真っ黒な先輩の溺愛なんて想定外です〜完璧な先輩に私の隠しごとがバレました〜

 そして、次の日。

 ──うぅ、緊張する……。

 予約時間は午後三時からだったけれど、私はその三十分前には帝国ホテルのロビーにいた。
 事前に服装も調べて、できる限りスマートカジュアルにしたし、髪も巻いて、メイクもいつとより念入りにして──少し気合いが入りすぎている、かもしれない。
 だって、あの筧先輩と二人きりなんて。そんなの、女性社員みんなが気合いを入れるはず。それに、昨日のボロボロの姿をどうにか払拭したかった。

 スマホを握って何度も時間を確認する。一分一秒が、やけに遅い。ロビーに着いてからというもの、私はトークアプリの画面とにらめっこしていた。
 
 昨日、先輩の家を出る前。
 
「そういえば、まだ交換してなかったな」
 
 当たり前のように言った先輩がスマホをこちらに差し出す。その画面には、友だち追加のQRコード。

「え!? そんな、私なんかが先輩と……」
「交換しとかないと、あとでいろいろ困るかもしれないだろ。それとも……七瀬は俺と友だちになるの、嫌か?」

 なんて、甘えるような声色で言われてしまったからには、断るなんて到底できなかった。
 登録が完了して、表示された先輩のアイコンは──透き通った海の写真。

「これ、先輩が撮ったんですか?」
「そう。前に旅行で行ったとこ」
「すごい綺麗……。先輩、海すきなんですね」
「まあな」
 
 そう言って少し照れたように笑う。その笑顔が、写真よりもずっと綺麗で眩しいくらいに見えた。
 
 ──今日、先輩のこと……また知れるかな。

 画面を眺めていると、スマホに通知が届く。振動に合わせて、私の肩もびくりと跳ね上がった。

《あと十分くらいで着く》

 短い文章から感じる先輩の気配に、とくんと心臓が動く。ひとつ深呼吸をして、打ち間違えないようにゆっくりと画面をタップする。

《かしこまりました。先に着いちゃいまして、ロビーでお待ちしてます》
《早っ。悪い、待たせて》
《とんでもない! まだ時間前ですし、全然急がなくて大丈夫です》
《待ってて》
《はい。本当に、ゆっくりで大丈夫です》

 ──“待ってて“、かあ。

 スマホを抱きしめるように口元に運ぶと、自然と笑みがこぼれた。ほんの些細なやり取り。それだけなのに、こんなにも心が弾むなんて思ってもみなかった。

 ──もうすぐ先輩が来る……。

 胸の奥が熱くなるのを感じながら、私は背筋を伸ばした。

「七瀬、お待たせ」

 横からかけられた声に目を上げる。先輩は軽く笑みを浮かべ、いつもより柔らかい雰囲気で立っていた。

 ──かっ、かっこいい……!
 
 濃紺のジャケットに白いニット──いつものスーツ姿よりもずっと親しみやすがあるけれど、やっぱり大人っぽい。そんな先輩に見とれて、言葉が少し遅れてしまった。

「あ、いえ。私も今来たところですし」
「今じゃないだろ」
「このくらい、全然待ったうちに入りませんので」
「七瀬、謙虚すぎ」

 そう言って軽く笑う声に、昨日までの緊張が少しずつほどけていく気がした。

「待たせてごめんな」
「とんでもない、です」
「じゃ、行くか」
「はいっ……!」

 隣を歩くだけで心臓の鼓動が一段と強くなる。どうしようもなく恥ずかしくて、嬉しかった。

 *

「ぜんぶ美味しかったです! 私、こんなに豪華なパンやケーキ食べたの初めてです!」

 ケーキスタンドを空にした瞬間、思わず弾んだ声を出してしまった。ゆったりと時間が流れる空気の中、自分の声が少しだけ浮いた気がして慌てて姿勢を正す。
 緊張で喉を通らないかと思ったけれど、そんなことはまったくなくて。
 テーブルに置かれた高級感あるケーキスタンドには、香ばしい香りのするパンやスコーンに、色とりどりのスイーツが芸術みたいに盛りつけられていた。あまりの豪華さに、何十枚と写真を撮ってしまったくらいだ。
 ひと口食べるたびに笑顔がこぼれて、あっという間に完食してしまった。
 
