蝶々結び 【長編ver.完結】
第3章 蝉の声と夏の匂い
――夏が来た。
病院の窓の外では、蝉の声がひっきりなしに鳴き続けていた。
それは、じりじりと照りつける太陽と同じで、否応なく季節を感じさせる音だった。
アスファルトの上に立ち上る陽炎が、まるで遠い夢のように揺れている。
白衣の袖口に滲む汗。マスクの中で少し息苦しい空気。
それでも、日常は変わらず流れていく。
橘結衣は、その景色をナースステーションの窓からぼんやりと眺めていた。
「今日も暑いねー。冷房効いてるのか効いてないのか分かんないや。」
隣で汗をぬぐいながら笑うのは同期の神谷柚希だった。
頬に張りついた髪を手早くまとめ直し、ペンを指の間でくるくると回している。
「ほんとだね。」
結衣は淡々と返しながら、電子カルテに指を滑らせた。
体は慣れているのに、心はどこか落ち着かない。
スクリーンの文字を見つめながらも、頭の片隅では別のことを考えてしまう。
――陽向碧先生がこの病院に来て、もう三か月。
その間、いくつもの夜勤を共にして、患者対応でも一緒に動いた。
相変わらず誰にでも優しく、爽やかで笑顔を絶やさない陽向先生。
けれど、結衣にはまた違う一面を見せる。
時々、冗談のように優しく。時々、意地悪なくらい真っ直ぐに。
そんな彼に、少しずつ引き寄せられていく自分がいた。
「ねぇ結衣。陽向先生ってさー、ほんと誰にでも人気だよね。」
突然、柚希が声を潜めて耳打ちする。
結衣は視線を画面から離し、顔だけ向けた。
「人気…?」
「うん。患者さんの間でも“あの先生、爽やかでイケメンだよね~”って評判だし。
この前なんて、他科のナースが“あの人既婚?”って聞いてきたんだよ。」
「へぇ、そうなんだ……。」
淡々と答えたものの、心の奥が小さく揺れる。
そんなこと、知りたくなかった。
陽向先生は、誰にでも優しい。
それが彼の魅力であり、同時に少しだけ怖い部分でもあった。
――笑顔の下に隠れている“何か”。
それが何なのか、まだ言葉にできないまま、時間だけが過ぎていった。
夕方。
西日が病棟の廊下を金色に染めていた。
陽が沈みかける頃、更衣室には勤務を終えた医師たちの笑い声が響いている。
陽向碧はシャツのボタンを外しながら、耳の端にひっかかる言葉を聞いた。
「なあなあ、聞いたか?内科A棟の橘さん、マジで綺麗だよな。」
「わかるわー。なんか冷たそうだけど、そこがまた良いんだよな。」
「彼氏いないらしいぞ。あんな美人が独身とか信じられないよな。」
くだらない冗談混じりの会話。
陽向は黙って聴いていた。
笑って流せばいい。
ただの世間話。
でも――結衣の名前が出た瞬間、胸の奥が小さくざわついた。
「そう言えば陽向先生、橘さんと何度か話したことありますよね?」
一人の若い医師が声をかけてきた。
彼の表情は軽く、興味半分といったところだ。
「もしかして連絡先とか知ってたりします?よかったら――」
「――やめといたほうがいいよ。」
陽向は穏やかに笑った。
だが、その目は笑っていなかった。
若手医師たちは一瞬、息を呑んだ。
場の空気が、少しだけピリつく。
陽向はタオルで髪を拭きながら、静かに言葉を続けた。
「彼女は冷たいんじゃない。まっすぐなんだよ。
あなたたちみたいに軽い気持ちで近づく人たちがいるから、
そう見えるだけなんじゃないかな。」
その言葉に、空気が一瞬で冷えた。
若手医師たちは気まずそうに顔を見合わせ、
「……す、すみません。単なる冗談ですから。」と笑って更衣室を出ていった。
残された陽向は、鏡の中の自分と目が合った。
穏やかな顔の下で、何かが静かに揺れていた。
「……あれ、なんでこんなに腹立ってんだろ。」
呟いた声は、冷房の風にかき消された。
医局へ戻る途中、白衣の裾がふわりと揺れた。
角を曲がったその先で、結衣がカルテを抱えて立っていた。
少し汗ばんだ額をぬぐい、淡々とした声で言う。
「お疲れ様です。」
すれ違いざま、軽く会釈して通り過ぎようとする結衣を、陽向先生は咄嗟に呼び止めた。
「橘さん。」
結衣が振り向く。
その仕草が、なぜか胸を強く締めつけた。
「……はい?」
「いや、その……」
陽向先生は一度息を整え、真剣な表情で口を開いた。
「最近、他の先生とか、患者さんとかに何か言い寄られたりしてない?
