御曹司社長の契約溺愛 シンデレラなプロポーズは、夜ごと甘く溶けて

第一章:貧乏学生の日常と、一等地の輝き

東京の一等地、西麻布のランドマークタワー。その35階に位置する最高級ホテル「グラン・エトワール」の廊下は、深夜にもかかわらず、間接照明に照らされ息をのむほど美しかった。

望月琴音は、重いカートを押し込みながら、誰もいない廊下の角で、そっと額の汗を拭った。
「っ……あと、2フロア」
現在時刻は午前1時半。大学の講義と、掛け持ちのカフェバイトを終えた後の深夜清掃バイト。これが、琴音の唯一の、そして最も稼げる仕事だった。

20歳の琴音は、周囲からは「まじめで静かな文学部の学生」に見られていたが、実態は借金を抱えた家族のために働く、貧乏学生の代表だった。
(このフロアの絨毯、一枚いくらするんだろう。踏みしめるたび、罪悪感を感じちゃうな)

分厚い絨毯は、琴音の履く安物のスニーカーの音を完全に吸い込む。窓の外には、宝石を散りばめたような東京の夜景が広がっている。まるで、自分とは全く違う、手の届かない世界だ。

ふと、エレベーターホールから、低く重厚な足音が聞こえてきた。こんな時間に、このフロアを歩く客は珍しい。
琴音は慌ててカートの陰に身を隠し、呼吸を整えた。ホテルでは、客の視界に清掃員が長時間いるのはマナー違反とされていた。
現れたのは、一人の男だった。

完璧だった。
吸い込まれるような黒のスーツに、一切の皺がない。磨き上げられた革靴は、絨毯の上でも存在感を主張している。
男は、このホテル「グラン・エトワール」のオーナーであり、若くしてIT業界の頂点に立つ神楽坂 蓮社長だ。

社内報で見た写真よりも、遥かに冷徹で、美しい。年齢は確か28歳。氷細工のような整った顔立ちには一切の感情が読み取れず、鋭い視線はまるでこの世界すべてを合理的な数値として見下ろしているかのようだった。
男は、何かを思案するかのように、ゆっくりと廊下の窓際に立ち止まる。

琴音は、身を隠したまま、じっと彼の背中を見つめていた。そのオーラだけで、空気がぴんと張り詰めるのを感じる。
その瞬間、長時間の労働と睡眠不足が、限界を超えた。
ぐらり、と視界が大きく揺れる。
「っ……!」

立っているのが精一杯で、体が傾く。なんとかカートに手をついたが、その衝撃で、カートの上に置いてあった備品入れが大きな音を立てて床に落ちてしまった。
ガラガラッ、カシャン!
夜の静寂を切り裂く、乾いた音。
神楽坂蓮の、冷たい視線が、一瞬で琴音を捉えた。

「……誰だ」
低く、有無を言わせない声。それが自分に向けられていることに、琴音は全身が凍り付くのを感じた。
「も、申し訳ございません!清掃の……望月と申します」
急いで散乱した備品を拾おうと、しゃがみ込んだ瞬間、視界が真っ白になる。力が抜け、そのまま床に倒れ込む……と思った、その時。

無駄のない、強い手が、琴音の腕を掴んだ。
「――っ」
強い力で引き上げられ、琴音は彼のスーツの胸板に顔を埋める形になった。鼻孔をくすぐる、高級なコロンと、彼の体温。
「体調が悪いようだな」
蓮の声には、一切の優しさや動揺がない。ただ事実を指摘する、冷たい響きだけ。

顔を上げた琴音は、至近距離で彼の完璧な造形を見上げた。彼は眉一つ動かさず、琴音の顔を凝視している。
「いえ、大丈夫です。すぐに……片付けますので」
「大丈夫ではないだろう」
蓮はそう言い放つと、琴音の細い手首を掴み、そのまま廊下の突き当たりの扉へと歩き始めた。
「あっ、あの、どちらへ……?」

「私のプライベートフロアだ。この有様で、作業を続けられると思うのか」
彼の歩幅は大きく、琴音はついていくのがやっとだ。彼は清掃員である自分に、怒っているのだろうか。それとも、単なる合理主義者として、効率の悪い人間を排除したいだけだろうか。
プライベートフロアの重い扉が、音もなく開いた。

扉の先は、まるで別世界だった。
都心を見下ろす大きな窓、モノトーンで統一されたモダンなインテリア。リビングルームの片隅には、巨大なウォーターサーバーと、高級なコーヒーメーカーが置かれている。
蓮は、ためらう琴音を促すこともなく、リビングのソファに座るよう促した。
「座れ。そして、ここに手を出せ」
彼は、何の躊躇もなく、自分のスーツの内ポケットから小型の体温計を取り出した。
「あの、でも……」

「契約を交わした従業員が、私のホテルの廊下で倒れられては困る。これは合理的な判断だ。早くしろ」
冷たい命令口調に逆らえず、琴音は震える手で体温計を受け取り、脇に挟んだ。
蓮は、一切私語を挟まず、その場で立って体温計の計測終了を待つ。
ピピピッ

「38.5度か。熱がある。」
彼は体温計を奪い取ると、躊躇なくゴミ箱に放り込んだ。そして、ウォーターサーバーで冷たい水をコップに入れ、琴音に差し出した。
「これを飲んで、少し休め」
「……ありがとうございます」

琴音は震える指でコップを受け取った。冷たい水が、熱を持った体に染み渡る。
「あの、社長……」
「神楽坂だ」
「神楽坂様。清掃の時間中に、このようなご迷惑を……本当に申し訳ございません。明日の給料から引いていただいて結構です」
琴音の精一杯の言葉に、蓮は初めて、微かに口角を上げた。だが、それは微笑みではなく、嘲笑に近いものだった。

「給料?君のバイト代など、私のホテルの窓ガラス一枚の値段にも満たない。そんな小事で気にするな」
まるで、琴音の存在を、その言葉の価値すらも否定するような、冷たい物言い。
「だが、君は興味深い」

蓮は、ソファに座る琴音の目の前、コーヒーテーブルの角に腰掛けた。その視線は、夜景を見つめる時と同じように、静かで、冷徹だった。
「こんな深夜まで、なぜそこまでして働く?学生だろう。よほど金に困っているようだが」
琴音は思わず息を呑んだ。

彼は、たった一度の接触で、自分の状況を見抜いたのか。この氷のような男の洞察力に、身の毛がよだつ。
「……それは」
「答えなくていい」
蓮は、懐から取り出した名刺入れを、琴音の前に静かに置いた。

「明日、私の秘書が君のアパートを訪れる。君が金に困っているのなら、その悩みをすべて解決できる、最高の契約を用意してやろう」
「契約……?」

「そうだ。そして、その契約の対価は――私の妻になることだ」
琴音は、手元のコップを取り落としそうになり、目を見開いた。
突然の、そしてあまりに非現実的なプロポーズ。それは、翌日の人生を根底から覆す、甘美で、危険な夜の始まりだった。
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