メリーでハッピーなトゥルーエンドを

 あえて声を落とすと、おずおずと近づいてくる。
 自然と間合いを詰めてくれたのに合わせて、後ろ手の包丁を慎重に構え直した。

「……っ!」

 悲鳴も間に合わない、声ですらない息をこぼした春野さんが動きを止める。

 俺も身じろぎできなかった。
 ()を握るてのひらから伝わってくる感触に、さっきまでの抵抗感や罪悪感や恐怖が、むしろ()いでいくのを感じながら。

 やってしまった。
 唯一残ったのは、そんな感覚だけ。

 人の身体に刃が沈む奇妙な手応えに顔をしかめた。
 暗くてよく見えないのに、なんて生々しい。

「な、ん……で」

 実際には分からないほど微々たるもののはずなのに、掠れた声の振動が包丁を通して伝わってくる気がした。

 手が痺れる。
 それに耐えられなくなり、刃を引き抜いた。

「うぅ……!」

 小さく(うめ)いた彼女が腹部のあたりを押さえて身を折る。
 きっと耐えがたい激痛だろう。

 包丁が身体から抜ける瞬間、血や臓物(ぞうもつ)が絡みついてくる幻覚を見た。
 刺したときより手応えは軽いのに遥かにおぞましい。

「う……っ」

 たたらを踏んだ春野さんが、ふらふらと足を踏み出す。

 生まれたての小鹿よりおぼつかない足取りで、傷を押さえたまま駆けていった。
 その姿はすぐに闇に溶けて見えなくなる。

 ほうけてしまった俺は、何だか酸素の薄さを覚えて息を吐き出した。
 息切れしてようやく、呼吸が止まっていたことに気がつく。

 手元を見下ろすと、視界に飛び込んでくる血まみれの包丁。
 赤く染まった刃はそれでも外灯の光を鈍く弾いていた。

「……なんて向こう見ずな直球勝負」

 前触れもなく聞こえてきたそんな声に驚いて息をのんだ。
 隣にはいつの間にか天使が佇んでいる。

 当然と言えば当然かもしれないけれど、この手で春野さんを殺すという俺の選択自体を(とが)められることはなかった。

 それでも、天使という言わば崇高(すうこう)な存在が、それをむしろ率先して受容しているのは何となく変な感じがする。

「あ……まずい。追いかけないと」

 春野さんを一撃では殺し損ねたのに、いまのいままで追ってとどめを刺すことを失念していた。

 あれだけ動きが鈍っていたら、いまから歩いて追っても十分間に合う。

 一歩踏み出しかけたものの、天使に腕を掴まれたことで留まった。

「いいよ、もう。十分」

「え? でも……」

「あの出血量なら長くはもたない。逃げたって、家にたどり着く頃にはきっと力尽きる」

 暗くてよく見えなかったけれど、偶然にも急所を捉えられていたんだろうか。
 もしかしたら、あたりには血の跡が残っているかもしれない。
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