真っ黒な先輩の溺愛なんて想定外です〜完璧な先輩に私の隠しごとがバレました〜
物心がついた頃から、私は人のオーラが見えていた。
最初はそれがなんなのかもわからなかったし、みんなにも見えているものだと思っていた。
だから、小学六年生のとき。
私は当たり前のように口にしてしまった。
「ねえ、今日の○○ちゃん、黒くにごってるよ? 背中に影がついてるみたい」
──あのときの、友だちの顔。
怖いものでも見るみたいに私を見て、逃げていった。
実際、その子は次の日に高熱を出して倒れて学校をしばらく休んだ。その出来事をきっかけに、『七瀬絢は気色悪いことを言う子』として噂が広まった。
それ以来、私は“普通のふり”を覚えた。
気味悪がられるのが怖い、人と深く関わらないようにしよう。そう思いながら中学、高校と成長していくうちに、私はなるべく目立たず、静かに過ごすようになった。
オーラも、見ようとしなければ見えないようになった。閉じてしまえば、楽だったから。心も、人付き合いも。
──それなのに、昨晩。
水みたいと渡されたのは、たぶん日本酒だったと思う。あっという間に酔いが回って、押さえ込んでいたものが堰を切ったようにあふれだす。
そこに筧先輩が現れた。
先輩のオーラは真っ黒で、底なし沼みたいに重たかった。その闇の奥に、痛みみたいなものが滲んで見えて。普段は誰にでも優しくて、仕事も完璧にこなす人だからこそ──誰にも言えないつらさがあるのかもしれない。
気づいたら、私は先輩のもやをすくい取っていた。
“浄化“、というのが一番わかりやすい表現なんだろうか。
もやを祓える力に気づいたのは、高校一年生のとき。五つ年下の弟が、突然高熱を出して倒れた夜だった。
うなされる弟の額に触れた瞬間、目の奥に黒いもやが浮かんで──考えるより先に、私は頭の中でそのもやをすくい取っていた。すると、すぐに弟の呼吸が落ち着いて、翌朝には熱も下がり、黒いもやもすっかり消えていた。
あとで聞いた話では、友人関係やテストのことで悩んでいたらしい。今なら「そんなことで」と笑えるけれど、幼い弟にとっては、それが世界のすべてだったのかもしれない。
それから何度か、弟に気づかれないように小さなもやを祓って過ごしてきた。
でも、気づけば弟も思春期を迎え、私も大学生になり家を出ることになって。力を使うこともなくなり、しばらくずっと私の中で眠っていた。
だから、人に浄化の力を使ったのは数年ぶりだったのだけれど。
──よりによって、筧先輩に使っちゃうなんて……。
「ごめんなさい、こんな話して……引きますよね」
「いや、聞いたのは俺だし」
先輩は微笑んで、ふうと息をついた。マグカップの縁を指でなぞりながら、少しだけ目を伏せる。
「誰にも言えないことって、あるもんな」
何気ない言葉に聞こえたのに、その声音にかすかな影を感じた。軽く笑った唇とは裏腹に、瞳の奥は少しだけ遠くを見ている気がする。
もしかしたら先輩は、私を家に泊めたことを誰にも知られたくないのかもしれない。知られたら先輩が対応に困るだろうし、私と変な噂が立ってしまったら先輩に迷惑をかけてしまう。
「あの、先輩に泊めてもらったこと、誰にも言いませんので……」
私はまた頭を下げて、肩をきゅっと縮こまらせた。
「俺は別にかまわないけど」
「え……?」
小声で呟くように言った先輩の言葉が耳に落ちる。驚きのあまりか、裏返った声を出しながら顔を上げていた。
──聞き間違い……?
私が言葉を探している間に先輩は軽く息をついて、にこりと微笑んでこちらを見た。
「それより、七瀬に礼をさせてほしい」
「そんな……! お礼だなんて、私がしなきゃなのに……」
「俺が熟睡できたのも、お前が“真っ黒なオーラ“ってやつを祓ってくれたからだ。礼くらいさせてくれ」
まっすぐな瞳に見つめられて、心臓がどきんと跳ねる。しどろもどろになりながら「でも……」と言ったものの、その声はすごく小さかったかもしれない。
「明日、帝国のアフタヌーンティーとかどうだ? 七瀬、甘いの好きだろ」
「そんな高いところ……!」
「でも、行ってみたいだろ?」
確信を突いたようないたずらな笑顔に、ぎゅっと胸が高鳴った。
正直言えば、行ってみたい。でもお礼にしては高すぎるし、ただでさえ緊張してる今、先輩とプライベートで会うなんて食べ物が喉を通らなそう。だけど──どうして先輩は、私が甘いの好きだって知っているんだろう。
手をもじもじさせながら答えを迷っている間に、先輩はスマホをすらすらと操作して、くるりと画面をこちらに向けた。
「もう予約したから」
画面には予約完了の文字。何度まばたきしても、その文字が綺麗に浮かんでいる。
「ほんとに、予約しちゃったんですか?」
「しちゃったよ」
くだけた口調で、にこりと笑う先輩。
──わっ……なんか、普段とのギャップが……。
会社では見たことのない、柔らかい表情。こんな幼い笑顔をする先輩を見たのは初めてだった。胸の鼓動がどきどきと早まっていく。
「あの、お手洗い……貸してください」
居ても立っても居られなくなって、逃げるようにトイレに駆け込んだ。
ドアを閉めた瞬間、張りつめていた息が一気にこぼれる。何度も深呼吸を繰り返して、ようやく心が少し落ち着いてきた。
だけど、洗面台でふと鏡の中の自分を見てぎょっとしてしまう。
よれよれのメイクに、ボサボサの髪。おまけに顔は少し浮腫んでいる。
──私、こんな顔を先輩に見せてたの……!?
気まずさと恥ずかしさで顔を覆いながら、意を決してリビングに戻った。
「先輩……勝手で申し訳ないんですけど、もうそろそろ帰ろうかな、と」
「朝飯、食べてかないのか?」
「あ、はい。そこまで甘えるわけにはいきませんし、いまの私、ぼろぼろで見苦しいというか、先輩の目の毒かなって……」
そう言いながら髪を耳にかけてうつむく。
返ってきたのは、思いがけないほど純粋な笑い声だった。
「なんだそれ」
からかうような響きなのに、不思議と優しい。ちらりと視線を上げると、先輩は口元に手を添えながら微笑んでいた。
「七瀬がそう言うなら、今日は解散するか」
「は、はいっ。すみません、よくしてもらったのにわがまま言って」
「だから、謝らなくていいって」
先輩は微笑んだまま、少し顔を傾げた。さらりとラフに垂れた髪が朝の光を受けてきらめいている。
「明日、よろしくな」
その一言が、まるでデートの約束みたいに聞こえてしまう。そんなものじゃないってわかっているのに、胸の鼓動は早くなる。
「はっ、はい! こちらこそ、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を何度も下げると、先輩はまたくつくつと笑った。
駅まで送るという申し出をなんとか振り切って外に出る。これ以上一緒にいたら、心臓の音が先輩までもれてしまいそうだ。
──また明日、か……。
十月のお昼前。涼しさを帯びた風が頬を撫でながら心地よく流れていく。
──楽しみだな。
どきどきした鼓動の中に、ほんの少しだけときめきが混じっているような感覚がした。