もし困ってることがあったら、僕に言って。力になるから。」
「え?」
一瞬、結衣の目が丸くなった。
それから小さく瞬きをして、淡々とした声で返す。
「それは、陽向先生も含めて……ですか?」
陽向はガーン、と漫画のように固まった。
「……あ、いや、それは……えっと……」
しどろもどろになっている陽向先生の姿に、結衣は思わず吹き出してしまった。
「ふふっ。冗談ですよ。ありがとうございます。」
その笑顔。
わずかに口元をゆるめて、頬が柔らかく光る。
夏の午後の光が、白衣の袖越しに反射して眩しかった。
陽向先生は、その瞬間、息をするのを忘れた。
心臓の音が、自分でもわかるほど響いていた。
「(橘さんが、初めて笑った……。)」
目を見開いたまま、結衣が廊下の向こうへ歩き去るのを見つめていた。
去っていく背中を、いつまでも目で追ってしまう。
誰もいなくなった廊下で、陽向先生は額に手を当てた。
「うわぁ……なんだあれ……。可愛すぎる……。」
独り言のように呟いた声は、空調の音にかき消された。
その夜。
家に帰った結衣は、制服を脱いで、窓を開け放った。
カーテンが風に揺れ、蝉の声が遠くで続いている。
シャワーを浴びても、体の奥に残る熱は取れなかった。
ベッドに腰を下ろし、ぼんやりと空を見上げる。
レース越しの月明かりが、部屋を淡く照らしていた。
あの時の陽向先生の真剣な目。
そして――あの言葉。
“僕が力になるから。”
その響きが、胸の奥で何度も反芻される。
心のどこかで固く結んでいた糸が、ほんの少しだけ、緩んだ気がした。
――人を好きになるって、こういうことなのかな。
静かな夜に、そんな思いがふと浮かんで消える。
「……ばかみたい。」
呟いた声は、蝉の鳴き声と混じって夜の空気に溶けた。
けれど、唇の端がほんの少しだけ上がる。
風が頬を撫でる。
夏の生ぬるい風が、なぜか心地よかった。
翌朝。
夜が明けても、結衣の心はどこか浮ついていた。
鏡に映る自分の顔が、少しだけ柔らかく見える。
化粧をしても、髪を整えても、胸の奥の鼓動は止まらない。
――陽向先生に会うのが、少し楽しみになっている自分が少なからずあることに気付いた。
そんなことを思ってしまう自分に、また苦笑する。
窓の外では、朝の蝉がけたたましく鳴いていた。
新しい一日が始まる。
けれど、昨日までとは少し違う夏が、そこにあった。
病院の窓の外では、蝉の声がひっきりなしに鳴き続けていた。
それは、じりじりと照りつける太陽と同じで、否応なく季節を感じさせる音だった。
アスファルトの上に立ち上る陽炎が、まるで遠い夢のように揺れている。
白衣の袖口に滲む汗。マスクの中で少し息苦しい空気。
それでも、日常は変わらず流れていく。
橘結衣は、その景色をナースステーションの窓からぼんやりと眺めていた。
「今日も暑いねー。冷房効いてるのか効いてないのか分かんないや。」
隣で汗をぬぐいながら笑うのは同期の神谷柚希だった。
頬に張りついた髪を手早くまとめ直し、ペンを指の間でくるくると回している。
「ほんとだね。」
結衣は淡々と返しながら、電子カルテに指を滑らせた。
体は慣れているのに、心はどこか落ち着かない。
スクリーンの文字を見つめながらも、頭の片隅では別のことを考えてしまう。
――陽向碧先生がこの病院に来て、もう三か月。
その間、いくつもの夜勤を共にして、患者対応でも一緒に動いた。
相変わらず誰にでも優しく、爽やかで笑顔を絶やさない陽向先生。
けれど、結衣にはまた違う一面を見せる。
時々、冗談のように優しく。時々、意地悪なくらい真っ直ぐに。
そんな彼に、少しずつ引き寄せられていく自分がいた。
「ねぇ結衣。陽向先生ってさー、ほんと誰にでも人気だよね。」
突然、柚希が声を潜めて耳打ちする。
結衣は視線を画面から離し、顔だけ向けた。
「人気…?」
「うん。患者さんの間でも“あの先生、爽やかでイケメンだよね~”って評判だし。
この前なんて、他科のナースが“あの人既婚?”って聞いてきたんだよ。」
「へぇ、そうなんだ……。」
淡々と答えたものの、心の奥が小さく揺れる。
そんなこと、知りたくなかった。
陽向先生は、誰にでも優しい。
それが彼の魅力であり、同時に少しだけ怖い部分でもあった。
――笑顔の下に隠れている“何か”。
それが何なのか、まだ言葉にできないまま、時間だけが過ぎていった。
夕方。
西日が病棟の廊下を金色に染めていた。
陽が沈みかける頃、更衣室には勤務を終えた医師たちの笑い声が響いている。
