ホテル・ラ・ソルーナ

第二夜:叶えられなかった夢の続き⑦

孝太に会ったら、ひと言めは何にしよう。

 よう、元気だったか? いや、死んだのに元気だったかは無いか。どうして死んだんだよ、なんて。さすがにひと言めにそれは失礼過ぎるか。

 15時20分に岡山駅を出発し、18時33分に東京駅へ到着するまでの3時間、ずっとそんな事ばかりをバカみたいに真剣に考えた。

 倉敷から岡山駅へ向かっている時は本当に会えるんだろうか、やっぱり騙されているんじゃないか、引き返すなら今だ、と半信半疑だったけれど。岡山駅に到着して新幹線に乗り込みいざ出発してしまえば、渦巻いていた疑心は忽として雨上がりの空のように晴れ、あとは一切疑いもしなくなった。

 会う時は笑って会うべきか、なにを言おうか。そんなことを考えている間に新大阪を通過して、気付けば3時間という時間も超特急で過ぎ去り、どこでもドアをくぐったように東京駅へたどり着いていた。

 ごちゃごちゃしたホームを抜けて、ようやく見つけた改札を抜けた時にはもう18時45分だった。東京駅の人の多さに酔いながら迷路のような構内をさまよい表示を頼りに丸の内北口に辿り着いたのは19時を10分も過ぎてからだった。

 駅の外はもう暗く、見上げても星ひとつ見当たらない、鉄紺色の夜空だった。タクシー乗り場に到着し、車のナンバーをもう一度確認しようとスポーツバッグに手を突っ込んでもたついている時だった。

 目の前に停まって待機していた空車の白いタクシーがすーっと右に抜けて街中へ走り去った。すると、この瞬間を狙っていましたといわんばかりのタイミングで、すかさず一台の黒光りする乗用車が入ってきて、後部座席のドアが開いた。次の瞬間、ふっと関節の力が抜けるような不思議な感覚が膝下に走った。

 ああ、この車だ。どうしてなのかは説明できない。ナンバーを確認しなくても、きっと、この車だと思えて仕方なかった。だから俺はスポーツバッグから手を離して、ふわふわとした足取りで、吸い寄せられるように車へ近づき、後部座席のドアから車内を覗き込んだ。

 見たこともない高級なレザーシート。ふんわりと香ってきたのは、甘い花のような懐かしいような不思議な香り。立ち襟のふちに金色のラインがぐるりと入った黒くレトロなデザインのジャケットに身を包み、短く刈り上げられた襟足の運転手の男は、こちらを振り返るでもなく、しゃっきりと定規のように背を正したまま言った。

「栗原千隼様でございますね」

 まるで、車内を覗いただけの気配で俺が栗原千隼だと瞬時に判断したような、そんな口ぶりだった。

「どうぞ、ご乗車ください」

 運転手の顔さえ確認していないというのに、低く心地よい、囁くような口調に、妙な安心感に包まれて一切疑いもしなかった。

「よろしくお願いします」

 ぺこっと会釈をしてから乗り込むとドアが閉まった。

「お……おぉ、すっげえぇ」

 固く座り心地の悪そうだと決めつけて座った光沢のあるレザーシートは、まるでもふもふの動物に顔を埋めたようにやわらかく、あまりの気持ち良さにたまらず声が洩れてしまった。

「発車致します」

 穏やかに囁くような声で運転手が言うと、車はするりとタクシー乗り場を抜け出して大通りへ合流し、緩やかに加速した。

 むせるほど香るわけでなく、とてもさり気なく、春風ほどやわらかく。甘く爽やかな、いつかどこかで不意に嗅いだことがあるような、心地よい香りが漂っていた。その香りのせいなのか、シートの居心地の良さのせいなのか、ぼんやりとしてきて眠く気怠くなってくる。目を閉じてしまおうかと思った瞬間だった。

