蝶々結び 【長編ver.完結】

第12章 ふたりの蝶々結び

 空がすっかり秋色に染まっていた。
 高く澄んだ空に、金木犀の香りがふわりと流れる。
 結衣は白衣の袖をたたみながら、ひとつ小さく息をついた。
"今日も一日おつかれさま。"
 誰もいないナースステーションで、自分にそう言い聞かせる。

 あれから――外来で抱きついた“あの日”の噂は、ようやく落ち着いてきた。
 それでも時々、患者さんにからかわれる。
「橘さん、彼氏陽向先生なんでしょ~?ドラマみたいねぇ?」
「ち、ちがっ……いえ、その……」
 声を上げると、同僚たちがくすっと笑う。

 でも、恥ずかしいのに――心の奥があたたかい。
 誰かに“好きな人がいる”って知られることが、こんなにも胸をくすぐるなんて。

 陽向先生もよくからかわれていた。
「陽向先生~、橘さんと結婚はいつですか?」
「ははっ、そんなに急かさないでくださいよ。」
 彼はいつもの穏やかな笑顔で答えていたけれど、
 その時だけ、ほんの少し照れて目をそらす――その仕草がたまらなく愛おしかった。

 そんな穏やかな秋の日。
 勤務が終わるころ、陽向先生が白衣の襟を整えながら結衣に言った。

「ねぇ、橘さん。今度の休み、空いてる?」
「え? あ、はい……。特に予定は……」
「よかった。結衣の誕生日、ちゃんとお祝いしたい。僕と出かけよう?」

「……えっ、誕生日……」
 すっかり忘れていた言葉に、心臓が跳ねた。

「え、でも……そんな、大げさにしなくても……。」
「大げさじゃないよ。僕にとっては特別な日だから。」
「え……どうして……?」
「だって、結衣がこの世界に生まれてきて、僕にとっても特別で大切な日だから。」

 ――その瞬間、時間が止まったようだった。
 心臓が、ゆっくり、でも確かに熱を帯びていく。

「……っ……そ、そんなこと、言って……」
「言うよ。だって本当のことだからね。」
 彼の声は低く、優しく笑った。
 まるで秋の夕方の光そのものだった。







 そして迎えた休日――。

 水族館のガラスの向こうで、イルカが跳ねた瞬間、
 結衣の髪がふわりと風で揺れた。
 隣に立つ陽向先生は、横顔を見つめながらふと微笑む。

「…結衣の横顔って、水の光が反射して綺麗だね。」
「え?な、なに言ってるんですか……!」
 慌てて視線を逸らすと、
 彼は楽しそうにくすくす笑い肩をすくめた。


 そんな風に、不意打ちのように甘い言葉をくれる。
 心臓がどうしていいかわからなくなって、
 ただ頬が熱くなる。

 イルカショーでは、
 陽向先生が子供みたいに拍手をして笑っていた。
「陽向先生、意外にテンション高いですね。」
「だって、イルカがすごく楽しそうでさ。……それに、結衣の可愛い笑顔も見れたし?」
「えっ!?い、今、なにさらっと言いました!?」
「聞こえなかったなら、もう一回言おうか?」
「け、けっこうですっ!」
 二人の笑い声が、青く光る水槽の中に溶けていった。






 夕方になり、モールを出ると少し肌寒かった。
 陽向先生は、自然に結衣の手を取った。
 その手はあたたかくて、指先がぴたりと重なる。
「寒い?」「……少しだけ。」
「じゃあ、こうしてればいい。」
 そのまま、手をつないだまま歩く。
 結衣の心臓は、秋風よりずっと速く鳴っていた。






 日が暮れかけたころ、二人は広い芝生のある公園にやってきた。
 銀杏の葉がひらひらと舞い落ちる。
 オレンジ色の夕日が二人の影を長く伸ばしていた。

 敷いたシートの上で、お弁当を広げる。
「お、手作り?」
「はい。たいしたものじゃないですけど……」
「いや、こういうのが一番嬉しいんだよ。」
 陽向先生は、一口食べて目を細めた。
「うん、優しい味。結衣らしい。」
「……陽向先生、そうやってすぐ褒めるんだから。」
「だって、好きな人の作ったものは全部おいしいでしょ。」
「っ、も、もう……!!」
 俯いた顔が真っ赤になる。
 でも、嬉しくて、心がじんわり温まっていく。

 食べ終えるころ、空が少しずつ紫に変わっていった。
 冷たい風が頬をなでる。
 陽向先生は、コートのポケットに手を入れながら、ふと笑った。

「結衣、ちょっと手、出して。」
「え?」

 結衣が言われるままに左手を出すと、
 陽向先生はポケットから、赤い細いリボンを取り出した。

「……リボン?」
「うん。誕生日プレゼント。」
「え……?でも、これ……?」

 陽向先生は何も言わずに、
 そのリボンを結衣の薬指にくるりと巻きつけ、
 指先でゆっくり蝶々結びを作った。

 その距離、息が触れそうなほど近い。
 結衣の心臓が、どくん、と鳴る。
 彼の指先の温度が、直接、皮膚に伝わる。

「……陽向、先生……?」
 見上げた瞬間、陽向先生の瞳が真剣で。
 それは、いつもの優しい笑顔とは違っていた。

「結衣。今まで、いろんなことがあったけど……僕は、ずっとこれから先も、変わらず結衣のことを想う。
 この赤いリボンの蝶々結び。
 僕たちなら、何度ほどけても、きっと結び直せる。

 お互いを支え合って、もう二度とほどけない結び目を作っていこう。


――結衣。僕と、結婚してほしい。」

  風が、ふわりと吹いた。
 赤いリボンが少しだけ揺れ、秋空に透けて光った。

 結衣の視界が、にじんでいく。
 涙が頬を伝って、ぽたりと膝の上に落ちた。
「……陽向先生、…私っ……。」
 言葉が喉の奥でつまる。
 でも、心の中ではもう、答えは決まっていた。

 何度も、何度も心の中で繰り返してきた。
 この人となら、どんな困難も超えていける――そう思えるから。

 結衣は涙をぬぐいながら、微笑んだ。
 秋の光が彼女の頬を照らす。
 その笑顔は、春の日の花のように柔らかかった。

「……はい、何度でも。」

 その瞬間、風がまた吹いた。
 木々の葉が舞い上がり、黄金色の光がふたりを包み込んだ。
 まるで世界が、ふたりのために息を潜めているようだった。

 陽向先生は、そっと結衣の手を握る。
 結衣も、その手を握り返した。
 二人の間に結ばれた赤いリボンが、光の中で小さく揺れた。

 ――どんなに時が経っても、ほどけることのない、愛の蝶々結び。
 その結び目は、静かに、そして確かに、二人の未来を繋いでいた。



 空はもう藍色に変わり、最初の星が瞬き始めた。
 街灯の明かりが二人の影を長く伸ばす。
 遠くで、風に乗って鈴虫の声が響く。
 季節がまた、ひとつ進もうとしていた。

 結衣は、リボンを見つめながら小さく呟いた。
「碧さん、私はあなたを、愛しています。」
 陽向先生は微笑んで、結衣に優しく口づけた。
「結衣、僕もずっと愛してる。」

 その声が、夜空に溶けていった。
 ふたりの手の中で、小さな赤い蝶々結びが、今も静かに揺れていた。



ふたりの“蝶々結び”は、ほどけることなく――きっとこれからも、永遠に結ばれていく。









Fin.
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