ホテル・ラ・ソルーナ
第二夜:叶えられなかった夢の続き⑥
栗原千隼 様
このたびは 鳴瀬孝太様のご逝去の報に接し 心よりお悔み申し上げます
幼き頃よりの故人のご友人である栗原千隼様のお悲しみは計り知れないものとお察し致します
また 突然このようなご連絡をお許しください
鳴瀬孝太様より当ホテルのご予約 また ご面会のご依頼を承りました
次の新月の夜 一室ご用意が可能となりましたので ご連絡させていただきました
202X年 5月8日(金)
東京都港区赤坂9-8-X 20時
ホテル・ラ・ソルーナにて鳴瀬孝太様がお待ちになっております
東京までは同封させていただきました 新幹線の切符をご利用ください
東京駅からは当ホテルの者が車にて送迎させていただきますのでご安心ください
19時 丸の内北口 タクシー乗り場にて 品川300 め 12‐XXの車にご乗車ください
当ホテルは夜のみの営業となります
当日 お越しになりましたら 19時45分までに受付を済ませていただきますよう お願い申し上げます
なお この招待状に関しまして くれぐれも他言無用にてお願い致します
他者に話された際には鳴瀬孝太様とご面会が出来なくなりますのでご注意ください
その他 詳細は当ホテルへお越しの際にフロント及び客室係より ご説明がございます
新月の夜 限られたお時間ではございますが おふたりの再会のお手伝いが出来ますよう 我々スタッフ一同 ご尽力させていただく事をお約束致します
それでは 栗原千隼様のお越しを 心よりお待ちしております
HOTEL La SOLUNA
支配人 月陽
「ラ……ソ、ルナ……!」
アルファベットを読み上げた瞬間「あっ」と声が洩れた。まさに今日、昼休みに新聞部のオカルトコンビが討論していた例のホテルじゃないか。死んだ人と面会できる、あのひと言がぼんやりしていた俺の頭をガツンと殴ったからしっかり覚えているし、きっと間違いじゃない。ラ、ソルーナ。そうだ。そんなホテルの名前だった。
その時、温めが終わったのに放置していたから、電子レンジがピーピーとまるで警告するような音を響かせるものだから、少し飛び跳ねてしまった。
「うわ、驚かしやがって! あほう!」
罪のない電子レンジに文句を言ったところで動悸はおさまらなかった。ばくばくと暴れ回る心臓をどうにかして落ち着かせようと、深く深く深呼吸した。
俺は何にビビっているんだ。こんなのいたずらに決まってるだろうが。誰だ。部のやつらか。孝太を失ってどん底に落ちた俺をおちょくって、こんなくだらないマネしてるのか。
いや、待てよ。このホテルの話をしていたあいつらの仕業かもしれない。新聞部のオカルトコンビ。いつもこういう訳の分からない都市伝説の話ばかりしているし。親友を亡くしたばかりの俺を利用して、記事にしようとしてるんじゃないだろうな。明日、問い詰めてみるか。
「くそ、バカにしやがって」
そうだ。そもそも、死んだ孝太がどうやってホテルに予約を入れることが出来るっていうんだ。胡散臭いにも程があるだろうが。詐欺だ、絶対そうだ。
「くだらん」
チッと舌打ちをして、テーブルに招待状をぶっきらぼうに投げつけた時だった。ひらりと飛び出してきたのは、新幹線の片道切符だった。木の葉が舞うようにひらりはらりと左右に揺れながら床に着地した切符は、岡山駅から東京駅行きの山陽新幹線のぞみの特急券だった。
5月8日 15:20発 18:33着 のぞみ34号 23,840円
「1号車、1番のA、か。エースナンバーじゃねえか……孝太」
なるほど。これは念入りに仕組まれたイタズラだなと思いながらも、どうしてなのかその招待状も片道切符も捨てるという選択肢には至らなかった。ただ、戸惑った。困惑した。これを持っていればもしかしたら本当に、孝太に会えるんじゃないかと思っている自分に戸惑った。
生まれて初めて、涙を堪えながら、大好物の生姜焼きを食べた。
こんなドラマとかアニメみたいな事なんて絶対あり得ないと頭ではしっかり理解しているのに、心は違った。もしかしたら、とか、ひょっとしたら、だとか。淡くて頼りない期待に胸が高鳴って仕方なかった。
かき込むように夕食を終え、急かされるようにわしわしと歯を磨き、何かに追われるように洗濯物を干し、スマホを握り締めてベッドに潜り込んだ。真っ暗な空間にスマホのブルーライトがじんわりと広がる。Googleの検索のバーに「ホテル・ラ。ソルーナ」と入力してみる。いちばん最初に表示されたのはパンドラちゃんねるという噂や都市伝説などの情報が集まっているサイトだった。
その下、もうひとつ下、とホテルの公式サイトが出て来るかと期待しながらスクロールしたけれど、結局全部そういうオカルト系の情報サイトしか出てこなかった。
「なんじゃあ……やっぱりな」
ほらみろ。検索したってホテルのサイトさえ出て来ないじゃないか。やっぱりこんな胡散臭いホテルなんて存在していないんだ。死者に会えるなんて。俺も俺だ。くだらないことに振り回されてバカみたいだ。さっさと寝よう、とスマホを枕元に放り出し、無理やり目を閉じる。でも、どうしようもなくすっきりしなくて悶々と考え込み、最終的に情報サイトを開き読み漁った。
パンドラちゃんねる。確かにそのサイトにはそのホテルの情報が載っていた。
そのホテルは幾つかの条件が重なった新月の夜にだけ、突如として姿を現す。新月の夜の一週間前に、ホテル支配人から招待状が届いた人間だけがたどり着くことができる。そして、ホテルに辿り着ける死者は自らその命を絶った者のみ。
ざっくり、そんな内容が載っていた。そのスレッド内に飛び交う会話で妙に引っかかったのは、エックスで「ドライフラワー」というアカウント名を使っている人物についてだった。
――ドライフラワーってやつが情報発信元?