「栗原千隼様」

 運転手の声にハッとして弾かれたように顔を上げた。

「え、あっ……はいっ」

「私《わたくし》、送迎係の月影と申します。よろしくお願い致します。ホテルまでは十五分ほどで到着予定でございます」

「はい、あ、よろしく――え!」

 ぎゃっと声が洩れた口をとっさに手のひらで覆い塞いだ。トク、トクトク、と心拍数が爆上がりして、首筋を変な汗が伝った。

 生きていないんだ。ルームミラー越しに運転手と目が合った瞬間に、そう直感した。運転手の肌は造り物のように不自然に白く、ぽっかりと穴が空いているように真黒な目はどこを見ているかよく分からない。生気の悪い唇は血で真っ赤に染められたように薄気味悪い。若いのか年配なのかもよく分からない。肌にも目にも唇にも、どこにも血が通っている気配がまるで感じられないのだ。

「驚きましたねえ」

 それでも不思議なことに、この囁くような優しい話し方は物腰柔らかで、妙にほっとしてしまう。

「私もこの仕事に就かせていただいてから、早いもので20年になりますが」

「……ああ、はい」

 不思議な安心感と心地よさに包まれて、シートにもたれながらふわふわとした返事をした。

「学生のお客様を送迎させていただくのは、本当に久しいので。お若いので驚きました」

 月影さんはそう言いながら、混雑している大都会の複雑そうな何車線にも分かれている道路を、すいすいとF1レーサーのように車を走らせる。

「え、俺って若い方なんですか?」

「ええ、お若いですね」

「だいたい何歳くらいのお客さんが多いんですか?」

 うううん、そうですねえ、と首をこてんと傾ける仕草をして、月影さんは右に車線変更してから教えてくれた。

「お答えできる範囲で申し訳ございませんが……やはり30代、40代のお客様が多くいらっしゃいます。依頼者様側の御事情は、私にはお答えできかねます」

 申し訳ございません、と月影さんは小さく、でも丁寧に一礼した。真摯で真面目な人だと思った……人、ではないかもしれないけれど。話し方も仕草も、所作が丁重だった。

「そうなんですか」

「ええ」

 そこで一旦、会話はふつりと途切れた。でも、決して居心地の悪いような沈黙ではなくて、逆に心地よい不思議な沈黙だった。数分後に沈黙を破ったのは月影さんだった。

「栗原千隼様、申し訳ございません。通常であれば右回りにホテルへ向かうのですが」

 カチコチとウインカーの音が小さく響けば、車はすーっと流れるように左へ車線変更した。

「どうしたものか。今夜は道が混雑しておりますので、左回りにて向かわせていただきます」

「ああ、はい」

 車窓から流れる景色は高速のスライドショーのように、一瞬で瞬く間に次へ次へと変わって、ひとつも印象に残らなかった。真っ暗な夜に浮かび上がる人工的なイルミネーションやネオンがただとにかく眩しくて目を細めた。都会の煌びやかな光は、性に合わないらしい。

 東京駅を出発してから、どういうルートで来たのか一切覚えていないし、目印になるような建物さえ覚えていない。穏やかに時が流れる倉敷の町並みとはまるで別世界だ。

「あの、すみません。月影さん」

「はい」

「帰りも東京駅まで送ってもらえたりしますか?」

 俺がやや身を乗り出して尋ねると、

「ええ……そうですね」

 月影さんは何かもの言いたげに含みを持たせた声色でうなずいた。

「栗原千隼様が、その選択をされるのならば、その時はまたお会いできるかと」

「……あのっ」

 どういう意味なのかと聞こうと思ったけれど、どうしてなのか深く追究してはいけないような気がして、そっと唇を結び再びシートにもたれ掛かって体を沈ませた。

「今夜は特別美しい新月なのだそうですよ。ですから、見えぬものが見え、聞こえぬ音や声が聞こえてしまうかもしれませんね」

「……え?」

 そっとルームミラーを覗き込むと、穴が開いたような真黒な瞳もまたミラー越しにこちらを覗いていた。光は通っていないし、どこを見ているのやら焦点も合わない。けれど、途方もなく優しい眼差しだった。

