ホテル・ラ・ソルーナ

第二夜:叶えられなかった夢の続き⑧

「当ホテルは、ラ・ソルーナの名の通り、太陽と月が重なり街が闇に隠れる新月の夜のみの営業となっております。当ホテルは、自死にてお亡くなりになった故人様が訪れるホテルでございます。生きた人間が当ホテルに入ることができるのは、新月の夜のみ。面会が可能なお時間は20時から未明4時までの8時間となっております」

 なるほど。

 どうやらあのオカルトサイトの胡散臭い情報も満更ウソでもないようだ。というより、ここまで合致しているとなるとかなり信ぴょう性が高い。

「あの、時間を延長することはできないんですか?」

「申し訳ございません。ご延長はできかねます」

「5分も無理ですか?」

「申し訳ございません」

 やんわりとした声で、でも、きっぱりと即答で断られてしまった。

「月に一度、新月の夜、この世が夜の暗闇に確実に隠れている8時間の間であれば、面会のお時間を短縮することは可能ですが、ご延長はできないのです」

「どうしてですか?」

「朝が来て、太陽がこの世を明るみに出してしまうからです。本来、この世には存在しないモノゴトが明るみに出てしまわぬように、ご延長はお受けすることができません」

 そして、俺が口を開く間も与えぬ速さで、間髪容れずに月待さんは続けた。

「故人様とお会いになれるのは一度だけでございます。客室係がお伺いに上がるまで、ご自分の判断でお部屋を出ないよう、くれぐれもご注意願います」

 優しい口調のわりに最後は語尾を強調された気がして、「はあ」とうなずくのがやっとだった。

「お手洗いは部屋にございます。他に必要な物がございましたり、御用の際はお部屋の電話機よりフロント9番まで、遠慮なくお申し付けください。入室されましたら担当の客室係より別途ご説明がございます」

「あの……もしも、俺が」

 自己判断で部屋を出てしまったらその時はどうなるのかを聞こうとしたその時を見計らっていたかのように、絶妙なタイミングだった。

「栗原千隼様」

 まるでピアノの高音の鍵盤をポーンと人差し指で軽く弾いたような美しい声に背中を叩かれた。振り向くとそこには女性ホテルスタッフが背筋を真っ直ぐに姿勢良く直立していた。

「ようこそ。ホテル・ラ・ソルーナへ」

 彼女は声も外見もスタイルも完璧で、とても美しい女性だった。

「客室係の月花と申します」

 細いうなじの辺りできちりと団子に束ねた黒髪も、お辞儀の角度も、指先の揃え方、手の重ね方でさえ、とにかく仕草言動すべてが美しかった。ドラマで主役を張っている人気女優とか、グラビアアイドルだとか。世間を賑わせている女性芸能人より遥かに美しかった。

「今夜は責任を持って担当させていただきます。何卒宜しくお願い申し上げます」

 ただし、彼女が人間であるならばの話だ。どんなに美しくとも、月花さんもまた生きていないのだろう。マネキンのように血が通っていない不自然な白い肌、そこだけをくり抜いたようにぽかっと空いた穴のような目、生き血を滲ませたような異様に赤い唇。

「それでは、間もなく面会のお時間です。鳴瀬孝太様はお部屋にてお待ちになられております」

 ごくっと唾を飲み込んでひとつ息を吐き出し、高鳴る鼓動に冷静になれと必死に言い聞かせる。

「本当に……いるんですか」

 緊張のあまり声を上ずらせた俺に、月花さんは口角をくいっと上げて、おおそらく微笑んだ。

「はい。行きましょう。どうぞ、こちらへ」

 月花さんはマネキンのような右手をすうっと前へ伸べると、ついて来いと無言の空気を醸し出しながら、床に付きそうに長いスカートの裾をひらりと揺らして、エレベーターの方へすたすたと歩き出した。

「ありがとうございました」

 俺は月待さんにぺこりと会釈をして、月花さんの背中を追い掛けた。

 大理石の床を歩く月花さんの靴音がコツンコツンと子気味良く響く。エレベーター前で立ち止まった月花さんがボタンを押すとすぐに扉は左右に開き、「どうぞ」と乗るよう促された。

「……はい」

 と返事をしたところまでは良かった。まさかここまで来て自分に迷いが生じるなんて思ってもみなかった。怖くなってしまったのだ。それも、ものすごく。騙されているんじゃないか、と怖くなったのではなくて、会うことが怖くなってしまったのだった。足がすくんで一歩を踏み出せずにいると、月花さんが背後からそっと肩を叩くように声を掛けてきた。