――女? 男?
――乾燥花さんはエックスにいるよ
毎週火曜日にポストしてる
――乾燥花www
――DMしてみ
運よきゃ返信もらえる
――返信もらえんかった
――残念
――ドライフラワー病んでね?
ポスト上げては消すじゃん
――女? メンヘラ? こわ
「……ドライフラワー、か」
エックスのアプリを開きながら思い出したのは、オカルトコンビの会話だった。
『エックスにドライフラワーゆうアカウント名の人がおって、そのホテルのことポストしとるんよ。そのホテルに行って来たことがあるらしいんじゃ』
……本当なんだろうか。ごくりと唾を飲み込んで、ドライフラワーというアカウント名を検索した。それは一瞬で見つかった。
「……おった」
直近のポストは3日前、4月28日のそれだった。
――あのとき記憶を消さない選択をしたことをとても後悔している
あなたは怒っているだろうか
もう確かめる術さえないけれど
遡ってスクロールしていくと4月は21、14、7日、3月は31、24……と週一で必ず決まって20時にポストされ続けていた。そのポストを読み漁っているうちに、こんなことを考えるようになった。このドライフラワーというアカウント名でポストし続けている人物は、きっと男だ、と。
話したことも会ったこともないけれど、そう直感した。そして、とにかくとてつもなく後悔していることも葛藤し苦しんでいることも知った。でも、何をそこまで後悔しているのか、そうしてそこまで苦しんでいるのか、猛烈に気になった。
例えば、本当にホテル・ラ・ソルーナという場所がこの宇宙の片隅に存在するのだとして。ドライフラワーという人物が会って来たのはおそらく、女性なのではないかと思う。恋人、あるいは片思いしている大好きな相手。どうしてなのか、そう思えて仕方なかった。
――あなたと紡いだ時間はあまりにも短く
記憶から消すという選択肢はなかった
――ホテル・ラ・ソルーナ
支配人 月陽(ツキアカリ)
もしこれを見ていたら
もう一度招待状をください
――新月の夜に探したけれど
あの日のように辿り着くことができなかった
招待状がないと行けないらしい
――もう一度 会いたい
謝りたい
――とても後悔している
苦しい
――もう会えないのだから
せめてあなたと過ごした時間だけは残したかった
それだけだった
――あなたを救いたかった
全ての出来事から救いたかった
――申し訳ないことをしてしまった
ごめんなさい
――ただ会いたい
もう一度だけでいい
ただ あなたに会いたい
週に一度、同じ曜日の同じ時間にポストしているところを見ると、次のポストはおそらく5月4日の20時だ。さっきもあの情報サイトで誰かが投稿していた。運が良ければ返信があると。返信をもらえる可能性が高いのは5月4日20時前後じゃないかと思う。
招待状が届いた者ですが、と打ち込んだ文字を消去して打ち直した。万が一のことを考えてだ。だって、他言無用と注意書きがあったのを思い出したからだ。
――察していただけると有難いです
記憶を消さない選択とはどういうことですか?
ホテルに行くと何の選択をしなければいけないんですか?
10分待って、20分待って、翌朝になっても予想通りドライフラワーさんからの返信は無かった。それからの5日間はひたすらに葛藤だった。ゴールデンウイークは野球の練習とあの胡散くさいホテルの情報収集に時間を使って終わった。寝ても覚めても胡散くさいホテルのことばかり考えた。
何があっても、どんなに面白くないことがあっても、野球をしていれば大丈夫だったのに。野球に集中していれば平気だったのに。その野球にさえ身が入らなかった。
ばかばかしいと思う反面、もしかしたら孝太に会えるかもしれないと期待すると、情報収集以外はほとんど手につかなかった。それでいて、情報が集まれば集まるほど、その割合は反転した。
胡散臭い、きな臭い、薄気味悪いと思っていたはずのそのホテルがたったひとつの希望に思えて仕方なくなった。俺はどうにかして、孝太に会いたかったのだ。
死んだ人に会えるホテルなんて、そんな筋が通らないうわさ話にすがりつきたい一心で、俺はひたすらに真偽のほどを調べ続けた。そして、ドライフラワーさんから返信があったのは、予想通り、5月4日、20時を過ぎて間もなくのことだった。
――招待状を受け取り、私の所へ辿り着いたのでしょうか
あなたもきっと大切な人の魂の処遇を判断することになるのでしょう
私は手放すことが出来ず、結果、後悔しています
あなたは後悔しない選択ができるように祈っています
これ以上のことは言えませんが、もし、再会して戻って来た時、記憶が残っていたらその時はもう一度、DMをいただけると幸いです
「手放すことが……?」
その文面からドライフラワーさんが嘘をついているようにはどうしても思えず、一文一文がずっしりと重い意味を持っているようにさえ感じた。
きっと、ホテル・ラ・ソルーナは、ある。
そして、このドライフラワーという人は、亡くした大切な人に会えたのだ。きっと。どうしてたった一度のやり取りだけでそう思えたのかと聞かれても、こうだからだと答えることはできない。ただの勘だ。
――あなたは亡き大切な人に会えたことを後悔していますか?