陽向碧はシャツのボタンを外しながら、耳の端にひっかかる言葉を聞いた。
「なあなあ、聞いたか?内科A棟の橘さん、マジで綺麗だよな。」
「わかるわー。なんか冷たそうだけど、そこがまた良いんだよな。」
「彼氏いないらしいぞ。あんな美人が独身とか信じられないよな。」
くだらない冗談混じりの会話。
陽向は黙って聴いていた。
笑って流せばいい。
ただの世間話。
でも――結衣の名前が出た瞬間、胸の奥が小さくざわついた。
「そう言えば陽向先生、橘さんと何度か話したことありますよね?」
一人の若い医師が声をかけてきた。
彼の表情は軽く、興味半分といったところだ。
「もしかして連絡先とか知ってたりします?よかったら――」
「――やめといたほうがいいよ。」
陽向は穏やかに笑った。
だが、その目は笑っていなかった。
若手医師たちは一瞬、息を呑んだ。
場の空気が、少しだけピリつく。
陽向はタオルで髪を拭きながら、静かに言葉を続けた。
「彼女は冷たいんじゃない。まっすぐなんだよ。
あなたたちみたいに軽い気持ちで近づく人たちがいるから、
そう見えるだけなんじゃないかな。」
その言葉に、空気が一瞬で冷えた。
若手医師たちは気まずそうに顔を見合わせ、
「……す、すみません。単なる冗談ですから。」と笑って更衣室を出ていった。
残された陽向は、鏡の中の自分と目が合った。
穏やかな顔の下で、何かが静かに揺れていた。
「……あれ、なんでこんなに腹立ってんだろ。」
呟いた声は、冷房の風にかき消された。
医局へ戻る途中、白衣の裾がふわりと揺れた。
角を曲がったその先で、結衣がカルテを抱えて立っていた。
少し汗ばんだ額をぬぐい、淡々とした声で言う。
「お疲れ様です。」
すれ違いざま、軽く会釈して通り過ぎようとする結衣を、陽向先生は咄嗟に呼び止めた。
「橘さん。」
結衣が振り向く。
その仕草が、なぜか胸を強く締めつけた。
「……はい?」
「いや、その……」
陽向先生は一度息を整え、真剣な表情で口を開いた。
「最近、他の先生とか、患者さんとかに何か言い寄られたりしてない?
もし困ってることがあったら、僕に言って。力になるから。」
「え?」
一瞬、結衣の目が丸くなった。
それから小さく瞬きをして、淡々とした声で返す。
「それは、陽向先生も含めて……ですか?」
陽向はガーン、と漫画のように固まった。
「……あ、いや、それは……えっと……」
しどろもどろになっている陽向先生の姿に、結衣は思わず吹き出してしまった。
「ふふっ。冗談ですよ。ありがとうございます。」
その笑顔。
わずかに口元をゆるめて、頬が柔らかく光る。
夏の午後の光が、白衣の袖越しに反射して眩しかった。
陽向先生は、その瞬間、息をするのを忘れた。
心臓の音が、自分でもわかるほど響いていた。
「(橘さんが、初めて笑った……。)」
目を見開いたまま、結衣が廊下の向こうへ歩き去るのを見つめていた。
去っていく背中を、いつまでも目で追ってしまう。
誰もいなくなった廊下で、陽向先生は額に手を当てた。
「うわぁ……なんだあれ……。可愛すぎる……。」
独り言のように呟いた声は、空調の音にかき消された。
その夜。
家に帰った結衣は、制服を脱いで、窓を開け放った。
カーテンが風に揺れ、蝉の声が遠くで続いている。
シャワーを浴びても、体の奥に残る熱は取れなかった。
ベッドに腰を下ろし、ぼんやりと空を見上げる。
レース越しの月明かりが、部屋を淡く照らしていた。
あの時の陽向先生の真剣な目。
そして――あの言葉。
“僕が力になるから。”
その響きが、胸の奥で何度も反芻される。
心のどこかで固く結んでいた糸が、ほんの少しだけ、緩んだ気がした。
――人を好きになるって、こういうことなのかな。
静かな夜に、そんな思いがふと浮かんで消える。
「……ばかみたい。」
呟いた声は、蝉の鳴き声と混じって夜の空気に溶けた。
けれど、唇の端がほんの少しだけ上がる。
風が頬を撫でる。
夏の生ぬるい風が、なぜか心地よかった。
翌朝。
夜が明けても、結衣の心はどこか浮ついていた。
鏡に映る自分の顔が、少しだけ柔らかく見える。
化粧をしても、髪を整えても、胸の奥の鼓動は止まらない。
――陽向先生に会うのが、少し楽しみになっている自分が少なからずあることに気付いた。
そんなことを思ってしまう自分に、また苦笑する。
窓の外では、朝の蝉がけたたましく鳴いていた。
新しい一日が始まる。
けれど、昨日までとは少し違う夏が、そこにあった。