真っ黒な先輩の溺愛なんて想定外です〜完璧な先輩に私の隠しごとがバレました〜

 週明けの朝。
 社内にも少しずつ年の瀬の波が押し寄せている。どことなく慌ただしいけれど、会話の端々には年末特有の浮き立った空気が混じっていた。

 仕事の合間、ひと息つこうとコーヒーを取りに立ち上がろうとしたとき。
 
「お疲れ」

 デスクの間から、渡辺さんがひょいと顔を出したきた。
 にこり笑った笑顔に浮かぶ右目の下のほくろが印象的だ。渡辺さんは、誰とでも気さくに話せるノリのいい同期だった。
 屈託のない笑顔のまま、私が「お疲れ様」と返すよりも先に渡辺さんは言葉を続けた。
 
「急なんだけど、今日の夜ってひま?」

 この前の飲み会で「七瀬さんと飲んでみたいな〜」と声をかけられた記憶がよみがえる。けれど、そのときみたいなおどけた口調じゃなくて、何か願いごとを頼むような真摯的な感じだった。

 ──今は仕事中だし、それにあれは酔った勢いだもんね。
 
「えと、何かあるの?」
「会社の忘年会で使う店の下見がしたくてさ。一緒に来てくれない?」
「……私が?」
「七瀬さんみたいな、お酒飲めない人でも楽しめる場所がいいかなって。だから一緒に見てほしいんだよね」

 そう言って、さらに深く目元が細められる。
 お詫びというか、彼の気遣いというか。なんとなく、「この前はごめんね」と言っているような気がした。
 
「うん、わかった」
「じゃ、よろしく」

 渡辺さんは手をひらりと振って、颯爽とデスクから離れていった。

 ──なんだか、嵐が去ったみたい。

 そう思ってしまうのは失礼かもしれない。けれど、軽くて陽気な渡辺さんとはタイプが違うのもあって、少しだけ肩の荷が下りたようだった。
 ふと目を上げると、筧先輩と目が合う。社内では秘密の関係とはいえ、無視はできずに私は小さく会釈した。
 けれど──。

 ──気のせい、かな……。

 一瞬だけ、先輩の顔が冷たく見えた気がした。

 *

 仕事を終えて会社を出ると、凛と澄んだ空気がはらりと髪を揺らした。真っ白な息は、(かすみ)のように風に流されていく。
 私はエントランスのすぐそばで渡辺さんを待っていた。
 
「七瀬さん、お待たせ〜」
「お疲れ様です」

 しばらくして、渡辺さんが軽く手を振りながらやってくる。
 
「いや〜、なんか帰り際に筧先輩に捕まっちゃってさ」
「先輩に……?」
「そ、今日飲みに行かないかって。予定あるからって断ったけど。先輩から誘われたの初めてで緊張したわ」
「そうなんだ」

 渡辺さんは軽口をたたくように言いながら歩き始める。
 
 ──先輩、渡辺さんを誘ったりするんだ。

 意外だなあ、と思いながら彼の一歩後ろをついていった。
 オフィス街を抜け、駅が近づくにつれて人の気配が増えていく。お酒の匂いや店先から漂う料理の匂いが混ざった風は、少し生暖かい。
 慣れた足取りで前を進む渡辺さんの背中は軽やかで、社交的な人のそれだった。

 *
 
 店に着くと、渡辺さんがドアを押し開けた。
 
「ここが候補の店」
 
 中は柔らかな照明で、木目のインテリアがシックで落ち着いた雰囲気をつくっている。俗にいう居酒屋とは少し違って、ビストロみたいなお店だった。
 
「きれいなお店だね」
「でしょ。ノンアルカクテルも多いし、いいかなって」
「うん。いいと思う」

 席につき、渡辺さんは迷わず生ビールを、私はおしゃれな名前のノンアルカクテルを頼んだ。
 置かれたグラスで乾杯をして、渡辺さん主導であれこれと会話が進んでいった。

「七瀬さんは再来週のプレゼン資料、もうできてる?」
「だいたい、かな。あとは細かい修正とかすれば」
「さすが、真面目だな〜。俺は全然だめ、ギリギリにならないとやる気出ないタイプ」
「私だって、けっこうそういうところあるよ」

 そんな他愛もない会話をしながらも、渡辺さんはすでに二杯も生ビールを飲み干していて、三杯目のハイボールに手をかけていた。まだ三十分も経っていないのに、すごいペースで飲む人だなと圧倒されてしまう。
 くびっと勢いよくグラスを傾けたあと、彼は唐突に顔をこちらへ向けた。

「ところでさ、七瀬さんって、筧先輩とデキてんの?」
「……っ! まさか、そんなことないよ!」
「へぇ〜。なんかこの前の飲み会も二人で消えちゃったからさあ。そうなのかなって」
「あ、えと、ほら……先輩って面倒見がいいから、私のこと送ってくれて……。なんかすごい迷惑かけちゃったし、酔っちゃったのは私自身のせいだし、これ以上迷惑なんてかけられないし……」

 言ってて気づく。私、先輩のことになると、思った以上に早口でたくさんしゃべってる。
 そんな私を見ながら渡辺さんは軽く息を吐き、グラスを揺らしながら目を細めた。右目下のほくろは、どこか(なま)めかしい。獲物を捕らえたような視線に絡まれそうで、どきりとする。
 
「じゃあさ、また迷惑かけないように、お酒に慣れとかなきゃじゃない?」
「……え」
「飲んでるうちに慣れてくるからさ。今日はその練習」
「でも、みんなの前では飲まないって約束してて……」
「誰と?」
「それは……」

 筧先輩と──なんて、とても言えなかった。
 口ごもる私に渡辺さんは少し意地悪そうに笑って、さらに追い討ちをかけるように視線を送る。

「七瀬さんも、もう大人でしょ。この前みたいにならないように、自分の限界は知っといたほうがいいと思うなあ」

 この前──頭がふわふわで、顔もふにゃりと脱力してて、オーラの色までつい口に出してしまったあの日。思い出すだけで、顔が熱くなって後悔でいっぱいになる。

「前回は楽しかったし、みんなも七瀬さんと飲んでみたいと思ってるよ」
「ほんと……? 引かれてないの?」
「うん、全然」
「そうだったんだ……」

 安堵している自分がいた。てっきり引かれてるものだと思っていたから。だからと言って「オーラが見えます」なんて絶対に言えないけれど、少なくとも社内での私の立場や居場所は変わっていないんだと思えた。
 目の前の渡辺さんは小さく笑みを浮かべている。なんだか安心させるような、それでいて少しだけ挑発的な笑顔。
 
「ね、だから飲んでみようよ」
「……」

 言葉に詰まる。先輩に迷惑かけないように、みんなと楽しく普通に飲めるように──そのためなら、ちょっとくらい勇気を出してもいいんじゃないか、なんて思ってしまう。
 
「大丈夫。酔っ払ったら、今度は俺が送ってあげるから」

 囁くような声色と一緒に、彼の手がするりとこちらに伸びてくる。私の手の上に彼の手が重なろうとした、その瞬間。
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