更に送ったDMに、もう二度と返信はなかった。その日、5月4日20時のドライフラワーさんのポストはやっぱり後悔が詰まっているのだった。
――あなたを解放してあげることができなかった
あの日の自分が憎い
それが2日前の出来事だった。
そして、2日間悩み葛藤し、出発の前日の土壇場になって母さんに頭を下げ懇願している、というわけだ。
「頼む!」
細かな傷やシミがはっきり確認できるほどこんなに近くで床を見つめたのは、初めてかもしれない。床と額が一体化してしまいそうだ。
「この通りじゃ! ちゃんと、絶対、必ず帰って来る!」
一拍あって、母さんがため息交じりに言った。
「いや、それ、明日やないとおえんの? うちが休みの日とか、一緒に行ける日じゃおえんの? どうして東京なんよ。理由は? 何しに行くんよ」
孝太に、とつい口にしてしまいそうになって、慌てて唾と一緒にごくりと飲み込み、胃袋の底まで押し込んだ。
「それは……すまん。答えることができんのじゃ。今はまだ」
「今は? まだぁ?」
はぁ? と素っ頓狂な声が返って来るのは想定内なので動じなかった。
「そうじゃ。いくら母さんでもな、それだけは教えられん」
「……いつなら教えてくれるんよ。学校は早退、部活も休む、理由は話せん、それでひとりで東京に行かせてくれ言われてもなぁ。そうか、分かった、行っといでなんてへらへら送り出す親なんか、どこにもおらんよ、千隼」
ごもっともだ。バカであほなことをお願いしているのは、自分がいちばん分かっている。でも、孝太に会えるたった一度きりの……いや。最後のチャンスかもしれないのだ。俺はフローリングの床にぐりぐりと額を押し付けて、切に願った。
「頼む! 母さん、頼む! 新幹線の切符はあるんじゃ」
押し付けた額がじんじん痛い。
「お金はお年玉とかお小遣いとか、貯金しとったのがある。迷惑はかけん! 頼む! 行かせてくれ!」
全身が心臓になったかのように鼓動がばくばくと脈打った。長い沈黙のあと、頭上からハアアーと大きな大きなため息が投下され、母さんが椅子から立ち上がった気配を感じて、がっかりした。
だよな。普通に考えて、反対されるよな。
そして、すたすたと小気味良い足音と共に母さんの気配はリビングから遠ざかり、寝室へ消えて行った。
さすがにおおらかでほんわかとした性格の母さんも、さすがに呆れてしまったか、怒ってしまったか。 どちらにせよ、当然だ。俺が懇願していることは支離滅裂で、無謀過ぎる。倉敷から岡山市内へふらっと出掛けて来るのとはわけが違う。高校生がたったひとりで、東京へ行こうとしているのだ。それも、理由は言えないなんてこんな筋道の通らない話はない。
許す親なんていないだろう。だったらもういっそのこと、強行突破をするのはどうだろう。もっと母さんを困らせることになってしまうけど。だってもう、それしか方法が思いつかない。早く、一刻も早く大人になりたい。高校生なんて結局、ひとりじゃなにもできやしない、子供なんだ。あぁ……と頭を抱えた次の瞬間だった。
「千隼」
今度は優しく包み込むような声が降って来て、導かれるように顔を上げると、
「……な、なんじゃ」
目の前にあったのは、呆れたと言わんばかりに困り顔で微笑む母さんの顔と、そして、一万円札が5枚だった。
「何があるか分からんじゃろう。あげるんじゃないよ、貸しじゃ。持って行きなさい」
「え……な……行って来てもええんか?」
「ええもなんも」
母さんは目じりにたくさんのしわを作り、ぷはっと吹き出して笑った。その目じりのしわを見てはっとした。いつも仕事ばかりで、忙しくて、こんなふうに顔を近付けて話すことなんて本当に久し振りだったから、気付けなかったけど。母さんも老けたなあなんて思って、ちょっと胸がぎゅうっとなった。5万円を持つ指もなんだかガサガサ荒れていて、気の毒になった。
「うちがどんなに言うたところで無駄なんじゃろうが。千隼はお父さんにそっくりなんじゃ。いっぺん言い出したらきかんのじゃけぇ。のう、千隼、あんた」
野球以外のことでこんなふうに頭下げるなんて初めてよねぇ、なんて、怒るでも呆れるでもなく、感心したように笑いながら、
「ええね、貸しじゃからね、これ。出世払いでええけど」
母さんは俺の手に5万円をしっかりと握らせた。
「理由は、話せる時が来たら、必ず教えてくれるんよね? 約束じゃ、千隼」
「……あぁぁ、うん!」
絶対に許してもらえないだろうと諦め掛けていただけに、驚きよりも戸惑いの方が勝って、俺は大金を握り締めながら、ぱちくりと瞬きを繰り返した。
本当に目から鱗が落ちてしまいそうだった。豆鉄砲を食らった鳩のように口をあんぐりさせる俺に、母さんは真っ直ぐな目で言った。
「理由は聞かん。でも、ひとつだけ教えてくれん?」
「答えられる範囲なら」
こく、とうなずくと、母さんは紅を差した唇を微かに震わせながら、小さく開いた。そして「こぉ」と蚊が鳴くような声を漏らしてとっさに口をつぐんで、きっと、飲み込んだ。きっとそうだった。
「誰かは聞かん。けど、大切な人に会いに行くんじゃよね?」
「……え」
「千隼の大切な人は、東京におるんよね?」
さすがだなと思う。母さんには敵わない。隠しごとをしたところで無駄だ。いつだってこうしていとも簡単に見破られる。ごめんな、母さん。詳しく言うことができないんだけど、会いに行って来るんだ、孝太に。
「……うん」
俺は泣きそうなのを必死に我慢して、やっとの思いでうなずいた。すると、俺はただうなずいただけで何も言っていないのに、母さんはまるですべてを悟ったかのように、すべてを分かってしまったかのような、晴れやかな表情でうなずいた。
「伝えたいことはなぁ、ちゃんと言葉にしないと、伝わらんのじゃからなぁ、千隼」
うちみたいに後悔せんようにね、そう言ってどこか寂しそうに微笑むのだった。