「月と太陽が重なる新月の夜は、この世を隠しますから」

 月影さんは、きっと、もう生きていない人だ。いや。人かも分からない。じゃあ幽霊なのかと聞かれれば、それはそれで違う気がした。そして、不思議なことに怖いとかぞっとするとか、そういう恐怖感は一切なかった。これっぽっちも。

 混雑した大通りから一本外れた路地に入ってすぐに、車は停車した。

「……やっべえ」

 一体、何階建てなのだろう。

 車窓から見上げたその純白のホテルは周囲にそびえ立つ高層ビルよりも遥かに高く、藍色の夜空に突き刺さるほど高く思えた。

 そして、その美しさにぎょえぇと心の叫びがダダ漏れる。アラジンの世界を彷彿させる宮殿のような外観の周囲には、まるで金粉を纏うようにオレンジ色の温かい色の光が蛍のように、不規則に舞っているのだ。

 呆気に取られていると、月影さんがクスリと笑いながら言った。

「ご到着致しました」

 そして、後部座席のドアが音もなく開く。

「あああの、月影さん。俺、まさかこんな高級なホテルだと思わなくて、制服で来ちゃったんですけど」

 想像を遥かに超えた豪華絢爛なホテルの雰囲気に飲まれてあわあわしていると、月影さんは色気の悪い顔で半分だけ振り向き、「素敵ですよ」と口角を上げて微笑んだ。

「制服は学生の一張羅ですから。何一つ恥じることなどございません。さあ、胸を張って」

 不思議な声だ。月影さんがそうだと言えばそんな気分になってくる。月影さんの一言一言は、驚くほど俺の戸惑う心にすんなりと落ちていく。

「ありがとうございました。行って来ます」
 
 車を降りて深く一礼すると、月影さんはハンドルを握ったまま、高校生の俺なんかには勿体ないほどの丁重な一礼をして、夜の街にすっと溶け込むように車ごと姿を消した。

 純白の扉の前でスポーツバッグを右肩にしっかりと掛け直し、胸いっぱいに空気を吸い込み、たっぷりの時間を掛けて吐き出した。そして、洒落たレトロなデザインのドアノブを握り、ゆっくり手前に引いた。

 中に一歩足を踏み入れる。まるで白銀のゲレンデにぽんと放り出されたように、床も壁も吹き抜けの天井も、フロントもロビーラウンジも、空間全てが目が眩むほど純白だった。白い眩しさに何度か瞬きを繰り返していると、

「いらっしゃいませ」

 フロアに居合わせた数名のホテルスタッフが一斉に俺に向かって一礼した。ひとまず受付を済ませようと思いフロントカウンターに視線を投げると、ひょろりと背の高いフロントマンと目が合った。目、と言っても彼もまた穴の開いたような、どこを見ているのか焦点が合わない目なのだが、俺は軽く会釈をして彼の元へ向かった。

 「いらっしゃいませ。ホテル・ラ・ソルーナへようこそ。フロントの月待と申します」

 月影さんと同じレトロなデザインのジャケットだった。胸ポケットのネームプレートに「FRONT CHIEF 月待」と金色に刻まれている。立ち襟の黒いジャケットの袖口に金色のラインが入っていて、前は8つの金ボタン。そして、この月待というフロントマンもまた、生きていないと直感した。彼らだけじゃない。おそらく、ここに存在するホテルスタッフは皆、生きた人間ではないのだろう。