「迷っていらっしゃいますか?」

 俺は深呼吸のような行為を二回繰り返して、首を横に振った。

「迷いなんてないです。ただ、怖いっす」

「怖いとは、恐怖の怖いですか?」

「いや。あいつに会った時、ちゃんと笑ってやれるか不安で怖気づいているんです。すみません」

 あんなに3時間も悩んで考えたのに、会えた時の一言目さえ、この土壇場になってもまだ決められずにいる。

「あいつに、文句言って責めてしまうような気がして……怖いっす」

 どうして死んでしまったのか、無責任だ、どうして俺に相談してくれなかったのかと、孝太を責め立ててしまう気がして。傷付けてしまう気がして。だから一歩を踏み出せずにいると、月花さんが言った。

「それでも良いのではないでしょうか」

「え?」

 予想外のひと言に弾かれたように振り向くと、月花さんはまるで母親のように慈愛に満ちた優しい口調で俺の背中を押した。

「栗原千隼様が思ったことを口になさって良いのではないでしょうか。着飾った言葉より素直な丸裸の言葉の方が、鳴瀬孝太様に伝わります。きっと」

 俺は慌てて前に向き直り、月花さんに背を向けた。どうしてなのか、泣きそうになってしまったからだ。

「そっすね」

 覚悟はできた。迷いを脱ぎ捨ててエレベーターに乗り込むと、一歩遅れて月花さんも乗り込んできて扉がゆっくりと閉まった。

「鳴瀬孝太様は生前の元気なお姿のまま現れます」

「え。それって、生きてるってことですか?」

 月花さんは質問には答えず、ごく自然にスルーして、俺に背を向けたまま台本を読むように淡々と続けた。

「お記憶もそのまま残っていらっしゃいますし、触れることも可能ですし、普通に会話もできます。ただ、お亡くなりになった方はこの世の物を口にすることを禁じられておりますので、ご飲食の際はご注意願います」

 エレベーターが止まったのは10階だった。

「到着致しました。足元にご注意ください」

 扉が開く。エレベーターを降りると、インディゴブルー色の毛足の長い絨毯が廊下に敷かれていて、その上を歩いて行くと突き当りにその部屋があった。

「こちらのお部屋、1008号室でございます」

 と月花さんが部屋のドアに右手の指先をつんと向ける。そして、反対の左手首の腕時計をちらりと確認してから言った。

「ただ今の時刻19時45分です。面会開始のお時間まであと15分ございますので、お部屋にお入りになりお待ちください。19時50分になりましたらお茶を準備し、ご説明に伺います」

 一礼しかけた月花さんが「再度、私からも申し上げますが」と俺を見上げた。

「ご自分の判断でお部屋を出てしまわれますと、その時点でご依頼は無効となり、面会は中止となりますのでご注意願います」

 そして、深めに一礼して、月花さんはスカートの裾をひらりと揺らしながら行ってしまった。

 1008号室の前に立ち、深呼吸する。やっぱり緊張で手が震える。このドアの向こうに孝太がいるんだと思うと、なんとも言えない感情で胸が詰まった。吸い込んだ空気を最後にもう一度全て吐き切ってから、カードキーをドアノブにかざした。ピッと反応があり、カチッという音と共に開錠された。

 ドアノブをぐっと握り締め、押し開けた。中は真っ暗だった。物音ひとつしなかった。人の気配というものがひとつも、一切感じられなかったのだ。嫌な予感に胸がざわついた。カードキーを壁のスロットに差し込むと、部屋中あちこち一気にパパパパパと照明が灯った。

「孝太?」

 部屋中をあちこち探し回って、落胆した。月花さんは、孝太はもう部屋で待ってるって言っていたのに。

「はっ……どこにもいねえじゃん」

 部屋は壁も床も全てが白を基調としていて、広々としていて明るかった。入ってすぐに100インチほどと思われる巨大なテレビと、テーブル、L字型のレザーのソファがあって、奥はベッドルームになっていた。さらにその奥にはジャグジーの浴室、そして大きなアンティークの大時計があってバルコニーになっている。

 どこを探しても、孝太は居なかった。

 バカみたいだ。騙された。やっぱりでたらめだったんだ。信じてのこのこやって来た俺がバカだった。そもそも死んだ人に会えるなんてあり得ないことくらい、小学生だって分かるのに。どうして信じてしまったんだろう。

「くだらねええー」

 もはや怒りを通り越して笑えて仕方なかった。帰ったらドライフラワーさんにDMを送ろう。まんまと騙されて帰って来ましたって。俺はカカカと笑いながら、ベッドの上にスポーツバッグを放り出して、ソファに寝転がった。

