真っ黒な先輩の溺愛なんて想定外です〜完璧な先輩に私の隠しごとがバレました〜

「七瀬が入社してきて一年目くらいかな。ふとした拍子にぶつかって、七瀬が持ってた資料落としちゃったんだけど……覚えてる?」

 先輩はやさしく訊ねてくれたけれど、私は覚えていなかった。一年目なんて仕事を覚えることに必死で、自分のことで精一杯だったから。その頃の記憶なんて、正直ほとんど残っていない。
 
「覚えてないだろ? 顔に出てる」
「わ、すみません」

 ぺこりと頭を下げると、先輩は小さく笑って「そんなもんだよな」と肩の力を抜く。その笑顔は、なんとなく懐かしさを帯びて見えた。
 
「そのとき、資料を拾うのを手伝ったんだけど……指先が触れたのに、七瀬からは何も感じられなかった」
「ごめんなさい……何も考えてなかったのかもしれないです」
「いや、そういうのじゃなくて。気配、とでもいうべきか……心を読まないようにしていても、どうしても、ふっと感じるものがあるんだ。だけど、七瀬にはそれがなかった」

 先輩は、ほっとしたように微笑んでいた。
 心の中を感じ取れないという現象が、先輩にとってどれほどの違和感で、どれほど特別なことだったのか──少しだけわかる気がした。
 
「不思議な子だなと思ったのが、七瀬を意識するようになったきっかけ」

 穏やかな声色の奥に、確かな想いが宿っているのがわかった。何かが小さく弾けたように、鼓動がどんどん高鳴っていく。
 
「先輩、私のこと……見てくれてたんですか?」
「見てた。最初は、真面目でよく働くなって印象。だけど、たまに見せる笑顔とか、甘いもの食べてるときの幸せそうな顔とか、そういうのを見ているうちに……目が離せなくなっていった」

 嬉しい、という感情が真っ先にあふれ出した。
 私ももう、先輩から目を逸らすなんてできない。憧れで、守ってあげたくて、それから──。
 
「好きだよ」

 囁かれた先輩の言葉が、鼓動と一緒に身体中を駆け巡る。目頭が熱くなって、どうしようもなく嬉しくて、幸せで。

「ありがとう、ございます……」

 結局、私は涙を流してしまった。

 *

「俺なりに考えてみたんだけど、七瀬から何も感じなかったのは、七瀬が心を閉ざしてたからだと思うんだ」
「そうかもです。私も“オーラを見ないように“って自分で自分のこと押さえ込んで、心も閉ざしてましたから」
「俺の前では、そんなことする必要ないからな」
「……はいっ」

 穏やかで、あたたかい空気。以前と同じようで、少しだけ違う。
 先輩と両思いなんて、まだ夢見心地だけれど。お互いがお互いを思い合うだけで、こんなにも胸が満たされるなんて知らなかった。
 ほころんだ顔をしている私の隣で、先輩が「でも」と眉をひそめた。

「未遂で済んだからよかったけど。やっぱり、俺以外の前で酒は飲ませたくない」
「大丈夫です。今日で先輩の前以外では飲まないって、改めて誓いましたから」

 気合いを込めて告げると、先輩はちょっと呆れたような笑みをこぼした。
 
「……お前さ、酔っ払うと無防備になるんだな。あんな可愛い笑顔振りまいたら、そりゃ男が寄ってくるわ」
「えっ、えぇ、そんなつもりは……」

 顔が熱くなって、慌てて手を大きく降った。自覚なんてなかったから、そんなふうに見えていたなら恥ずかしい限りだ。
 おどおどしていた私を、先輩の鋭い瞳が射抜いた。
 
「俺以外の奴に、七瀬のあんな顔見せたくない」

 胸に小さな波紋が広がる。ただの独占欲じゃなくて──私への想いそのものだと自然に伝わってきた。

「……はい」

 言葉にするのは恥ずかしかったけれど、素直に頷かずにはいられなかった。

「なあ、絢」
「私の名前……どうして……」
「好きな人の名前くらい知ってる。絢は俺の名前、知らないだろ?」
「あっと、えっと……はい……。ずっと苗字呼びでしたし、会社の人を名前で呼ぶ機会はなくて……」

 つい言い淀んでしまう。けれど先輩は、それを見透かしたようにくつくつと笑っていた。
 
海斗(かいと)。海に北斗の斗」
「海斗、さん」
「二人っきりのときは、名前で呼んで」
「はっ、はい! 慣れるようにします……!」

 初めて知った先輩の名前。海が好きな先輩らしい名前だな、なんて思ったと同時に、「本当に私たち恋人なんだ」と心が浮き立ってしまう。嬉しすぎて、このままずっと顔に力が入らないかもしれない。
 そう思ったのに。
 
「絢は、俺のこと好き?」

 甘い視線にとらわれた瞬間、頬に彼の手のひらが触れられた。
 一瞬にして全身に熱が走って、顔も身体も硬直してしまう。ちょっと甘えるようで、ちょっと大人の余裕を見せつけられるような仕草に、心臓が飛び跳ねた。

「……は、はいっ」
「好き?」
「えと、あの、心の中で念じるくらい力強く思ってますよっ!」

 たった二文字。たったの二文字なのに、口に出すのがこんなにも恥ずかしいなんて。
 それに、心を読まなくったって、私の思いは頬の熱さからも伝わっているはず。

 ──先輩……! 気づいてるでしょ……!

 必死に訴えてみたけれど、先輩は「わからない」とでも言いたげに、くすりと意地悪く笑ってみせた。
 
「ちゃんと、絢の声で聞かせて?」

 そんなふうに言われてしまったら、逃げ場なんてもうどこにもない。

 ──ずるい……。

 けど、抗えない。
 
「……海斗さんが、好きです」

 近づく距離に目を伏せると──そっと唇が重なった。
 どんなものよりも、甘いキス。
 世界が先輩で満たされて、時間も呼吸も止まったみたいだった。
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