真っ黒な先輩の溺愛なんて想定外です〜完璧な先輩に私の隠しごとがバレました〜

「なにも、そこまで叫ばなくても」

 そう言った筧先輩は、苦笑まじりに私を見つめていた。
 その表情があまりにいつも通りで、余計に恥ずかしさが込み上げてくる。身体中が熱くなって、顔から火が出そうだ。
 
「その、私……なにか失態を……」
「なにもないし、なにもしてない。服、見てみろ」
「……あ」

 慌てて自分の服を見下ろす。着ていたブラウスもスカートも、昨日のまま。乱れた様子もない。
 ただ、ジャケットはきれいにハンガーに掛けられていて、袖口まで整えられている。

 ──ほんとに、なにもなさそう……。

 そうとわかっても、どきどきとうるさい心臓の鼓動は収まりそうにない。

「とりあえず、コーヒー飲むか?」
「あ……はい」
七瀬(ななせ)は、砂糖入れる派だよな」
「はい……」

 返事をしながら、私は数回まばたきをした。私の好みまで覚えていたことに驚く。
 けれど、思い返せば先輩はいつもそうだ。誰よりも周りに気を配って、困っている人を自然に助けてくれる。上司からの信頼も厚くて、後輩からも慕われている人。
 とても二十八歳とは思えない人間性に加えて、かっこよくて、仕事ができて──先輩に好意を寄せている女性も少なくないらしい。

 そんな彼が、社内では静かであまり目立たない私のことまで覚えてくれているとは思ってもいなかった。

「ほら。これ飲んで、まずは落ち着け」
「ありがとうございます、いただきます……」

 差し出されたマグカップの温かさと、ふわりと立ち昇るコーヒーの香りに、少しだけ気持ちが落ち着いた気がした。

「昨日のこと、どこまで覚えてる?」
「あっ、えと……」

 私は昨晩の光景を少しずつ頭の中に浮かべはじめた。
 
 金曜日の夜。会社の飲み会。
 にぎやかな笑い声とグラスのぶつかる音。
 私はお酒が苦手で、いつも通りウーロン茶を片手に隅の席で静かにしていた。
 はずだったのに。
 
「七瀬さん、今日くらい飲もうよ〜。俺、七瀬さんと飲んでみたいな〜」

 顔を赤くした同期の渡辺さんがビールを掲げながら隣にやってきた。
 
「あ、私は……ほんとに弱くて」
「一杯くらいなら大丈夫っしょ。ノリ悪いって」
「あたしも弱いほうだけど、全然だいじょぶだよ〜」

 気づけば出来上がった人たちがわらわらと私の周りに集まっている。そして、目の前にグラスが置かれた。

「これ、水みたいだから飲みやすいよ」
 
 ──あの時、断ればよかったんだ。
 
 みんなの笑顔の圧に押されて断りきれず、私はグラスに手を伸ばしてしまった。
 
「……じゃあ、これだけ」

 唇をつけた瞬間、つんとしたアルコールの刺激が鼻を抜けた。喉を通るたびに熱が走り、身体がじわりと熱くなる。
 お酒なんて四年ぶり、成人式のとき以来だ。それでも少しだけなら大丈夫だろうと思ってたのに、想像よりも効いたみたいで──。

「高木さんはピンク、後藤さんは紫、石田さんは緑だよ〜」

 気づけば私はテーブルの向こうを指さして、あははと笑っていた。いつもは絶対に口にしないことを、つい口にしてしまっている。

「なにそれ、下着の色? 七瀬さんって意外とえっち?」
「ううん、違うよお。オーラの色〜」
「オーラって、ウケる」
「七瀬さん、そういうのは中二で卒業しなきゃダメだよ」

