離婚を切りだしたら無口な旦那様がしゃべるようになりました
 斬られた拍子に崩れた土砂とともに谷へと傾れ落ちた。
 しかし幸いなことに、途中の足場に引っかかり、谷底まで転落するのは免れたらしい。
 そこから先の記憶は朧げだが、意識が朦朧とする中、どうにか歩いていたように思う。
 草をかじって水分と栄養を補い、飢えを凌いだ。むやみに動かず体力を温存し、太陽と地形を頼りに、少しずつ脱出の方角を探った。
 やがて、川辺で魚を獲っている人影を見つけ、安堵したせいか意識がそこで途切れた。

(……戦場経験は実に役立つ)

 フィリクスは胸中で呟く。

 しばらくすると老婆の旦那が戻ってきた。
 フィリクスは老爺に向かって礼を言う。

「命を救ってくれたことに感謝する。礼はのちほど必ずしよう」
「礼なんぞいらん。この村の者は助け合って生きている。当たり前のことをしただけさ」

 フィリクスは頷き、体を起こして立ち上がろうとした。しかし体に激痛が走り、呻きながらうずくまる。

「まだ安静にしたほうがいい。あんた、頭も割れているようだからな」
「……しかし、俺は帰らねばならない」
「すぐには無理だよ。治るまでここにいたほうがいい」
「それでは、間に合わない」
「何をそんなに焦っているんだい?」

 フィリクスは最悪の想定をしていた。
 脳裏によぎるのは、グレゴリーとの契約のことだ。
 このままじっとしているあいだに、侯爵家が乗っ取られるだろう。

(そんなこと、させてたまるか!)

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