5月8日、金曜日。
木の葉は色濃く輝き、晴れの国岡山は倉敷。本日も晴天なり。
母親を巻き込んだ秘密の計画は順調に遂行された。何食わぬ顔で授業を受けていると、3時限目が終わった休み時間に予定通り職員室へ呼び出された。そして、担任からこう告げられた。
「午前で早退して帰って来るように、お母さんから電話があったぞ。ちゃんと部のほうにも言って早退するように」
これも朝に口裏を合わせた通りだ。グッジョブ、母さん。計画通りだ。その足で真っ直ぐ監督のもとへ向かい、早退することを伝えた。家庭の事情と言ったら深く突っ込まれるだろうかと構えたけれど、監督は深掘りはしてこなかった。
4時限目を終えて、これからの流れを頭の中で整理しながら玄関で靴を履き替え、校門に向かっていると、
「千隼ぁー!」
その声に背中を引っ張られて、立ち止まり振り向いた。ちょうど彩世が玄関を飛び出してこちらに向かって駆け寄ってくるところだった。
漆黒の絹糸のように綺麗な長い髪の毛をさらさらと靡かせながら、全速力で駆け寄って来た彩世が「待ってよ!」と飛び付く勢いで俺の右腕を両手で捕らえた。
「なにしとるん! どこ行くんよ」
小さくて華奢な肩を上下させて乱れた呼吸を整えながら、彩世が腕を引っ張る。
「何て……帰るんじゃ。急用ができたんじゃ」
「嘘じゃ! 嘘!」
彩世は頭を左右にぶんぶん振って、大きな声を出した。
「千隼は嘘ついとる!」
「はぁ? 何が嘘じゃ! 用事があるんじゃ、仕方ないじゃろうがぁ!」
嘘じゃない。本当に用事があるのだ。内容はいくら彩世にでも打ち明けることはできないけど、嘘じゃない。俺がどんなに嘘じゃないと説得しようとしても、彩世は食い下がってきた。
「じゃって、ここ一週間の千隼、明らかに様子がおかしかったじゃろ? うち、心配しとったんよ。そしたら今日はとうとう部活休むゆうし。さぼるんか? 逃げるん?」
「ああ?」
逃げるのかと聞かれて、かあっと頭に血が上った。好きな女にいちばん思われたくないことを思われてしまったと思うと、感情のコントロールがきかなくなった。
「逃げる言うたか? どういうつもりでそねえなこと言うんじゃ! さぼりでも逃げでもねえんじゃ! ええから離せ!」
俺はかあっとなった勢いで、彩世の両手ごと右腕をブンと振り下ろして払った。その勢いで彩世はよろめきながら一歩、二歩、と後ずさりし俺に振りほどかれた両手をじっと見つめて固まってしまった。
「あ、わり……ごめん」
悪かった、と伸ばした右手はその瞬間に彩世の手に盛大に拒否されて、ハッとした時にはもうジンジンと痛みが走っていた。
「痛ってえ! ……悪かった言うとる」
じゃろうが、と言いかけてたまらず飲み込んだ。彩世が泣いていたからだ。目を真っ赤にして、ぼろぼろとパールのように大粒の涙をあふれさせて、唇をわなわなさせている。
「なんなんよ!」
そして、声を上ずらせて怒鳴るように俺を睨んできた。
「いつもそうじゃ! いつも平気な顔して! 俺は大丈夫だみたいな顔して! ほんまは全然これっぽっちも大丈夫なんかじゃないくせに!」
「は……お前に、俺のなにが分かる言うんじゃ!」
「分かるんよ! うち、千隼のこと、ちゃんと分かるんじゃもん!」
それは偽善者が言う言葉だ。分かるわけがない。彩世は俺じゃないのだ。分かるわけがない。
「分かったような口きくんじゃねえ! あほうが」
ハン、と鼻で笑い飛ばした次の瞬間だった。
「分かるんじゃ! だって、うち、一年の時からずーっと、千隼のことばっか見てきたんじゃもん!」
「は?」
思いがけなさすぎる言葉に一気に力みが抜けて、右肩から斜めに掛けていたスポーツバッグがずり落ちそうになった。彩世が顔を真っ赤にして、スカートをぎゅうっと握り締め、意を決したように言った。
「うち、千隼のことが大好きなんじゃもん! ずっと、一年の時からずーっと大好きじゃったんよ!」
「え、ちょっと待て、いや、あのさ」
慌てて周囲を見渡して、誰もいないことを再確認し、彩世に視線を戻す。
「かっこよくて、輝いとって、ぶっきらぼうなんじゃけど、優しゅうて。男らしくて、友達思いで。うち、千隼のことが大好きなんじゃ」
けど! と彩世は唇を小刻みに震わせ、
「最近の千隼は嫌いじゃ! 惨めで、情けのうて、見ておれん!」
そう言って、髪の毛を振り乱してぶんぶん左右に首を振った。
「情けなくて、かっこ悪い!」
そんなこと、彩世に言われなくても、自分がいちばん分かっている。
「勝手にそう思っておけばええじゃろうが」
俺はそう吐き捨てると、奥歯を噛んで彩世に背を向けた。
「千隼!」
「うるせえんじゃ。時間がないんじゃ。文句の続きなら」
練習前にでも聞くから、と振り向いた瞬間、無防備な俺の頬をかすめてアスファルトに落ちたのは、彩世が投げたお守りだった。彩世が手作りしたのだとすぐに理解した。白いフェルトに紅い縫い目と背番号の2。野球ボールの形をしているお守りだった。
「おい、こういうもんは投げちゃおえんじゃろうが」
と拾い上げたそれを、彩世は「孝太からの遺言じゃ」と言った。
「孝太を失うた千隼は……体半分を失うてしまった抜け殻のようじゃ!」
彩世の涙と言葉が鋭い矢となって心に突き刺さった。でも、悔しいけれど、図星すぎて何も言い返すことが出来なかった。
「辛いのは千隼だけじゃないんよ! 自分だけがしんどいとか、自分がいちばん苦しいなんて思わんでね!」
悔しくてたまらなくなって、情けないと思いながら、うつむいて唇を真一文字に結んだ。
「孝太は、もっと辛かったんじゃ! もっとしんどかったんよ! でえれえしんどかったはずじゃ!」
そんなことは言われなくても、分かっている。拾い上げたお守りを右手の中にぎゅうっと握り締め、奥歯で怒りと葛藤を噛み砕き、飲み込んでから顔を上げた。そこにあったのは、立ち去る彩世の後姿だった。