 どこを見ているのか分からない黒い目を見ていると吸い込まれそうになって、目のやり場に困った。そんな俺の心を読み取ったように、月待さんは青白い顔で柔らかく微笑んだ。

「お客様、ご確認の為、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」

「あっはい。あ、と……栗原千隼です」

 緊張のあまりどもってしまった。そして、シャキンと直立したまま固まっていると、月待さんは気遣うように声をワントーン落として、囁くように尋ねてきた。

「招待状をお持ちですか」

「ああ、はい。あるっす」

「拝見してもよろしいでしょうか」

「うっす」

 まるで部活の練習の延長線上のような返事をしてしまうほど、俺は緊張していて、あたふたとスポーツバッグから招待状を引っ張り出し、カウンターに置いた。

「お願いします」

「かしこまりました。拝見いたします」

 招待状に伸びてきた月待さんの手はやっぱりつるつると青白く、血など通っていない、まるでマネキンのような手だった。月待さんは招待状の中身を確認すると、こくりとうなずいた。

「ご確認致しました。栗原千隼様でございますね。ご予約承っております」

 そして、招待状と引き換えにカードを一枚、カウンターにそっと置いた。

「こちら、10階、1008号室のカードキーでございます。ドアノブにかざしていただきますと、ドアが開くようになっております」

「はい」

 ぺこっと頭を下げてカードキーに手を伸ばした時、

「ただ、一点、注意事項がございます」

 と言われて反射的にその手を引っ込めた。

「入室されましたら、客室係がお伺いするまで、お部屋からお出にならないようお願い致します。出た時点でご面会は中止となり、もう二度と入室できなくなってしまいます。ご注意願います」

「……はあ」

 カードキーを受け取り、制服の胸ポケットにしまってから「あの」といちばん心配だったことを尋ねた。

「宿泊代というか、会計はチェックアウトの時ですか?」

 どんなに調べてもこのホテルの情報ときたら、本当なのか嘘なのか信ぴょう性に欠けるものばかりで、料金情報は一切出てこなかった。実際にホテルに足を踏み入れた瞬間から、とんでもない料金を請求されるんじゃないかとずっと考えていた。

 部の遠征で県内外の旅館やビジネスホテルに幾度となく泊ってきたけれど、こんな大富豪しか泊まれないようなホテルは見たのも入ったのも初めてで、請求額を考えるだけで冷や汗ものだ。俺がこつこつ貯めた貯金と母さんが持たせてくれた5万円を合わせても足りないんじゃないだろうか。

 平気な顔をして冷静を装い、実は動悸が止まらない俺の心配をよそに、月待さんはきょとんとした様子で言った。

「いえ。当ホテルは、お金は一切いただかないシステムとなっております」

「……は?」

 この人、正気か?

 タダで泊まれるホテルなんて聞いたことがない。

 フロアの上から下がる巨大シャンデリアの光を跳ね返して、まるでオーロラのようにくるくると変色しながらきらめく大理石の床。彩世の黒髪のように艶々と輝く大きなグランドピアノの奥にはロビーラウンジがあって、隅から隅まで高級なのに、これで料金が発生しないなんて。

「いや、あの。さすがにそんな。何かの冗談っすよね」

 ロビーに漂う穏やかな空気が一変したのは、「またまたぁ」なんて苦笑いしながら周囲をぐるりと見渡している時だった。

 フロアを行き交っていたホテルスタッフやロビーラウンジのカウンターにいるスタッフ、月待さんも、突然動きを止めて、さっき俺が入って来た白いドアの方に向き直りじっと見つめ始めた。

 その時、ドアが開き、夜風が入って来て、再び閉まった。

 すると、空間に居合わせたホテルスタッフが一斉に背筋を伸ばしたまま、腰からゆっくりと静かに深く一礼した。まるで、誰もいないはずのそこに誰かが入って来たかのように。

 ホテルスタッフが一斉にシンクロのように一礼する光景が、孝太の棺を乗せた霊柩車を送り出した光景と重なって、胸の奥がきゅうっと締め付けられた。

 その時だった。

「……えっ」

 俺はその感覚に弾かれたように振り向いた。

 目に見えないのに、確かに何かが俺の背後を通り過ぎた。そんな気配を感じたのだ。でも、どんなに周囲を確かめてみても、ここのホテルスタッフと困惑する俺以外に誰もいない。他には、誰も。

