蝶々結び 【長編ver.完結】
結衣は、これでもかというくらいに走っていた。
 冬の気配をまとい始めた風が、頬を刺すように冷たい。
 けれど、そんな寒さなど感じない。
 胸の奥で鳴り響く鼓動が、すべての音をかき消していた。

(陽向先生……会いたい……!)

 足が止まらない。
 革靴の底が、アスファルトを強く叩くたび、心臓が跳ねる。
 今すぐ、あの人の顔が見たかった。
 あの優しい声を、確かめたかった。

 病院の自動ドアが開く。
 夜間診療の光が、やわらかく結衣を包んだ。
 外来ロビーには、ちらほらと患者が座っている。
 受付のカウンターには、夜勤のスタッフが笑顔で対応していた。

「(……よかった。まだ先生、いるはず……)」

 結衣は周囲を見渡しながら、心の中で息を整える。
 ――そんなとき。

「……あれ? 橘さん?」

 背後の階段のほうから、聞き慣れた声が降ってきた。
 振り向くと、白衣の裾を翻しながら陽向先生が階段を下りてくる。
 いつものように髪を軽く乱し、カルテを小脇に抱えた姿。
 その顔を見た瞬間、結衣の胸が締めつけられた。

「……っ陽向先生……!」

 目に涙が滲む。
 陽向先生は、少し驚いたように足を止め、穏やかに笑った。

「どうしたの?こんな時間に……もうすぐ外来が始まる時間だよ?」

「……陽向先生に、会いたくて……。」

 気づけば、言葉が漏れていた。
 次の瞬間、結衣はもう自分を止められなかった。
 カルテを持った陽向先生の胸に、勢いよく飛び込んでいた。

「わっ……!えっ、橘さん!?」
 陽向先生の体が一瞬ふらつく。
「ちょ、ちょっと!ここ、外来だよ!?人、いるんだけど……!」

 驚いた声。
 けれど、結衣の腕は離れなかった。
 胸に顔を埋めたまま、泣き出しそうな声で絞り出す。

「……早瀬先生から……全部、聞きました。」

 陽向先生の動きが止まる。
 その言葉の意味を理解した瞬間、陽向先生は少しだけ目を見開いた。
 ――そして、照れたように口元をゆるめた。

「……え、ってことは、“全部”って……更衣室のことも?」

 結衣は、涙の中でこくりと頷く。
 その姿を見て、陽向先生は頭をかきながら苦笑した。

「うわぁ……それは、ちょっと恥ずかしいなぁ。」

 その軽い言葉が、逆に結衣の胸を温かくした。
 思わず、唇がふるえる。

「……陽向先生……嫉妬しないって言ってたくせに。
 なんですか、あれ……私のこと……本当に大好きじゃないですか……っ!」

 勢いで言い切ると、顔が一気に熱くなる。
 すると――

 陽向先生は、静かに笑って、結衣の肩をぎゅっと引き寄せ、抱き締めた。
 それは、まるで胸の奥にある想いをすべて伝えるように強くて、あたたかかった。

「うん……。本当は、すごく妬いてるよ。」

「……え?」

「でもね、結衣の前では格好つけたいんだ。
 大人っぽく、余裕ある彼氏でいたいと思ってさ。
 でもさ、無理だった。
 あの時の俺の言葉……恥ずかしいけど、全部本当だよ。」