校門を出てすぐに見上げた空は、泣きたくなるほど澄んだ青色で、胸が詰まった。
このたびは 鳴瀬孝太様のご逝去の報に接し 心よりお悔み申し上げます
幼き頃よりの故人のご友人である栗原千隼様のお悲しみは計り知れないものとお察し致します
また 突然このようなご連絡をお許しください
鳴瀬孝太様より当ホテルのご予約 また ご面会のご依頼を承りました
次の新月の夜 一室ご用意が可能となりましたので ご連絡させていただきました
202X年 5月8日(金)
東京都港区赤坂9-8-X 20時
ホテル・ラ・ソルーナにて鳴瀬孝太様がお待ちになっております
東京までは同封させていただきました 新幹線の切符をご利用ください
東京駅からは当ホテルの者が車にて送迎させていただきますのでご安心ください
19時 丸の内北口 タクシー乗り場にて 品川300 め 12‐XXの車にご乗車ください
当ホテルは夜のみの営業となります
当日 お越しになりましたら 19時45分までに受付を済ませていただきますよう お願い申し上げます
なお この招待状に関しまして くれぐれも他言無用にてお願い致します
他者に話された際には鳴瀬孝太様とご面会が出来なくなりますのでご注意ください
その他 詳細は当ホテルへお越しの際にフロント及び客室係より ご説明がございます
新月の夜 限られたお時間ではございますが おふたりの再会のお手伝いが出来ますよう 我々スタッフ一同 ご尽力させていただく事をお約束致します
それでは 栗原千隼様のお越しを 心よりお待ちしております
HOTEL La SOLUNA
支配人 月陽
「ラ……ソ、ルナ……!」
アルファベットを読み上げた瞬間「あっ」と声が洩れた。まさに今日、昼休みに新聞部のオカルトコンビが討論していた例のホテルじゃないか。死んだ人と面会できる、あのひと言がぼんやりしていた俺の頭をガツンと殴ったからしっかり覚えているし、きっと間違いじゃない。ラ、ソルーナ。そうだ。そんなホテルの名前だった。
その時、温めが終わったのに放置していたから、電子レンジがピーピーとまるで警告するような音を響かせるものだから、少し飛び跳ねてしまった。
「うわ、驚かしやがって! あほう!」
罪のない電子レンジに文句を言ったところで動悸はおさまらなかった。ばくばくと暴れ回る心臓をどうにかして落ち着かせようと、深く深く深呼吸した。
俺は何にビビっているんだ。こんなのいたずらに決まってるだろうが。誰だ。部のやつらか。孝太を失ってどん底に落ちた俺をおちょくって、こんなくだらないマネしてるのか。
いや、待てよ。このホテルの話をしていたあいつらの仕業かもしれない。新聞部のオカルトコンビ。いつもこういう訳の分からない都市伝説の話ばかりしているし。親友を亡くしたばかりの俺を利用して、記事にしようとしてるんじゃないだろうな。明日、問い詰めてみるか。
「くそ、バカにしやがって」
そうだ。そもそも、死んだ孝太がどうやってホテルに予約を入れることが出来るっていうんだ。胡散臭いにも程があるだろうが。詐欺だ、絶対そうだ。
「くだらん」
チッと舌打ちをして、テーブルに招待状をぶっきらぼうに投げつけた時だった。ひらりと飛び出してきたのは、新幹線の片道切符だった。木の葉が舞うようにひらりはらりと左右に揺れながら床に着地した切符は、岡山駅から東京駅行きの山陽新幹線のぞみの特急券だった。
5月8日 15:20発 18:33着 のぞみ34号 23,840円
「1号車、1番のA、か。エースナンバーじゃねえか……孝太」
なるほど。これは念入りに仕組まれたイタズラだなと思いながらも、どうしてなのかその招待状も片道切符も捨てるという選択肢には至らなかった。ただ、戸惑った。困惑した。これを持っていればもしかしたら本当に、孝太に会えるんじゃないかと思っている自分に戸惑った。
生まれて初めて、涙を堪えながら、大好物の生姜焼きを食べた。
こんなドラマとかアニメみたいな事なんて絶対あり得ないと頭ではしっかり理解しているのに、心は違った。もしかしたら、とか、ひょっとしたら、だとか。淡くて頼りない期待に胸が高鳴って仕方なかった。
かき込むように夕食を終え、急かされるようにわしわしと歯を磨き、何かに追われるように洗濯物を干し、スマホを握り締めてベッドに潜り込んだ。真っ暗な空間にスマホのブルーライトがじんわりと広がる。Googleの検索のバーに「ホテル・ラ。ソルーナ」と入力してみる。いちばん最初に表示されたのはパンドラちゃんねるという噂や都市伝説などの情報が集まっているサイトだった。
その下、もうひとつ下、とホテルの公式サイトが出て来るかと期待しながらスクロールしたけれど、結局全部そういうオカルト系の情報サイトしか出てこなかった。
「なんじゃあ……やっぱりな」
ほらみろ。検索したってホテルのサイトさえ出て来ないじゃないか。やっぱりこんな胡散臭いホテルなんて存在していないんだ。死者に会えるなんて。俺も俺だ。くだらないことに振り回されてバカみたいだ。さっさと寝よう、とスマホを枕元に放り出し、無理やり目を閉じる。でも、どうしようもなくすっきりしなくて悶々と考え込み、最終的に情報サイトを開き読み漁った。
パンドラちゃんねる。確かにそのサイトにはそのホテルの情報が載っていた。
そのホテルは幾つかの条件が重なった新月の夜にだけ、突如として姿を現す。新月の夜の一週間前に、ホテル支配人から招待状が届いた人間だけがたどり着くことができる。そして、ホテルに辿り着ける死者は自らその命を絶った者のみ。
ざっくり、そんな内容が載っていた。そのスレッド内に飛び交う会話で妙に引っかかったのは、エックスで「ドライフラワー」というアカウント名を使っている人物についてだった。
――ドライフラワーってやつが情報発信元?
――女? 男?