「七瀬は甘いもの好きだもんな。ここにして正解だった」
「あの、昨日のコーヒーの件といい、どうして私が甘党って知ってるんですか……?」

 そんなこと誰かに話した覚えもない。おずおずと訊ねると、先輩はいたずらに目を細めて笑った。
 
「いつも休憩中にチョコレートとかお菓子つまんでるの見てるから」
「そう、なんですか……」

 顔が一気に熱くなった。そんなところを見られていたという恥ずかしさと、私なんかを見てくれていたという嬉しさが同時に押し寄せる。
 先輩はきっと、誰よりも周りをよく見ている人なんだろう。だから、私が特別なわけじゃない。それでも──胸が高鳴るのを止められなかった。

「昨日は、ありがとうな」
「そんなっ。私のほうこそ、ご迷惑かけた上に、こんなに立派なものまでご馳走していただき……ありがとうございます」
 
 何度頭を下げても、謝罪も感謝も足りない気がする。髪をはらはらさせながらお辞儀を続ける私を見た先輩は、くすりと口元を緩めた。

「そういうとこ、七瀬らしいな」

 ──私、らしい?
 
 どういうところが“私らしい“のだろう。聞きたいけど聞けなくて、胸がわずかに(うず)く。
 先輩の目には、私はどう映っているのだろうか。
 
 じっと先輩を見つめていると、コーヒーをひと口飲んだ先輩がふいに口を開いた。さっきまでの微笑みは消え、真剣で、どこか弱ささえ見える目元になっている。

「俺さ、不眠症だったんだ」
「……はい」

 それはなんとなく、昨日の会話と先輩の真っ黒だったオーラから察せられた。
 
「まだ新入社員だった頃、運良く仕事がうまくいって『期待の新人』なんて言われてたんだ。それからずっと、ミスをしないように、失望させないように、常にいい上司やいい部下を演じ続けて……抱えきれないほどのプレッシャーとストレスで、もう限界ギリギリだった」

 なんて返せばいいのか、瞬時に言葉は出てこなかったけれど。
 
“──誰にも言えないことって、あるもんな”
 
 昨日の先輩の言葉が脳裏をよぎる。わずかに影を帯びた口調。
 先輩が誰にも言えないこと──きっと、仕事で抱えている悩みなんだろう。誰にでも完璧な先輩だから誰にも弱さを見せられなくて、ずっと一人で抱え込んで過ごしてきたのかもしれない。そう思うと、胸がぎゅっと締めつけられた。

「あの、私でよければっ……先輩の力になりたいです……! 見返りはいらなくて、単純に、お世話になっている恩返しだと思ってくださいっ」

 勢いに任せて、ぱっと先輩の手を握る。
 
「今日の先輩のオーラ、とてもあたたかい色してます。だから、今夜もよく寝られると思います。私が保証します。寝られなかったら連絡ください、駆けつけますからっ」

 たぶん、すごい早口で言っていたと思う。握っている手もかすかに震えてたし、顔も高熱が出てるくらい熱かったし、息継ぎもしてなかったから。それに、厚かましいことを言ってるかもって自覚もあった。だけど。

 ──私なんかが先輩の役に立つなら……楽にしてあげたい。助けたい。先輩は一人じゃないって、伝えたい。

 ぜんぶ、私の本音。
 先輩は驚いたように一瞬だけ目を見開いたけれど、すぐに力を抜いて「ははっ」と笑みをほころばせた。
 
「ありがとな」

 先輩は私の心の中の気持ちまで汲み取ってくれたかのように、やさしく微笑んだ。
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