 陽向先生の声が低く、やさしく響く。
 結衣の胸がきゅうっと鳴る。

「僕は――結衣のこと、ずっと愛してる。」

 その言葉に、結衣の目から涙が零れた。
 顔を上げると、陽向先生の瞳がまっすぐ自分を見つめていた。
 その瞳の中には、やさしさと、誠実さと、少しの照れくささ。

「……陽向先生……。」

 静寂が、二人を包む。
 外来の空気が、一瞬止まったような気がした。

 ――そのとき。



 背後から、パチ、パチ、と音がした。
 誰かが拍手している。
 振り向くと、受付付近の患者たちが温かい目でこちらを見ていた。

「陽向先生、素敵だわぁ~!」
「こんな素敵な彼女がいたのね~!」

 中年の女性患者がうっとりと声をあげる。
 隣では、杖をついたおじいさんがにやりと笑った。

「いやぁ~陽向先生、角におけないねぇ!」

 周りの患者たちが、つられて拍手を送る。
 ロビー中に温かな笑い声が広がる。

「え、ちょ、ちょっと待って!?みんな見てたの!?」
 結衣は顔を真っ赤にして、陽向先生の胸から離れた。
 「ご、ごめんなさいっ!私、外来でこんなっ――!」

 しかし、陽向先生はまったく動じない。
 むしろ、いたずらっぽい笑みを浮かべた。

「あーあ。バレちゃったね?」
 その瞳は、やさしくて、どこか誇らしげだった。

「ま、いいんじゃない? もう隠す必要ないし。」

「よくないですっ! 恥ずかしいですからっ!」

「でも、結衣は、僕の"一番大切な彼女"だからね。」

 ふわりと笑うその表情に、また心を奪われそうになる。







 翌日。
 病院は、まるで小さなお祭りのようだった。

 朝からどこに行っても、誰かがひそひそと笑っている。
 ナースステーションでも、外来でも、廊下でも。
 ――「橘さんと陽向先生、昨日見た?」
 そんな話題で持ちきりだった。

「……はぁ……。完全に噂、広まっちゃったな……。」

 結衣は顔を覆って、ため息をついた。
 隣で一緒にカルテ整理をしていた後輩の佐々木桃が、キラキラした目で寄ってくる。

「橘先輩♡ おめでとうございますぅ~!
 外来でのあの抱きしめシーン、すっごく感動しちゃいましたぁ~!
 まるでドラマみたいで……もぉ~羨ましいです~♡」

「さ、佐々木さんっ……見てたの!? いや、見なくてよかったのに……!」

「だってぇ~、患者さんが『外来で恋愛ドラマが始まったぞ!』って言うから~♡」

「もう……やめてぇ……!」

 顔を真っ赤にしてうずくまる結衣に、桃はくすくす笑っていた。

 そこへ、昼休憩から戻ってきた柚希が現れる。
 腕を組んで、にやにやしながら近づいてくる。

「ねぇ結衣~。聞いたよ?外来での熱烈告白。
 あの陽向先生、めっちゃ決め台詞言ってたらしいじゃん?
 “僕は、結衣のことずっと愛してる”……だってぇ~!キャ~♡熱い熱いっ!!」

「ゆ、柚希っ!? や、やめてぇ!どこで聞いたのそれ!」

「もう、噂は院内全体回ってるよ?
 昨日の患者さんがSNSで『#陽向王子、尊い』って書いてたもん。」

「そ、そんなの投稿しないでよぉ……!」

 柚希は笑いながら、陽向先生のモノマネを始めた。
 手を胸に当て、わざと低い声で。

「“結衣は、僕の"一番大切な彼女"だから”……ってさ~。
 も~、ドラマ超えて映画つくれるよ!この恋愛マカデミー大賞もの!」

「ちょっとっ……!やめてよもう~!」

 結衣は顔を覆って、机に突っ伏した。
 そんな彼女を見て、柚希は少し目を細めた。

「……でも、ほんとよかったね。結衣。」

「え?」

「結衣が、ちゃんと幸せそうで。
 前のことも全部乗り越えて、今ちゃんと笑ってる。
 ずっと結衣が心配で…、私はどうしていいか分かんなかったから。
 ……ほんとによかった。」

 そう言って、柚希は少し涙ぐんで笑った。
 その笑顔が、どこかあたたかくて、懐かしくて。
 結衣も思わず笑い返した。

「うん……ありがとう、柚希!」

 静かな午後のナースステーション。
 カルテの紙がめくれる音と、遠くの患者の笑い声。
 その中に、穏やかな幸福が流れていた。
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