――乾燥花さんはエックスにいるよ
毎週火曜日にポストしてる
――乾燥花www
――DMしてみ
運よきゃ返信もらえる
――返信もらえんかった
――残念
――ドライフラワー病んでね?
ポスト上げては消すじゃん
――女? メンヘラ? こわ
「……ドライフラワー、か」
エックスのアプリを開きながら思い出したのは、オカルトコンビの会話だった。
『エックスにドライフラワーゆうアカウント名の人がおって、そのホテルのことポストしとるんよ。そのホテルに行って来たことがあるらしいんじゃ』
……本当なんだろうか。ごくりと唾を飲み込んで、ドライフラワーというアカウント名を検索した。それは一瞬で見つかった。
「……おった」
直近のポストは3日前、4月28日のそれだった。
――あのとき記憶を消さない選択をしたことをとても後悔している
あなたは怒っているだろうか
もう確かめる術さえないけれど
遡ってスクロールしていくと4月は21、14、7日、3月は31、24……と週一で必ず決まって20時にポストされ続けていた。そのポストを読み漁っているうちに、こんなことを考えるようになった。このドライフラワーというアカウント名でポストし続けている人物は、きっと男だ、と。
話したことも会ったこともないけれど、そう直感した。そして、とにかくとてつもなく後悔していることも葛藤し苦しんでいることも知った。でも、何をそこまで後悔しているのか、そうしてそこまで苦しんでいるのか、猛烈に気になった。
例えば、本当にホテル・ラ・ソルーナという場所がこの宇宙の片隅に存在するのだとして。ドライフラワーという人物が会って来たのはおそらく、女性なのではないかと思う。恋人、あるいは片思いしている大好きな相手。どうしてなのか、そう思えて仕方なかった。
――あなたと紡いだ時間はあまりにも短く
記憶から消すという選択肢はなかった
――ホテル・ラ・ソルーナ
支配人 月陽(ツキアカリ)
もしこれを見ていたら
もう一度招待状をください
――新月の夜に探したけれど
あの日のように辿り着くことができなかった
招待状がないと行けないらしい
――もう一度 会いたい
謝りたい
――とても後悔している
苦しい
――もう会えないのだから
せめてあなたと過ごした時間だけは残したかった
それだけだった
――あなたを救いたかった
全ての出来事から救いたかった
――申し訳ないことをしてしまった
ごめんなさい
――ただ会いたい
もう一度だけでいい
ただ あなたに会いたい
週に一度、同じ曜日の同じ時間にポストしているところを見ると、次のポストはおそらく5月4日の20時だ。さっきもあの情報サイトで誰かが投稿していた。運が良ければ返信があると。返信をもらえる可能性が高いのは5月4日20時前後じゃないかと思う。
招待状が届いた者ですが、と打ち込んだ文字を消去して打ち直した。万が一のことを考えてだ。だって、他言無用と注意書きがあったのを思い出したからだ。
――察していただけると有難いです
記憶を消さない選択とはどういうことですか?
ホテルに行くと何の選択をしなければいけないんですか?
10分待って、20分待って、翌朝になっても予想通りドライフラワーさんからの返信は無かった。それからの5日間はひたすらに葛藤だった。ゴールデンウイークは野球の練習とあの胡散くさいホテルの情報収集に時間を使って終わった。寝ても覚めても胡散くさいホテルのことばかり考えた。
何があっても、どんなに面白くないことがあっても、野球をしていれば大丈夫だったのに。野球に集中していれば平気だったのに。その野球にさえ身が入らなかった。
ばかばかしいと思う反面、もしかしたら孝太に会えるかもしれないと期待すると、情報収集以外はほとんど手につかなかった。それでいて、情報が集まれば集まるほど、その割合は反転した。
胡散臭い、きな臭い、薄気味悪いと思っていたはずのそのホテルがたったひとつの希望に思えて仕方なくなった。俺はどうにかして、孝太に会いたかったのだ。
死んだ人に会えるホテルなんて、そんな筋が通らないうわさ話にすがりつきたい一心で、俺はひたすらに真偽のほどを調べ続けた。そして、ドライフラワーさんから返信があったのは、予想通り、5月4日、20時を過ぎて間もなくのことだった。
――招待状を受け取り、私の所へ辿り着いたのでしょうか
あなたもきっと大切な人の魂の処遇を判断することになるのでしょう
私は手放すことが出来ず、結果、後悔しています
あなたは後悔しない選択ができるように祈っています
これ以上のことは言えませんが、もし、再会して戻って来た時、記憶が残っていたらその時はもう一度、DMをいただけると幸いです
「手放すことが……?」
その文面からドライフラワーさんが嘘をついているようにはどうしても思えず、一文一文がずっしりと重い意味を持っているようにさえ感じた。
きっと、ホテル・ラ・ソルーナは、ある。
そして、このドライフラワーという人は、亡くした大切な人に会えたのだ。きっと。どうしてたった一度のやり取りだけでそう思えたのかと聞かれても、こうだからだと答えることはできない。ただの勘だ。
――あなたは亡き大切な人に会えたことを後悔していますか?