 笑い混じりのからかいが飛ぶ。それでも私は気にせずに、ふにゃりと笑っていた。お酒のせいで、境界線がどこか遠くなっていたせいだ。
 
「ほんとだよお、わたし、ほんとに……」

 ぐにゃりとした口調で言った瞬間、身体がぐわんと揺れた。視界がゆらゆらと傾いて、テーブルが遠のく。

 ──ああ、倒れる……。

 そう覚悟した身体を、誰かが支えてくれた。すっと背中に回された手。背後から感じる体温に顔を上げる。
 私を支えてくれたのは──筧先輩だった。

「七瀬、顔真っ赤だぞ。少し風に当たれ」

 先輩が私のグラスを取り上げる。その手の動きはあまりにも自然で、優しくて。触れた指先が妙に熱くなった。

「お前ら、やり過ぎだぞ」

 先輩が同僚たちに向かって軽く眉をひそめると、「すみませ〜ん」と笑いながら頭を下げる声が返ってきた。
 その間も、私はなぜか先輩の胸元から視線をそらせずにいた。

「ほら、七瀬。一緒に外行ってやるから、荷物持て」
「は〜い……」

 力の入らない声で返しながら、先輩に腕を支えられて立ち上がる。
 骨ばっているのに、安心できる指先。頼もしくて、優しくて──男の人の身体って、こんなにあたたかいんだ。
 なんて、普段なら考えもしないようなことをぼんやりと思いながら、先輩の腕に身を預けるようにして外へ出た。
 
 居酒屋のドアを開けると、夜風がさらりと頬を撫でた。
 十月の風は思ったより冷たかったけれど、火照った身体の熱は引きそうにない。

「七瀬、あの公園まで歩けるか?」
「はあい、だいじょぶです」

 先輩に手を引かれるまま、近くの小さな公園にたどり着く。
 街灯の下、ベンチがひとつ。風に揺れる木の葉が、さらさらと音を立ている。
 
「ここ座っとけ。水、買ってくるから」

 そう言って立ち上がろうとした先輩の腕を、私は思わず掴んでいた。
 
「せんぱい、真っ黒ですよお」
「……は?」
「こんなに真っ黒な人、そういませんよお。いま楽にしますからねえ」
「七瀬?」

 先輩の困惑した声も気にせず、私は彼の額に自分の額をそっとくっつけた。

「おい、七瀬……」
「だいじょうぶ、だいじょぶ」

 くっついた額から先輩の体温が伝わってくる。私は目を閉じて、先輩と息を合わせた。
 
「せんぱいのモヤモヤ、ぜんぶ飛ばしてあげます」

 母親が子どもにまじないを言うような口調だったかもしれない。
 目の奥に浮かんだのは、黒いもやのような影。頭の中でそれをすくいあげる。ふうっと息を吹きかけると、夜風に溶けるみたいに、さらさらと散っていった。

「はあい、おわりましたあ」

 満足げに笑って額を離したけれど、先輩はただ呆然と私の顔を見つめていた。
 
「せんぱいはせんぱいだから、大変ですよねえ。でも、ひとりで抱え込んじゃダメですよお……」

 そんなことを言った記憶が、かすかに残っている。あとはもう、電池が切れたみたいに眠ってしまったようだ。それから先輩がタクシーでここまで送ってくれたらしい。

 記憶の断片が鮮明に戻ってきた瞬間、私は顔から血の気が引いた。

 ──これは……失態以上の失態を犯してる……。

「せっ、先輩、ごめんなさい。ご迷惑をおかけしました」

 私は慌てて正座して、必死に頭を下げた。

「別にいいって」

 先輩はまた少し苦笑いをしながら答えたけれど、その目はどこか探るようだった。

「それより七瀬……お前、ほんとにオーラとか見えるの?」
「……え、あ、いえ、まさか、そんな」

 思わず視線を逸らした。こんな話、シラフでなんてできるはずがない。すると先輩は考え込むようにマグカップを軽く揺らしながら、まじまじと私の顔を見つめた。

「俺さ、今日すごくよく寝れたんだ。しかもソファで寝たのに、だ。お前、俺に何かしてくれたんだよな?」
「……」

 先輩はソファで寝ていたらしい。きっと、私にベッドを貸してくれたせいだろう。
 気を使わせてしまったと、ますます申し訳なくなり、何も言えずにいると。
 
「七瀬?」

 黙りこくった私の顔を先輩が覗き込んだ。
 
 ──ち、近いっ……!

 視線を逸らせないほどの、まっすぐな瞳が私を見ている。
 無防備に覗き込まれた距離。先輩の香りがかすかに鼻先をかすめ、心臓が跳ねた。

「あの、誰にも言わないでくださいね……」

 先輩との距離感に耐え切れなくなった私は、おずおずと口を開いてしまっていたのだった。
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