「栗原千隼様」

 月待さんに呼ばれてようやくふっと我に返った。

「大変申し訳ございません」

 と眉毛を八の字にして、本当に申し訳なさそうに両肩をすくめて、月待さんは言った。

「面会のご依頼の新規のお客様がいらっしゃいましたので、少々、お待ちくださいませ」

「え……あの……はい」

 返事と同じタイミングでごくっと唾を飲み込んだ。そして、隣のカウンターをおそるおそる横目で覗いてみる。ああ……やっぱり誰もいない。どう見てもそこには誰も居ないのだ。

「いらっしゃいませ」

 それなのに月待さんはまるでそこに誰かが居るかのように、テキパキと対応をし始めた。

「モリモトタスク様でお間違いございませんでしょうか」

 聞きながら月待さんは、カウンターの上に差し出した一枚の書類の上部を4本の指先で指し、一拍あってからうなずいた。

「ありがとうございます。ご面会の依頼とお部屋のご予約でよろしいでしょうか」

 おいおい、月待さんは一体誰と話してるんだ……。どういうことだ? 誰もいない、声も聞こえない。それなのにきっと会話は成立していて、どんどん先へ進んで行く。

「かしこまりました」

 まるで月待さんがひとりでコントでもしているのを、斜め前の特等席からただ茫然と眺めている。そんなとてつもなく奇妙な光景だった。

「ではこちらに生前のフルネームと、自らお命を絶たれた日時、場所、理由、方法をご記入ください。今、担当の者をお呼びいたします」

 月待さんが空気を相手にとても丁重に説明をしているという異様な光景を横目に、ふと思った。やっぱり俺は騙されたのだと。そして、うつむいた。生前? 自ら命を絶った日時とか場所だとか、理由? 方法だって? 一体、何なんだ……。

「栗原千隼様。大変お待たせいたしました」

 はたと顔を上げると、今隣のカウンターに立っていた月待さんが、まるで瞬間移動でもしたかのように目の前に戻って来ていた。

「あの、月待さん」

「はい」

「俺、騙されてますか? これ、詐欺じゃないですか?」

 きっと不信感たっぷりの表情をしている自分の顔を指さして、ずいっと一歩前に出ると、月待さんが「サギ、ですか?」と困ったように背中を丸くして小さくなった。俺は唇を尖らせて隣のカウンターをツンと指さした。

「だって、誰もいないじゃないっすか」

 すると、月待さんは「ああ!」と全てを理解しましたと言いたげに、曇っていた表情をぱっと輝かせて、いいえと首を振った。

「いらっしゃいます。生者である栗原千隼様に《《まだ》》見えていないだけなのです」

「は? え、まだって」

 まだ見えていないということがどういう意味なのか質問しようと前のめりになった、次の瞬間だった。フロントの横のドアが勢いよく開いて、綺麗なグレージュ色の髪の毛で、丸みのあるショートヘアの女性スタッフがバインダーを胸元に抱きしめて、飛び出して来た。

「モリモトタスク様」

 立ち襟のジャケットに床に裾が着きそうなロングスカートの制服に身を包んだ彼女は、小動物のように小柄で華奢で、まるでぴょんぴょん跳ねる白うさぎのように可愛らしかった。

 ところが、彼女はロングスカートの裾をつま先で踏みつけてしまい、

「あぁっ……わわわ!」

 俺と月待さんが「あっ!」と同時に手を伸ばした瞬間に、カウンターの前でまるでヘッドスライディングするように、それはそれは盛大に転んでしまった。彼女が抱きかかえていたバインダーが大理石の上を、スケートリンクを滑るように流れて来て、俺のローファーのつま先に当たって動きを止めた。

「ぎゃん!」

 可愛らしい顔面を大理石に打ってしまったようだった。潰れたカエルのように大の字になったあと「くうぅっ」と顔を手で覆い痛みに悶絶している。かと思ったら、そうではなかったようだ。