「やっべえ、俺」

 孝太に会えるかもしれないと思って、信じ込んで、母さんに心配かけて金まで出させて。遠足に向かう小学生みたいに期待に胸を膨らませて、練習さぼってまで3時間もかけて東京に出て来て。それでこれだ。孝太に会えるわけがないのに。孝太はもう……死んだんだ。

 天井から吊り下がるシャンデリアの複雑そうな造りと繊細な眩しさに目を細めて、帰ろうかな、なんて思ったその時だった。

 キンコンと室内にチャイムが鳴り渡り、驚いてむっくりと上半身を起こした。ドアノブがガチャッと音を立てて右に回る。静かにドアが開き入って来たのは、金色に輝く台車を押した月花さんだった。台車には透明なガラスのティーポットやガラスのカップが乗っていた。

「お茶をお持ち致しました。準備致します」

 そう言うと、月花さんは台車を押してソファの横にやって来た。

「騙したんか? どこにもいねえじゃん」

 彼女を睨み付けながらぶっきらぼうに吐き捨てると、とぼけているのかいないのか、月花さんは「えっ」ときょとんとした様子で、俺の右隣を手のひらを上にした左手でそっと指した。

「栗原千隼様のお隣にいらっしゃいますが」

 ぎょっとして右隣を見てみたけれど、何の気配さえない。

「いや、あの。ええ加減にせえよ。おちょくっとるんか」

 孝太は居ない。どこにも居ないのに、隣に居るだなんて。そんなのいたずらが過ぎるだろうが。

「すみませんけど、もう」

 帰ります、とソファを立とうと思った次の瞬間だった。バルコニーがある奥の方からボーンとアンティークの大時計が20時を知らせた。

「お茶の準備を始めさせていただきます」

 月花さんは何食わぬ顔で一礼し、ガラスのティーポットに茶葉を入れ、次に熱湯を注ぎ淹れる。たちまち水蒸気が薄雲のように上がり、間もなくして不思議な香りが立ち込め始めた。

 立ち上る湯気を見つめてその香りに身を委ねていると、苛立ちがゆるゆると紐解かれるように穏やかになっていった。ティーポットの中では茶葉がたっぷりの時間を使って、くるくると踊るように開いていった。

「それではお時間となりましたので、再会の儀を始めさせていただきます。よろしくお願いいたします」

 そう言って月花さんは手のひらで転がせそうなほど小さい、ひと口分しか入らなそうなガラスのカップにお茶を細く細く注ぎ淹れた。そして、そのカップを俺の前に置いた。お茶の表面には小さな白い小花がぷかぷかと浮かんでいる。

「これ、何のお茶ですか? 独特な匂いですね……飲んでも平気なんですか?」

 俺が怪訝な顔で首を傾げると、月花さんは小さく笑った。

「茉莉花茶でございます」

「まつりか?」

「はい。太陽の世ではジャスミン茶として親しまれているとか」

「ああ」

 そう言えば、よくクラスの女子や彩世も「いい香りがする」とかなんとか言って、飲んでいるのをよく見かける。

「ここ月の世では茉莉花茶と言われます。茉莉花はペルシャ語で神からの贈り物を意味します。茉莉花茶を一気にお飲みになりましたら、目を閉じてみっつ数え、ゆっくりと目を開けてください。故人様との面会が始まります」

 もしかして、と、はっとして右隣に視線を向けた。でも、やっぱり誰もいない。いや、居ないのではなく、見えないのだ。おそらく。そして、このお茶を飲むことによって、孝太の姿が見えるようになるのではないか。

「面会終了時間になりますと故人様のお姿は見えなくなり、お別れとなります。その後、また私がお茶をお持ち致しますので、お帰りにならずにそのままお待ちください」

 月花さんの美しい声がハウリングのように共鳴して聞こえ始めて、茉莉花茶の独特な華やぐ香りにぼんやりし始めた俺は、気怠い体をソファに沈めた。

「再度申し上げます。自己判断でお帰りにならぬよう、ご注意願います。ご自分の判断で部屋を出てしまいますと、故人様の魂は死神どもに持ち去られ、消滅されてしまいます」

 体が重だるく、眠いような不思議な感覚に包まれていく。

「それでは、茉莉花茶を全て飲み干してください」

 月花さんの声に操られるように、ガラスのカップのお茶を一気に飲み干した。

「目を、閉じてください」

 彼女の美しい音色のような声は、すんなりと俺の体の奥底にまで落ちていき浸透した。指示通り、目を閉じる。飲み込んだ茉莉花茶が胃の底に到達すると、じんわりとぬくもりが広がり、それはいつしか手足のつま先にまで巡った。清涼感のある甘い花の香りが鼻から抜けていった。

