるで宣告のように。

「早瀬先生の手が、結衣に触れることでさえも…僕は絶対に許さない。」


「――覚えておいてくださいね、早瀬先生?」

にこりと笑って、陽向先生は壁際から身を離した。
何事もなかったかのように白衣を整え、颯爽とドアの外へ出ていった。
その背中には、どこか優しさと凛とした強さがあった。




喫茶店にて。

「……っていう流れだった。」

早瀬先生は両手を広げて、ため息混じりに笑った。

「まぁ、喧嘩売ってきた挙げ句?
散々惚気られて?
最後には嫉妬全開だったんだけどさ。」

「……え?」

「いやぁ、びっくりだよ。あの人、病院じゃ爽やかスマイルのイケメン先生で通ってるんだろ?
実際は――けっこう、なんかとんでもない人だな。」

そう言って首をすくめる早瀬先生。
けれど、その目はどこか優しげでもあった。

「でも……あんなふうに“本気で誰かを守ろうとする男”を見るとさ、
ちょっと同情もするし、負けた気もするな。
……ってか結衣、大丈夫?顔、真っ赤だけど。」

「っ……!?」

結衣は思わず両手で頬を覆った。
まるで熱が出たみたいに、全身が熱い。

(陽向先生……嫉妬しないって言ってたのに……)

心の中で彼の言葉を反芻するたび、胸の鼓動が早くなる。
“僕の方が結衣を、君よりずっと愛してる”
――そんな言葉、初めて聞いた。

嬉しくて、恥ずかしくて、胸がきゅっと締めつけられる。

「……っ!」

結衣は立ち上がった。
イスの脚が床を鳴らす。

「早瀬先生、ごめんなさい。私……用事、思い出しました。
ちょっと、病院に戻ります!」

「え?お、おい、結衣!?まだココア――」

聞き終える前に、結衣はカバンを掴んで喫茶店を飛び出した。







夕暮れの街を駆ける。

外の空気は冷たく、頬に風があたる。
けれど、心の中は燃えるように熱かった。

「陽向先生……私、今すぐあなたに会いたい……!」

息が上がっても止まらない。
スニーカーの底がアスファルトを打つ音が、まるで鼓動みたいに響いた。
街の灯が滲む。涙がこみ上げて、走りながら笑ってしまう。

(私……こんなにも誰かを想って走ったこと、あったかな。)

かつての恋では感じなかった“確かな熱”が胸にある。
それはもう過去ではなく、今この瞬間に生きている恋だった。

「陽向先生……っ!」

夜の入り口で、心の中の声が風に乗って、まっすぐに溶けていく。



――走るほどに、恋は確信へ変わっていく。
彼に触れたい。
彼に会いたい。
それだけで、胸が満たされていく。
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