「恥ずかしすぎるぅう。どうしてこうなの、私って!」

 どうやら顔面を強打した痛みにではなく、羞恥と悔しさのあまりの悶絶だったらしい。

「大丈夫ですか? お客様の対応は可能ですか?」

 月待さんが心配そうにカウンターから覗き込むように声を掛けると、

「はいっ! 大丈夫ですっ! すみません!」

 がばっと上半身を起こした彼女は、あれほど盛大に顔面を強打したはずなのに、皮膚が赤くなっているわけでもなく鼻血が流れているわけでもなく、痛がるそぶりひとつ見せず、しゅたっと立ち上がった。

 その瞬間に、唐突に理解した。ここのホテルスタッフは生きていないのだ。だから、きっと痛いとか痒いとか、そういう感覚がないのだ。おそらく。

 制服のスカートをパタパタと手で叩き、乱れを整えている彼女に歩み寄り、拾ったバインダーを差し出すと、

「あの、これ」

「え? ……ああっ! ごめん、あっ、申し訳ございませんっ!」

 落ち着きのない彼女は真っ黒な穴のような目でくるんとシャンデリアの光を跳ね返し、俺に深々と頭を下げて、バインダーを受け取った。

「ありがとうございます!」

 彼女の指先が一瞬触れた時だった。ひやりとしたその感触と温度に驚いて、背中をポンと押されたように「ひっ」と喉の奥から声が勝手に飛び出した。

「あ、すいません」

 慌てて口を手で塞いだ。冷たくて固い指先だった。寒さにかじかんだ手の感触とも違う、まるで血が通わない死後硬直した死人の人肌。棺に入った孝太の頬と同じだった。それくらい生々しい感触だった。

 動揺する俺を見て、彼女は少し寂しげに微笑み、もう一度ぺこんと小さく会釈して、隣のカウンターへ入って行った。

「モリモトタスク様。大変失礼いたしました」

 そして、さっきの月待さんと同様に誰も居ないはずの正面に向かって、彼女はドタバタと一礼した。彼女なりの丁重なのかもしれないけれど、仕草ひとつひとつが落ち着きなくて、でもなぜだか愛らしくも見えて、目を奪われてしまう。

(わたくし)、予約担当の月純と申します」

 ツキスミと読むらしい。彼女のジャケットのネームプレートに「Trainee 月純」と銀色に刻まれていた。研修中らしい。

「次の新月のご予約と空室状況をお調べ致しましたところ、一室空きがございました」

 背は150センチあるかないかといったところか。動くたびにふわふわと弾む丸みのあるショートヘアがよく似合っている。黒くどこを見ているのかわからない目に、小ぶりな鼻と血が滲んだような唇。そして、耳たぶに輝くのは白く小さな小花のピアス。人形みたいだ。

「また、当ホテルの独自の調査の結果、この度のご面会が可能となりますのは、奥様のモリモトチアキ様のみでした。ご予約致しますか?」

 いち、に、さん、ほどの沈黙の間の後、月純さんはこくりとうなずいた。

「かしこまりました。ご予約承らせていただきます。では、お手元の用紙にご記入いただきましたら、どうぞ後方のラウンジにて、お好きなお飲み物をお飲みになりながら、お待ちください。ただいま支配人の月陽が接客中の為、もう少々お時間をいただきます」

 ツキアカリ。確かに今、そう聞こえた。本当にいるのか……と耳に意識を集中させていると、

「栗原千隼様」

 と呼ばれてはっと現実に引き戻された。顔を上げると、月待さんが空洞のようなもの寂しげな目で俺をじっと見ていた。

「あ……すみません」

「いいえ。それでは当ホテルのご説明をさせていただきます。よろしいでしょうか」

 どうしてなのか、隣のカウンターのことが気になって仕方なかった。ただ漠然と理解したのは、きっと今、隣には孝太と同じように自ら命を絶った者がいて……ということは、きっとこんなふうに孝太もここへ来たのだろうということだった。見えない依頼者の方へちらりと視線をやった後、俺は月待さんに「お願いします」と覚悟を示した。

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