「では、みっつ数えて、ゆっくり目を開けてください」

 いち……に。さん。

「千隼」

 ……孝太、か。いま、右隣にあるこの気配は、本当に孝太なのか。顎の辺りから込み上げる感覚に奥歯を噛んで、ゆっくり、本当にたっぷりと時間を使って目を開けた。

「こう……た?」

  うつむいたままの視界の片隅に飛び込んできたのは、キャラメルブラウン色のローファーだった。白倉商業に合格したその日に一緒に靴を買いに行った時に、俺が選んでやった物だ。ちょっとあまり見ないレアな色のローファーで、孝太の目の色みたいじゃなぁ、そう言って俺が選んだローファーだ。そして、俺と同じ白倉商業の制服。

 俺はさっきよりももっと強く奥歯を噛み、気を緩めないように細心の注意を払いながら、ゆっくりと視線を上げていった。

 こんがり日に焼けた左手の甲と、いつもグローブの中にあった日に焼けていない右手の甲。シャープな顎のライン。普段は無口なくせに、笑うと無防備になって大きな口からこぼれる白い歯。切れ長でややつり上がり気味の目。そして、陽光を跳ね返して眩く煌めく瀬戸内海の水面のように、それはそれはミステリアスなヘーゼルアイ。

「千隼」

 ゆっくりと顔を上げた右隣には肉付きも顔色も良いあの頃の、小麦色に焼けた肌色の、病気になる前の孝太が見慣れた制服姿で微笑んでいた。

 カクカクと小刻みに震える手で、孝太の左手を握ってみる。その確かな体温に触れた瞬間、くっ、と必死に堪えていた声が漏れた。なんて、温かいのだろう。

「……孝太ぁ」

 もう、二度と会えないと思っていた。

 あの日、どんなに名前を叫んで、目を開けろと頼み込んでも、返事が返ってくることはなかった。

 孝太が生きていることは当たり前なんだと思っていた。明日も明後日も、孝太は当たり前に生きているんだと思っていた。いなくなる日が来るなんて、考えたことさえなかった。俺と孝太はじいちゃんになってもずっと一緒にいるんだろうなと思っていた。

 だから、孝太に話したいことがあっても、後回しにした日ばかりだった。明日があるから、明日が無理でも明後日があるから、急ぐ必要なんてないと思っていた。いつでも話せると思っていた。

 その割には、伝えたいのに、いざとなると素直になれなくて言えなかった言葉がたくさんあった。一緒にいることが当たり前だったから、照れくさくて伝えられない言葉だらけだった。

 また後でいいか、また明日でいいか、そのうちでもいいか、で済ませた時間がそのままになったまま、永遠の別れになってしまった。それでもこうして会ってみれば、思い出すのは孝太と過ごした楽しい時間ばかりだ。

 ただ、会いたかった。ただとにかく、孝太に会いたくて、伝えたくて、毎日どうしようもなかった。

「孝太ぁ……あぁっ……」

 俺は孝太の左手を強く強く握り締めて、あふれる涙を止めることができなかった。

「会いたかったんじゃぁ」

 頭のネジが緩んで外れたようにおんおん泣くからなのか、

「千隼? ええぇっ?」

 大丈夫か、なんて驚いたように孝太がぎょっと目を見開く。

 ああ、いつ見ても。相変わらず綺麗な色の瞳だなあ。万華鏡みたいに美しい瞳だ。こげ茶色、深緑色、金色、琥珀色。孝太の瞳は何種類も色が混ざり合っていて、見る角度や光の具合で全く違って見える。

 その宝石みたいなミステリアスな色の瞳には数えきれない程の夢が詰め込まれていて、いつだってキラキラに輝いていた。

「お前に……まだ言いたいことが、山ほどあるんじゃ……っ」

  孝太。お前のその左腕には、希望に満ちあふれた明るい未来が詰め込まれていた。初めて出会ったあの暑くて空が青く澄んでいた夏の日から、鳴瀬孝太は俺の夢であり俺の未来そのものだった。

 いつしか孝太の夢は、俺の夢になった。

「孝太っ……お前は、俺の……夢そのものだったんじゃあ」

 神秘的な色にくるくると変化しながら輝く瞳に涙の膜をふっくらと張って、孝太はどこかもの寂しげに、とても静かに微笑んだ。


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