更に送ったDMに、もう二度と返信はなかった。その日、5月4日20時のドライフラワーさんのポストはやっぱり後悔が詰まっているのだった。
――あなたを解放してあげることができなかった
あの日の自分が憎い
それが2日前の出来事だった。
そして、2日間悩み葛藤し、出発の前日の土壇場になって母さんに頭を下げ懇願している、というわけだ。
「頼む!」
細かな傷やシミがはっきり確認できるほどこんなに近くで床を見つめたのは、初めてかもしれない。床と額が一体化してしまいそうだ。
「この通りじゃ! ちゃんと、絶対、必ず帰って来る!」
一拍あって、母さんがため息交じりに言った。
「いや、それ、明日やないとおえんの? うちが休みの日とか、一緒に行ける日じゃおえんの? どうして東京なんよ。理由は? 何しに行くんよ」
孝太に、とつい口にしてしまいそうになって、慌てて唾と一緒にごくりと飲み込み、胃袋の底まで押し込んだ。
「それは……すまん。答えることができんのじゃ。今はまだ」
「今は? まだぁ?」
はぁ? と素っ頓狂な声が返って来るのは想定内なので動じなかった。
「そうじゃ。いくら母さんでもな、それだけは教えられん」
「……いつなら教えてくれるんよ。学校は早退、部活も休む、理由は話せん、それでひとりで東京に行かせてくれ言われてもなぁ。そうか、分かった、行っといでなんてへらへら送り出す親なんか、どこにもおらんよ、千隼」
ごもっともだ。バカであほなことをお願いしているのは、自分がいちばん分かっている。でも、孝太に会えるたった一度きりの……いや。最後のチャンスかもしれないのだ。俺はフローリングの床にぐりぐりと額を押し付けて、切に願った。
「頼む! 母さん、頼む! 新幹線の切符はあるんじゃ」
押し付けた額がじんじん痛い。
「お金はお年玉とかお小遣いとか、貯金しとったのがある。迷惑はかけん! 頼む! 行かせてくれ!」
全身が心臓になったかのように鼓動がばくばくと脈打った。長い沈黙のあと、頭上からハアアーと大きな大きなため息が投下され、母さんが椅子から立ち上がった気配を感じて、がっかりした。
だよな。普通に考えて、反対されるよな。
そして、すたすたと小気味良い足音と共に母さんの気配はリビングから遠ざかり、寝室へ消えて行った。
さすがにおおらかでほんわかとした性格の母さんも、さすがに呆れてしまったか、怒ってしまったか。 どちらにせよ、当然だ。俺が懇願していることは支離滅裂で、無謀過ぎる。倉敷から岡山市内へふらっと出掛けて来るのとはわけが違う。高校生がたったひとりで、東京へ行こうとしているのだ。それも、理由は言えないなんてこんな筋道の通らない話はない。
許す親なんていないだろう。だったらもういっそのこと、強行突破をするのはどうだろう。もっと母さんを困らせることになってしまうけど。だってもう、それしか方法が思いつかない。早く、一刻も早く大人になりたい。高校生なんて結局、ひとりじゃなにもできやしない、子供なんだ。あぁ……と頭を抱えた次の瞬間だった。
「千隼」
今度は優しく包み込むような声が降って来て、導かれるように顔を上げると、
「……な、なんじゃ」
目の前にあったのは、呆れたと言わんばかりに困り顔で微笑む母さんの顔と、そして、一万円札が5枚だった。
「何があるか分からんじゃろう。あげるんじゃないよ、貸しじゃ。持って行きなさい」
「え……な……行って来てもええんか?」
「ええもなんも」
母さんは目じりにたくさんのしわを作り、ぷはっと吹き出して笑った。その目じりのしわを見てはっとした。いつも仕事ばかりで、忙しくて、こんなふうに顔を近付けて話すことなんて本当に久し振りだったから、気付けなかったけど。母さんも老けたなあなんて思って、ちょっと胸がぎゅうっとなった。5万円を持つ指もなんだかガサガサ荒れていて、気の毒になった。
「うちがどんなに言うたところで無駄なんじゃろうが。千隼はお父さんにそっくりなんじゃ。いっぺん言い出したらきかんのじゃけぇ。のう、千隼、あんた」
野球以外のことでこんなふうに頭下げるなんて初めてよねぇ、なんて、怒るでも呆れるでもなく、感心したように笑いながら、
「ええね、貸しじゃからね、これ。出世払いでええけど」
母さんは俺の手に5万円をしっかりと握らせた。
「理由は、話せる時が来たら、必ず教えてくれるんよね? 約束じゃ、千隼」
「……あぁぁ、うん!」
絶対に許してもらえないだろうと諦め掛けていただけに、驚きよりも戸惑いの方が勝って、俺は大金を握り締めながら、ぱちくりと瞬きを繰り返した。
本当に目から鱗が落ちてしまいそうだった。豆鉄砲を食らった鳩のように口をあんぐりさせる俺に、母さんは真っ直ぐな目で言った。
「理由は聞かん。でも、ひとつだけ教えてくれん?」
「答えられる範囲なら」
こく、とうなずくと、母さんは紅を差した唇を微かに震わせながら、小さく開いた。そして「こぉ」と蚊が鳴くような声を漏らしてとっさに口をつぐんで、きっと、飲み込んだ。きっとそうだった。
「誰かは聞かん。けど、大切な人に会いに行くんじゃよね?」
「……え」
「千隼の大切な人は、東京におるんよね?」
さすがだなと思う。母さんには敵わない。隠しごとをしたところで無駄だ。いつだってこうしていとも簡単に見破られる。ごめんな、母さん。詳しく言うことができないんだけど、会いに行って来るんだ、孝太に。
「……うん」
俺は泣きそうなのを必死に我慢して、やっとの思いでうなずいた。すると、俺はただうなずいただけで何も言っていないのに、母さんはまるですべてを悟ったかのように、すべてを分かってしまったかのような、晴れやかな表情でうなずいた。
「伝えたいことはなぁ、ちゃんと言葉にしないと、伝わらんのじゃからなぁ、千隼」
うちみたいに後悔せんようにね、そう言ってどこか寂しそうに微笑むのだった。
5月8日、金曜日。
木の葉は色濃く輝き、晴れの国岡山は倉敷。本日も晴天なり。
母親を巻き込んだ秘密の計画は順調に遂行された。何食わぬ顔で授業を受けていると、3時限目が終わった休み時間に予定通り職員室へ呼び出された。そして、担任からこう告げられた。
「午前で早退して帰って来るように、お母さんから電話があったぞ。ちゃんと部のほうにも言って早退するように」
これも朝に口裏を合わせた通りだ。グッジョブ、母さん。計画通りだ。その足で真っ直ぐ監督のもとへ向かい、早退することを伝えた。家庭の事情と言ったら深く突っ込まれるだろうかと構えたけれど、監督は深掘りはしてこなかった。
4時限目を終えて、これからの流れを頭の中で整理しながら玄関で靴を履き替え、校門に向かっていると、
「千隼ぁー!」
その声に背中を引っ張られて、立ち止まり振り向いた。ちょうど彩世が玄関を飛び出してこちらに向かって駆け寄ってくるところだった。
漆黒の絹糸のように綺麗な長い髪の毛をさらさらと靡かせながら、全速力で駆け寄って来た彩世が「待ってよ!」と飛び付く勢いで俺の右腕を両手で捕らえた。
「なにしとるん! どこ行くんよ」
小さくて華奢な肩を上下させて乱れた呼吸を整えながら、彩世が腕を引っ張る。
「何て……帰るんじゃ。急用ができたんじゃ」
「嘘じゃ! 嘘!」
彩世は頭を左右にぶんぶん振って、大きな声を出した。
「千隼は嘘ついとる!」
「はぁ? 何が嘘じゃ! 用事があるんじゃ、仕方ないじゃろうがぁ!」
嘘じゃない。本当に用事があるのだ。内容はいくら彩世にでも打ち明けることはできないけど、嘘じゃない。俺がどんなに嘘じゃないと説得しようとしても、彩世は食い下がってきた。
「じゃって、ここ一週間の千隼、明らかに様子がおかしかったじゃろ? うち、心配しとったんよ。そしたら今日はとうとう部活休むゆうし。さぼるんか? 逃げるん?」
「ああ?」
逃げるのかと聞かれて、かあっと頭に血が上った。好きな女にいちばん思われたくないことを思われてしまったと思うと、感情のコントロールがきかなくなった。
「逃げる言うたか? どういうつもりでそねえなこと言うんじゃ! さぼりでも逃げでもねえんじゃ! ええから離せ!」
俺はかあっとなった勢いで、彩世の両手ごと右腕をブンと振り下ろして払った。その勢いで彩世はよろめきながら一歩、二歩、と後ずさりし俺に振りほどかれた両手をじっと見つめて固まってしまった。
「あ、わり……ごめん」
悪かった、と伸ばした右手はその瞬間に彩世の手に盛大に拒否されて、ハッとした時にはもうジンジンと痛みが走っていた。
「痛ってえ! ……悪かった言うとる」
じゃろうが、と言いかけてたまらず飲み込んだ。彩世が泣いていたからだ。目を真っ赤にして、ぼろぼろとパールのように大粒の涙をあふれさせて、唇をわなわなさせている。
「なんなんよ!」
そして、声を上ずらせて怒鳴るように俺を睨んできた。
「いつもそうじゃ! いつも平気な顔して! 俺は大丈夫だみたいな顔して! ほんまは全然これっぽっちも大丈夫なんかじゃないくせに!」
「は……お前に、俺のなにが分かる言うんじゃ!」
「分かるんよ! うち、千隼のこと、ちゃんと分かるんじゃもん!」
それは偽善者が言う言葉だ。分かるわけがない。彩世は俺じゃないのだ。分かるわけがない。
「分かったような口きくんじゃねえ! あほうが」
ハン、と鼻で笑い飛ばした次の瞬間だった。
「分かるんじゃ! だって、うち、一年の時からずーっと、千隼のことばっか見てきたんじゃもん!」
「は?」
思いがけなさすぎる言葉に一気に力みが抜けて、右肩から斜めに掛けていたスポーツバッグがずり落ちそうになった。彩世が顔を真っ赤にして、スカートをぎゅうっと握り締め、意を決したように言った。
「うち、千隼のことが大好きなんじゃもん! ずっと、一年の時からずーっと大好きじゃったんよ!」
「え、ちょっと待て、いや、あのさ」
慌てて周囲を見渡して、誰もいないことを再確認し、彩世に視線を戻す。
「かっこよくて、輝いとって、ぶっきらぼうなんじゃけど、優しゅうて。男らしくて、友達思いで。うち、千隼のことが大好きなんじゃ」
けど! と彩世は唇を小刻みに震わせ、
「最近の千隼は嫌いじゃ! 惨めで、情けのうて、見ておれん!」
そう言って、髪の毛を振り乱してぶんぶん左右に首を振った。
「情けなくて、かっこ悪い!」
そんなこと、彩世に言われなくても、自分がいちばん分かっている。
「勝手にそう思っておけばええじゃろうが」
俺はそう吐き捨てると、奥歯を噛んで彩世に背を向けた。
「千隼!」
「うるせえんじゃ。時間がないんじゃ。文句の続きなら」
練習前にでも聞くから、と振り向いた瞬間、無防備な俺の頬をかすめてアスファルトに落ちたのは、彩世が投げたお守りだった。彩世が手作りしたのだとすぐに理解した。白いフェルトに紅い縫い目と背番号の2。野球ボールの形をしているお守りだった。
「おい、こういうもんは投げちゃおえんじゃろうが」
と拾い上げたそれを、彩世は「孝太からの遺言じゃ」と言った。
「孝太を失うた千隼は……体半分を失うてしまった抜け殻のようじゃ!」
彩世の涙と言葉が鋭い矢となって心に突き刺さった。でも、悔しいけれど、図星すぎて何も言い返すことが出来なかった。
「辛いのは千隼だけじゃないんよ! 自分だけがしんどいとか、自分がいちばん苦しいなんて思わんでね!」
悔しくてたまらなくなって、情けないと思いながら、うつむいて唇を真一文字に結んだ。
「孝太は、もっと辛かったんじゃ! もっとしんどかったんよ! でえれえしんどかったはずじゃ!」
そんなことは言われなくても、分かっている。拾い上げたお守りを右手の中にぎゅうっと握り締め、奥歯で怒りと葛藤を噛み砕き、飲み込んでから顔を上げた。そこにあったのは、立ち去る彩世の後姿だった。
校門を出てすぐに見上げた空は、泣きたくなるほど澄んだ青色で、胸が詰まった。